知らない世界の、知らないきみと
◇◇◇◇
事務所には、まだ誰も帰ってきていなかった。何台かの普通車が並ぶ駐車場に、向きを変えてトラックを停める。大型での車庫入れは難しいんじゃないかと思ったが、そうでもなかった。むしろ普通車よりも楽なほどだ。直線でできたボディと、左右についた大きなミラー、それにバックモニターという、死角になる真後ろを見ることができる機械のおかげで、どうにか真っ直ぐに頭を入り口に向けて停めることができた。
ライトが照らす柵は曲がっていて、その下に赤い破片が散らばって輝いている。
「オレ、ちょっと掃除しとく。踏んでパンクとか嫌だし」
鋼のがひらりと飛び降りて、事務所の脇にある物置に走っていった。それを見送ってから、ヒューズが柵のほうをもう一度見る。
「車体を擦ったとき、マーカーも割れたんだろ。明日直しとかねぇとな」
「………………」
ハンドルに顔を伏せ、ため息をつく。最後の最後になって、気が緩んでしまったのか。せっかくどうにか無傷で帰ってきたのに。
「でも、たいしたもんだよ、おまえ」
ヒューズが私の背中をぽんと叩いた。
「初めて乗ったとは思えなかったぜ。普通車しか乗らねぇ奴がトラックに乗ったら、まともに運転できるようになるまで10日はかかるからな」
「………人間、必死になればなんでもできるということか。だが、最後にこれでは、台無しじゃないか」
ヘタクソ、と何回鋼のに言われただろうか。思い出すだけで心臓が抉られるように痛む。
「…………こちらの私は、運転がうまいんだろうな……」
「そりゃあ、まぁプロだしな。けどそん中でも、ロイは特別上手かったぜ。特に飛ばすわけでもねぇのに、なんていうか。減速も加速も、曲がり方も。他の奴とは全然、レベルが違うっつーかな」
ヒューズがこちらの私を褒めまくる。免許証で見た写真の薄ぼんやりな顔と、今の表現はまったく全然一致しないんだが。それともトラックとは、薄ぼんやりでなければ上手く運転できないものなのか。
「正直、オレはあれを見てトラックに乗りたくなったんだよな」
ヒューズが懐かしそうに言う。
「あんなふうに、自由自在にでっかい車を操れたら、楽しいだろうなってさ。なんか、いつもオレはおまえの後ろばっかり追いかけてる気がするな」
ははは、と笑うヒューズ。
「いや、あっちの世界じゃおまえのほうが上だったぞ」
「そうだったか?」
「二階級特進だ。私より先に将軍になった」
「ああ、二階級特進ね。死んでちゃ意味ねぇよなぁ」
くすくす笑うヒューズに、感じていた疑問を口にしようかと思って、やめた。
おまえは、なぜ鋼のが私を大佐と呼ぶのを知っていた?
私は自己紹介で、地位は准将だとしか言ってない。
鋼のが私を昔の階級で呼ぶのはもう癖のようなもので、それを知っているのはごく親しい者だけ。もちろんここでは、誰も知らない。鋼のにすら言ってない。
それを、なぜ。
「掃除したよ!」
鋼のが戻ってきた。
「ヒューズさん、降りれる?」
「大丈夫大丈夫。もう痛みもだいぶ引いたし、一人で降りれるよ」
後ろから出てきたヒューズが、トラックから降りた。ポケットから鍵を出し、私を振り向く。
「ロイ、送ってくから来いよ」
「ああ、悪いな」
運転席から降りて、ドアを閉めてからトラックを見上げた。
体が覚えていたとでもいうのだろうか。確かに緊張しすぎて色々失敗はしたが、走り始めてからはあまり苦労せず運転できたような気がする。
車に乗るのは、あまり好きではなかったはずなのに。
今は、トラックから降りてしまうことが惜しいと思う。
もう少し乗っていたい。運転して、もっと遠くへ行ってみたい。
知らない場所へ行き、知らない景色を見たい。
これはどういう感情なんだろう。今までこんなこと、思ったこともないのに。
最初は怖かったのに。
慣れてくるとその恐怖が薄れ、次に生まれてきたのが、楽しいという気持ち。
楽しかった。
また乗りたい。ずっと乗っていたい。
とても、楽しかった。
「………なるほどな。だから、運送屋か」
呟いて笑う。
こちらの私も私ならば、こんな肉体労働みたいな仕事なぞせずに、もっと違う仕事をすればいいのにと思っていた。私なら、頭を使い策を練り、どんな企業でも大きな利益をあげることができるだろう。きつい割には実入りの少ない、辛いばかりのこんな仕事など、選ぶ私の気が知れない。
そう思っていたのに。
「どうした、ロイ」
自分の車に乗り込んだヒューズが、怪訝そうな顔で私を見る。
「いや」
そちらへ行って助手席にまわり、ドアを開けた。
