魔法の鏡
「やぁ、軍曹」
エドワードが来なくなって数日してから、廊下を歩いていたら司令官に呼び止められた。
嫌々ながらその前へ行き、敬礼をする。話をしたくはなかった。この気持ちが落ち着くまでは、顔を見たくないし声も聞きたくない。
司令官はちらりとまわりを見回して、誰もいないのを確認してから声を潜めた。
「こないだ、あの子がうちに来てね。ふられたと言って泣いてたんだが」
「…………はぁ」
どういうことだ。彼はそんなことをいちいち報告しているのか。そして上司はそれを黙って聞いているのか。
泣いてた、なんて。
言われても自分にはどうしようもないのに。
「きみはあの子を気にいっているのかと思ってたよ」
「………………はぁ、まぁ………」
どう答えればいいのかわからないので、適当に言葉を濁した。気にいっているどころではないのだが、それを正直に言う気にはならない。
司令官は肩を竦め、ちらりとまた周囲を見回した。
「あの子はきみが本気で好きなんだよ。いつからかな。……多分、初めて会ったときからだろうな」
「………」
最初に廊下ですれ違ったとき、彼がこちらを振り向いて見つめていたことを思い出した。
「ま、こういうことは当事者同士の問題だからな。きみにも趣味や好みはあるし、男は嫌だと言うなら仕方がない」
「…………失礼ですが、」
どうにも黙っていられなくなって、司令官の言葉を遮った。
「鋼の錬金術師殿は、お付き合いされている方がいらっしゃると聞きましたが」
聞いただけではなく、鏡を通してこの目で見た。目の前の男の部屋で、真っ赤になって俯くエドワードを。
好きなのも付き合っているのも、あんたじゃないのか。
「……ああ。噂を聞いたのか」
司令官は頷いてくすくす笑った。
「なんだ、それで遠慮したのか?」
「…………遠慮、ではなくて………」
からかわれたに決まってると言ったら、不敬罪に問われるだろうか。
司令官はまだ笑みを残した顔で、一歩こちらに近づいた。肩に手を置いて、内緒話をするために顔を寄せてくる。
「……そうだな。あの子は可愛いし、とてもきれいだ。私には男色の趣味はないが、あの子ならいけるかもしれないな」
「…………大佐、」
あからさまに動揺したのがわかってしまったらしい。司令官はまた笑って、肩をぽんと叩いた。
「ま、私が独身だったら、の話だ」
「………は?」
目が丸くなったのが自分でわかった。間抜けな顔をしているだろうと思うが、どうしようもない。
「私はすでに結婚しててね。あいにく妻をとても愛しているので、別れる気はないんだ」
悪戯っぽく笑う司令官は、童顔のせいか年よりずいぶん若く見えた。
「え……でも、あの……」
司令官の手に指輪を見たことはないし、既婚だという話も聞いたことがない。
そう言うと、司令官は当然だと頷いた。
「公表してないんだ。妻も軍人でね、仕事に支障が出そうだからと言われて。だから、腹心たちしか知らないよ」
司令官は内緒だよと唇に指を当てて片目を瞑ってみせた。
「………いったい、どなたが奥様なのですか?」
耐えきれずに聞いてしまう。にわかに信じられる話ではなかった。
「うちの副官だよ。もう長い付き合いだが、なかなか籍を入れさせてくれなくて。公表しないという条件で、やっと結婚してもらえたのが3年前だ」
司令官の副官。金髪が美しい、凛とした雰囲気の女性だ。
顔は知っていたが、話をしたことはない。彼女を狙う男は多かったが、恋人はいないという噂だった。
「妻もあの子を気にいっていてね。よく飯を食わせたがるんだ。料理の腕前はなかなかなんだ、そのうちきみも招待しよう」
ああ、そうか。
彼が司令官の家にいるのを鏡で見ていたとき、たくさんの料理が並んでいることになんの疑問も持たずにいた。
