魔法の鏡





仕事から帰ると、着替えもそこそこに鏡を出して眺める。
彼が映るのは、自分が鏡を手に持っているときだけだ。なので食事も片手で適当に済ませ、あとはなにもしない。ひたすら鏡を見つめ、エドワードを見つめた。

時々、彼は食事に行く。
司令官の部下たちだったり、他の軍人たちだったり、相手はそのときによって様々だ。
だが、一番多く一緒に行くのはやはり司令官だった。
地位が高いと給料も違う。エドワードは司令官に連れられて高級レストランへ行ったり、司令官の自宅に招かれて色んな料理を振る舞われたりした。そんなとき司令官はいつも、高い酒をのんびり飲みながら彼を優しく見ていた。

たまに聞く噂がある。
司令官とエドワードが、密かに付き合っているのではないかと。

エドワードが司令部にいるときはたいてい司令官の部屋にいる。書庫にいたり資料室にいたりするときは、司令官自らがエドワードを呼びに行く。
下世話な者が怪しむのも当然かもしれなかった。

鏡に、そんな場面が映ったことはない。
抱き合ったりキスをしたりといった、そういう決定的な場面は一度も見ていない。彼は食事が終われば明るく手を振ってさっさと自宅に帰るし、司令官も引き留める様子はない。

違うかもしれない。
いや、噂の通りなのかもしれない。

ただの部下、しかも部署も違う下士官で、たった一度しか口をきいたこともないような自分では、確かめることはできなかった。








1年が過ぎた頃。

昼食を取るために食堂へ歩いていた自分を、呼び止めたのは司令官だった。
鏡の中以外ではろくに顔を合わせたこともない上司の元へ急ぎながら、なにかしただろうかと考えた。特に失敗をした覚えはないが、叱責を受ける以外で司令官が自分になど用があるとは思えない。

落ち着かない気持ちで廊下に立つ司令官の前へ行き、足を揃えて敬礼した。
「なにかご用でしょうか、サー!」
「ああ、いや。話がしたかっただけだから、楽にしてくれ」
司令官は笑顔だった。どうやら叱られるわけではないらしい、と少しだけ安心しながら手を下ろす。足は揃えたまま、背筋も伸ばしたまま。両手を体につけ、まっすぐに立って司令官の次の言葉を待った。

「……錬金術は、もう忘れたのか?」

「は……?」

いきなりの問いに、戸惑った。

「いやね。きみの才能は、このままにするには惜しいと思ってね」

「………………」

錬金術。
それで思い浮かぶのは、あの街だ。
血まみれで泣き叫ぶ市民たち。崩壊していく建物。
それはすべて自分がしたことだ。その場の指揮を取っていた、少佐だったときの自分が。

もう人を殺すのは嫌だ。
しかしそれを口に出してはいけない。自分はまだ軍にいるのだから。

「いろいろあったのは聞いてる。きみが辛い体験をしたことも」

司令官は微笑んでこちらを見つめていた。
その一歩後ろで、エドワードが俯いていた。

「だが。今は国は安定しているし、平和を保つ努力はしているつもりだ。きみもそろそろ、本来の自分に戻るべきじゃないのか」

「…………本来の、」

「そう。錬金術師として、国の平和のために尽力する。それが本当のきみの姿だと思うがね」

「………………はぁ」

そうは言っても。
錬金術を使おうとすると蘇る記憶は、何年経っても消えることなく鮮明だ。
そのたびに、頭の中の理論も構築式も霧散してしまう。どうしたらいいかなんて、考えることはとっくに諦めてしまった。

「………自分はもう、」

「いや。きみはまだやれるさ」

もそもそと呟くような言葉を遮って、司令官は自信に溢れた声を出した。

「きみなら。そう思ったから、国境から呼び戻したのだからね」

「…………え」

ただ単に、抜けた頭数を埋めるために適当に選んだのかと思っていたのに。

戸惑う自分の顔は、きっと困ったような表情だったのだろう。司令官は苦笑して、ちらりと腕時計を見た。

「すまん、時間を取らせたな。昼休憩が減ってしまった」

「いえ。ありがとうございます」

まだ必要とされる存在だなんて、思ってもみなかった。その期待に応えることができるかどうかはともかく、そのことに対しては素直に嬉しくて、自然と深く頭を下げることになった。

「では、休憩に行ってきなさい。そろそろ食堂も空いてくる頃だ」

「はい」

失礼します、と敬礼しようとしたとき、司令官は唐突に後ろを振り向いた。

「一緒に行ってきなさい。資料室の書類はそのあとだ」

司令官がそう命じたのは、後ろにいたエドワードだ。
固まる自分をよそに、司令官はさっさと執務室へと戻って行く。

「ちぇ。偉そうに」

唇を尖らせたエドワードは、こちらを見て歩き出した。

「じゃ、行こうぜ。エビフライランチ、まだあるといいけど」

行こうぜ。
それはもしかしなくても、自分が言われた言葉なのか。

「どしたの軍曹。早く行こうよ」

にっこりするエドワードに慌てて頷いてあとを追うと、彼は隣に来て歩調を合わせてくれた。

せっかちで早足な彼が、一緒に歩いてくれている。
しかもこれから、昼食を終えるまで一緒だ。
今日はいったいどんな日なんだ。天に昇りそうな気持ちで食堂に向かいながら、エドワードの可愛らしい唇から出るたわいのない話に耳を傾けた。

ひとことだって、聞き漏らしたくない。

だってこんな幸せ、もう二度とないかもしれないじゃないか。



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