「あっちで行き詰まったら、軍を辞めて運送屋でも始めようかと思ってな」
「はは。おまえなら、きっと成功するだろうな。けど、」
ヒューズはエンジンをかけて、妙な形をしたシフトレバーを動かした。
「おまえは絶対、軍は辞めねぇよ。てっぺん取るまでは、な」
前を向いたまま言うヒューズに、そうだなと頷く。
私の生きる場所は、ここではない。
血と硝煙の匂いと、爆風に飛び散った瓦礫の上で、手袋をはめた指先を敵に向けて擦る。
平和なんていう言葉が机上の空論でしかないあの世界で、私はそうやって生きてきた。
これからも、私の居場所はあそこだけだ。
「………ところでヒューズ。足を怪我しているのに、どうやって運転しているんだ?」
「これオートマだからよ。右足が無事なら大丈夫なんだ」
オートマとは、いったい。
3人で食事をして、朝リザに引っ張られて出てきたマンションに戻った。出たときは気づかなかったが、結構いいマンションなんじゃないか。きれいで新しいし、眺めもよかった。周囲の建物と比較しても、なかなかいい物件だと思う。
なのに室内はなぜあんななんだ。多分他の部屋はそれなりなんだろうが、私のいたあの部屋は安いアパートよりも質素で殺風景だった。しかも汚いし。
そりゃ私だって一人暮らしのときは掃除もまったくしなかったし、片付けもほとんどしなかった。だが、あれほどにはなってなかったというか。今は鋼のがいて、頑張ってくれているおかげで快適に暮らせている。こっちの私も、早く結婚すればいいのに。そうすれば少しはマシな生活ができるだろうに、なにをやっているんだ。バカなのか。鋼のに他に虫がついたらどうするんだ。
そこまで考えて、ちらりと鋼のを見た。トラックの助手席でぶち切れていたとは思えない、天使のような無垢な笑顔。
大丈夫なのか、あいつで。
本当に、幸せにしてもらえるんだろうか。
「どしたのロイ。ほら、こっちだよ」
一緒に車から降りた鋼のが、マンションの中へと手を引く。振り向くと、ヒューズがこちらに手を振っていた。
「ヒューズ!」
もしかしたら、今夜戻れるかもしれない。そうしたら、ヒューズやこちらの鋼のとはもう二度と会えないだろう。
「鋼のを頼んだぞ!こっちの私がもし鋼のを泣かせるような真似をしたら、私のかわりにぶん殴ってくれ!」
「わかった」
ヒューズは笑いながら頷いた。
「まぁ心配はいらねぇと思うけどな。泣かされるとしたら、おまえのほうだ」
……うん。そうかもしれない。
「元気でな、親友!頑張れよ!」
もう一度手を振って、ヒューズが帰って行った。
鋼のが私の手をぐいぐい引っ張る。
「恥ずかしいから、そういうの言うのやめろってば!早く行こ!」
赤くなった鋼のと一緒に、エレベーターで5階へ。そこからすぐが、私の部屋だった。
朝見たときと同じ、散らかった部屋。家具もろくにないそこを、鋼のが慣れた様子で奥へと進む。
「風呂どうする?お湯入れようか?」
「きみが一緒に入ってくれるなら」
「あっはっは。じゃあシャワーかな。はい着替え」
わりと本気で言ったのだが。軽く流されてちょっと落ち込む私に、鋼のが冷蔵庫を開けて言う。
「ビールあるけど、どうする?飲むならなんかおつまみ買ってくるよ」
ビールか。そういえば、ここのところ忙しくて飲む暇もなかったような。
私が頷くと、鋼のは玄関へ走っていく。
「ロイの車、借りるね。なにがいい?」
「適当でいいよ。どんなものがあるのか、まったくわからん」
玄関が閉まってから、私は狭い浴室に入った。シャンプーが二種類あるのを見て、笑みが浮かぶ。ひとつは鋼の用だろう。うちでも二種類置いていた。あの子の髪は美しくて、トニックシャンプーなんか使わせたくなかったから。
滑らかでさらさらの、金の髪。
もう何年も会ってないような気持ちに、恋しさが募る。
会いたい。
素直で優しくて可愛い鋼のも、獰猛で狡賢くて口汚い鋼のも、どちらも同じ鋼のだ。ならば、私の鋼のにも素直で可愛い部分があるに違いない。
ベッドに寝転んで天井を見ながら、帰ったらまずなんて言おうかと考えて。
ゆっくりと意識が沈み、瞼が閉じていく。
体が重くなり、なのに浮いているような不思議な感覚。
ドアが開く音がした。
「ロイ?寝ちゃったの?」
がさがさとコンビニの袋を置いた鋼のが、側に来たようだった。
鋼の、と呼びたいのに、唇が動かない。
そしたらそこに、ふわりと触れた柔らかな感触。
夢、かな。
そう思ったあとは、もう落ちていくばかりで。
気づくと、暗闇の中を歩いていた。
夢だな、と理解して歩き続けた先から、誰かの気配。
歩いて来たのは、私と同じ顔をした男だった。