司令官や彼の前に置かれた飲み物も、皿に盛られたお菓子なんかも。
あれは彼女が用意していたのか。鏡に映ることがなかったのは、キッチンで忙しくしていたからなのだろう。
納得すると同時に、彼の顔が浮かんだ。
泣きそうな顔で笑った、あのときの顔。
『ごめんな』
遊びでも冗談でもないことは、あの表情でわかったはずなのに。
「わかってもらえたようだな」
司令官にはこちらの気持ちはお見通しなようだった。
「で、軍曹。もう一度聞くが、きみはあの子をどう思ってる?」
「………」
司令官に言うのは勇気が要った。あの子は自分の上官なのだから、本来ならこんな言葉は許されるものではない。
けれど、それでもやっぱり。
「好き、です」
言わずにはいられない。
司令官の瞳を見つめ、はっきりと言葉を紡ぐ。
「好きです。一目惚れでした」
うん、と頷く司令官は優しい瞳をしていた。可愛い部下の想いが一方通行じゃなかったことに安心したのだろう。
「しばらくはあの子には任務は与えない。その間に話し合って、お互いの気持ちをしっかり確認しなさい」
「ありがとうございます」
そのとき、廊下の向こうから早足でやってくる女性が司令官に向かって声をかけた。
「大佐!いないと思ったら、またこんなところで遊んでらっしゃるんですか」
司令官の副官だった。眉を寄せて上司を睨む彼女の手には書類の束が握られている。
妻だと聞いたばかりだが、そんな様子はみえなかった。公私をきっちり分ける性格なのかもしれない。
「すぐ戻るよ」
両手を挙げて降参のポーズを取る司令官に、副官は容赦がない。手にした書類を突きつけて、司令官が嫌な顔をするのもお構い無し。
「軍曹、あなたも仕事に戻りなさい。時間をとらせて悪かったわね」
司令官に対するよりはいくぶん優しい声で言われ、敬礼で答えた。
「は。では失礼します、中尉」
女性といえど上官。踵を鳴らして姿勢を正し、司令官とその副官が頷くのを待って踵を返した。
エドワードと話をしなくては。
謝ったところで許して貰えるかどうかはわからない。もう自分のことなど嫌いになってしまっているかもしれない。
それでも。
だが、話をすることはできなかった。
数時間も経たないうちに、テログループに鋼の錬金術師が捕らえられて人質となったという報告が舞い込んできたからだ。
現場に召集され、到着してみるとすでに野次馬がたくさん集まっていた。アジトがあるビルの周囲にはロープが張られ、数人の軍人たちが野次馬整理に当たっている。見上げたビルのはるか最上階のベランダからは、男がひとり地上を睨んでいた。
「あれがテロリストですか?」
無線を操作していた軍人は、頷いてから近くに停めてある軍用車を指した。
「もう大佐が部下を連れて上がって行かれましたよ。鎮圧は時間の問題です」
「鋼の錬金術師殿は無事なんでしょうか」
「……ああ、そういえばあなたは仲良しでしたっけ」
彼は目立つし人気者なので、最近よく話をしていた自分もついでに注目されていたらしい。
「それについてはまだなにも。無事なんじゃないでしょうか」
だったらいいな、という口調。
不安は募るが、自分にはなにもできない。
任された仕事は、交通整理。
野次馬たちを押し戻し、渋滞する車たちを誘導し。
そうしながらも、何度もビルを見上げた。
金色はまだ見えない。
やがて、見上げた先で男がいる部屋から閃光が走った。
錬成光だ。
そう思う間もなく、銃声や悲鳴、怒声などが地上にも届いてくる。野次馬たちが怯えたように後ろへ下がった。
突入は成功したようだった。
あとは、彼が無事であることを祈るのみ。
ポケットにそっと触れた。
そこには、錬金術を使うときの道具が未練たっぷりにいまだに入っている。
これが使えれば。
自分だって、彼を助けにあそこへ行けたかもしれなかったのに。