魔法の鏡
それからは、暇さえあれば鏡を覗いた。
エドワード・エルリックはいつも可愛くて、傍若無人で乱暴だった。その見た目から想像していたものとはまったくかけ離れた、ぞんざいな口調と短気な性格。それでも明るくてよく笑うし、誰とでも親しくなる。どんな者にも手を差しのべ、分け隔てなく優しい。
見れば見るほどに惹かれ、そして彼の周囲にいる者たちに嫉妬した。
とくに司令官に。
自分より少し年上で、国家錬金術師。地位は大佐。部下思いで指導力もあり、その男のまわりは常に腹心たちが守っている。忠実な犬たちの中には、もちろんエドワードもいた。
まだこんな感情が残っていたとは。自分で自分を嘲笑った。落ちこぼれとエリートでは天と地ほどの差がある。嫉妬すること自体がバカだ。自分とこの男では、比べるまでもなく男のほうが上だ。きっとエドワードも、そう思うに決まっている。
惨めな思いをするだけだとわかっていても、一度でいいからエドワードに会ってみたいと思った。
一度でいい。
あの金の瞳に、自分を映してくれたら。
だが、こんな辺鄙な国境にあの有名な錬金術師が来るわけがなかった。それでなくても彼の上司は彼に与える仕事を選別しているようだったから、こんな雪深い山奥などに行かせるはずがない。
ただ鏡ごしに見つめるだけ。
焦がれながらも、それでも自分は満足していた。
きっと、会っても自分は彼の眼中にない。たとえ言葉をかわしたとしても、記憶の片隅にも残らないだろう。
そうして知らない誰かと幸せになる彼を直接見るくらいなら、鏡の中だけでいい。彼に存在を知られることなく、こっそりと想い続けていられる。
それなのに会いたいと願う気持ちは矛盾しているが、叶わないからこそ安心して願えるのだろう。会えば彼が永遠にこちらを向くことはないと思い知ってしまうから。
けれど、運命はそうはさせてくれなかった。
東方司令部で退職する者がいることは鏡で見て知っていたが、まさかその代わりが自分にまわってくるとは思わなかった。
辞令を持ってきた男は、よかったなと笑ってくれた。こんな場所にいるより、イーストのほうがいい。酒もあるし女だっている。そのうちには結婚して、小さな家庭も持てるだろう。
そう言って祝福してくれる男の言葉は間違ってはいない。どれもここでは手に入らないものばかりだ。
頷いて愛想笑いをし、引っ越しの準備にとりかかった。
エドワードがいる街へ行く。
彼に会える。
行ってもやっぱり下っ端の自分は、司令官直属のお抱え錬金術師であるエドワードとは接点はないだろう。
でも、彼を直接見ることができる。
もしかしたら廊下ですれ違うこともあるかもしれないし、なにかで言葉をかわすこともあるかもしれない。
嬉しくて舞い上がりながら軍用車でイーストに向かって走る間も、頭の片隅は冷静だった。
目立たないようにしなくては。
彼の目にとまらないように、できるだけ避けなくては。
自分は彼に選んでもらえるような男ではない。
それは自分が一番よく知っていた。
東方司令部は鏡でよく見ていたので、すぐに馴染んだ。司令官とは着任のときに挨拶をしただけで、あとは接点がない。エドワードを見かけることはなく、与えられた仕事に慣れることに努力しているうちに日が過ぎた。
鏡は相変わらず毎日見る。
エドワードは他の街に出張していて、もうそろそろ帰ってくる様子だった。
肩や足に傷を負っている。顔にも擦り傷。鏡で見ていた限りでは危険な仕事ではなかったはずだが、この子はどんなことでも危険な任務に変えてしまう妙な才能を持っている。医者にも見せずに消毒だけして済ませる彼に、大丈夫なのかと眉を寄せた。そんな心配、自分がしても意味はないのに。
数日後、司令部の廊下を歩いていると、向こうからエドワードが歩いてきた。
どきんと心臓が跳ねる。
悟られないように目を逸らし、そちらを見ないようにした。
彼はすたすたと歩いてくる。手に報告書があるから、司令官のところへ行くのだろう。
金の瞳には自分は映らない。
それが悲しくて、けれどひどく安堵した。
彼にとって自分は、ここにいるたくさんの軍人たちの一人だ。いわば風景と同じ。映っていても映っていない、そんな存在。
すれ違ってほっとして、それからつい振り向いた。
毎日鏡ごしに見ていた、愛しくてたまらない遠い存在。それを直接、後ろ姿でいいから目に焼きつけたくて。
そしたら金の瞳がこちらを見ていて、焦った。
彼はなぜだか振り向いていて、こっちをじっと見上げていた。
「…………なにか?」
慌てて笑顔を浮かべ、取り繕うためにそう言ってから、それから気づいた。彼は国家錬金術師で、地位は自分よりも上だ。敬礼も挨拶もしなかった。
怒ったのかもしれない。
そう思って焦る自分を見上げ、エドワードはにっこり笑った。
「あんた、新しく来た人だろ?」
「………あ、はい。ご挨拶が遅れまして……」
鏡で何度も聞いた声が、自分に向かって発せられている。
目眩がしそうだった。
「そんなんどうでもいいよ。あんた、錬金術師なんだって?」
「いえ……それは昔のことで………」
「今は違うの?なんで?」
「……………」
無邪気に輝く瞳に見つめられ、答えに詰まった。
正直に言えば、臆病者だと笑われるだろうか。
「まぁいいや。オレ、エドワード・エルリックっていうんだ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
躊躇いなく出された左手を握り返す自分の手が震えていることに、彼は気づいたかどうか。
じゃあね、と背を向けられてから気づいた。
名前も聞かれなかった。
彼にとって、自分はそれだけの存在なのだ。
知っていたくせに、それでも傷ついてしまう自分はバカじゃないのか。