魔法の鏡
エドワードはそれから、仕事でいないとき以外は数日ごとに来てくれた。
掃除をしてくれて、洗濯をしてくれて。ときには食事まで作ってくれたりもする。
一緒にいる間の話題は主に錬金術だ。彼の豊富な知識についていくために、また勉強せねばならなかった。だが、ころころと変わる可愛い表情を間近で見るためならと書籍を探して本屋をめぐり、そのことでまた彼との時間が増える。
諦めなくてはならないと思っていたことなんて、忘れかけていた。
エドワードが来ない日、帰宅して久しぶりに鏡を出した。ストーカーのようだと気づいてからはなるべく見ないようにと自重していたが、いったん気になると止まらなくなってしまう。
彼は今なにをしているのだろう。よそに行くとは聞いていないから、自宅にでもいてのんびりしているんだろうか。
鏡に映ったエドワードは、立派なリビングのソファに座ってにこにことおしゃべりをしていた。
見覚えがあるそこは、鏡で何度も見た司令官の自宅のリビングだ。向かいのソファに座った司令官は私服で、今日は酒ではなくコーヒーを飲んでいた。
『そんなに好きか?』
唐突な司令官の問いに、エドワードはぴたりとおしゃべりをやめて目を丸くした。
『え?いや……』
『隠してもダメだよ。きみはすぐ顔に出るから』
くすくす笑う司令官に、エドワードが真っ赤になった。俯いてそれを隠しながら、前髪の隙間からそっと相手を見る。
『………でも、オレ男だし。気持ち悪くねぇ?』
自信なさげな声。膝に置いた手が震えていて、彼が本気なのだとわかる。
『まぁ、普通にそのへんにいる男ならな。気持ち悪いというか、ムカつくかもしれん』
司令官は頷いて、また笑った。
『だが、きみは別だよ。きみなら男だろうが女だろうが関係ない』
『………そうかな』
『自信を持ちなさい。きみは充分魅力的だよ』
エドワードはますます赤くなって、ますます俯いた。
ソファに埋まりそうな小さな部下を見る司令官の目は、職場では決して見せない優しく慈愛に溢れたもので。
鏡を伏せて置いた。
手を離せば、もう声も聞こえなくなる。
ああ、やっぱりそうだ。
はなから手の届く相手ではなかったのだ。
彼にとって自分はただの部下で、もと錬金術師というだけで。
鏡を掴んで、そのまま壁に向かって投げた。
がしゃんと派手な音がして、鏡面が砕け散った。細かな細工の骨董品は床に転がり、柄の部分が欠けた。
きらきら輝く残骸を見つめて深く息をついたとき、自分が泣いていることに気づいた。
エドワードは悪くない。
仲間意識とか、親愛とか。それで近づいてきてくれた彼を、勘違いして図に乗ったのは自分だ。
毎日見つめていたから。
忘れていた。
自分は彼をよく知っているが、彼は知らない。つい最近親しくなっただけで、付き合いは司令官とのほうが何倍も長い。
当たり前じゃないか。
彼があっちを好きになるのは、当然のことじゃないか。今さらこんなふうに泣いてどうする。
勝手に片思いして勝手に失恋しただけ。
彼はなにも悪くない。
ため息をついて立ち上がり、そのままベッドに潜りこんだ。
もし鏡が割れなかったとしても、二度と覗く気はなかった。
「わ!どしたのコレ」
翌日訪ねてきたエドワードは、部屋に散らばった破片を見て驚いた顔をした。
「ああ、すいません。うっかり割ってしまいまして」
言いながら、ついエドワードの顔を見つめてしまう。
昨日はあれから、どうしただろうか。
司令官がこの子をふるとは思えないし、うまくいったんだろう。もしかしたら泊まっていたのかもしれない。
「もったいねぇな、コレ。アンティークだろ?」
エドワードは慣れた様子で箒と塵取りを出してきて、破片に近よった。
「あんたは?怪我とかしなかった?」
「…………ええ。ありがとうございます、大丈夫です」
気遣わないでくれと言えたら楽なのに。
司令官と恋人になれたのなら、うちに来ないであっちに行ったらどうなんだ。
まるで当たり前みたいな顔で掃除をする背中が、憎くて愛しくてどうしようもない。
「………どうして、そこまでしてくださるのですか」
「え?」
聞きたくなくて避けていた質問を口にすると、エドワードは塵取りを持ったまま振り向いた。
「もうお見せするような本はないのに、わざわざ来て掃除まで。どうしてでしょうか」
答えなどわかりきっていて、それをエドワードの口から聞くのが怖くて避けていた。
けれど、今は逆だ。はっきり聞きたいし、そしてもう来ないでほしい。実らない片思いに焦がれるのは疲れた。
「………なんでって、」
優しい彼が言い淀むのは想定していた。
が、そんなふうに赤くなるとは思わなかった。
「…………迷惑、だったかな………」
真っ赤になって、エドワードは目を逸らした。恥ずかしそうにもじもじしながら、ちらりとこちらを見る。
「迷惑とは思っていませんが、あの……ただ、どうしてかなと……」
くらくらしてくる頭をどうにか必死に落ち着かせ、なるべく冷静な声を出した。
この子のこれは無意識なのか。
誘うような視線に、頭の芯が燃えるように熱くなる。
「………えーと」
エドワードは俯いて、小さな声を絞り出した。
「…………オレ、あんたのこと……好き、なんだ………」
「…………………」
一瞬舞い上がりかけた心に、昨日鏡で見た記憶が蘇る。
司令官と、この子はどんな話をしていた?
なぜ、自分にそんなことを。
自分がこの子を好きなのを知っていて、からかっているのか。
それとも、二股をかけようというつもりなのか。
遊びで言っているなら、たいした子だ。そんなふうには見えないが、じつは結構遊んでいるんじゃないのか。
一気に冷えた頭で、冷静になってエドワードを見た。
彼はその場に立ったまま、こちらがなにか返事をするのを待っているようだ。
期待と不安に揺れる金色の瞳。
昨日、司令官にもそんな目をしていたくせに。
「…………私には、お応えできかねます」
「………………」
罵倒したい気持ちを押さえてそれだけ言うと、エドワードは頷いた。
「うん。そうだよね、やっぱ」
無理に作ったのがわかるような笑顔で、彼は箒と塵取りを片付けた。
「ごめんな軍曹。気持ち悪いこと言っちゃって」
もう来ないから。ごめんな。
彼はそう呟くように言って、部屋から出ていった。
彼がきれいにしてくれた床に座りこみ、窓を見る。
泣きそうな笑顔だった。
目には涙もたまっていた。
追うべきなんだろうか。
どうしたらいいのかわからない。
鏡は割れてゴミ箱にあり、もう彼を見ることのできるものはなにもなかった。