魔法の鏡
『これを、おまえにやろう』
祖父から受け取ったのは、手鏡だった。
丸くて、持ち手がついて。形は普通の鏡だったが、裏にも持ち手にもとても細かい細工が施してあった。材質は銀だろうか。手作りらしきカバーのついたその鏡は、まだ子供で知識のない自分が見ても価値があるとわかるアンティークだった。
『いらないよ。男なんだから、鏡なんか見ないし』
慌てて返そうとしたのは、あまりにもそれが高価そうで気が引けたからだ。
『これは、昔もらったものでね』
祖父は穏やかに笑った。
『魔法の鏡なんだそうだよ。本当に好きな人が、これに映るんだそうだ』
『………それ、ほんと?』
『さぁな。わしにはわからんよ』
揺り椅子に座ったままの祖父が、手を伸ばしてきた。
されるがままに頭を撫でられ、また手に鏡を押しつけられる。
『いつか、おまえの恋人がそれに映るといいな』
からかうように言われ、そっぽを向いた。まだ恋なんていう言葉が照れ臭くて口に出せない年だったから。
祖父はそれからすぐに亡くなり、自分も家を出た。
錬金術を学び、エリートとして軍に入り、最年少の少佐になった。未来は大総統だと信じて疑わなかった。
が。
内乱が起き、国家錬金術師としてそこに召集された自分が見たものは、地獄だった。
街が爆破され、逃げ惑う人々が片っ端から撃ち倒されていく。瓦礫と死体で埋まったそこからは、死の臭いしかしない。
人が人を殺す。
それが理解できない。
軍は人を守るために存在するのではないのか。自分の錬金術は、人を殺すためのものではなく、街を破壊するためのものでもない。
どうして、すぐそこで人が死んでいっているのに笑って食事ができるんだ。慣れればなんてことない、なんて。そんなことに慣れたくない。もう相手は戦意を失っていて、勝敗はついているじゃないか。それなのになぜ、皆引き金を引き続けるんだ。
廃人のようになった自分は、錬金術を使えなくなった。
人を殺した、それが頭から離れなくて。
錬金術が使えなければ、自分はただの新兵だ。
降格されて左遷され、国境警備兵となった自分に与えられた階級は、軍曹。
多分もう、これ以上の昇進はない。
見回りを終えて、詰め所に戻った。外は吹雪で、体は芯から冷えている。暖炉に薪をくべてマッチで火をつけ、缶詰めの夕食をすませた。詰め所には他に誰もいない。ここは自分のような、他に行き場のない落ちこぼれの兵隊が行き着く場所だった。国境沿いに数キロ間隔で似たような詰め所があって、そこには似たような境遇の落ちこぼれが暮らしている。
すっかり暖かくなった部屋で、隅に置いたまま埃をかぶっている段ボール箱を見た。自分がここに赴任してきたときに持ってきたもので、中には本が入っている。
錬金術の本。
未練がましいことだ。必死に勉強していたときに集めた希少なその本たちを、自分はどうしても捨てることができないでいる。
箱を開けて中を見て、気まぐれに1冊を手に取った。
そのとき、箱の奥をちらりと見ると。
あの鏡が入っていた。
祖父からもらった骨董品。
乱雑な扱いを受けていたにも関わらず、鏡は割れもせずに美しい細工を煌めかせていた。
本を箱に戻し、鏡を手に取ってみた。
カバーを捲ろうとして、一瞬戸惑う。
きっと自分は今、ひどい顔をしている。生きる気力もなく、それでも他にどうしようもなくて軍にしがみついている自分の顔は、幽霊のほうがまだましといった様子のはずだ。
そんなものを見てどうする。またさらに落ち込むだけだ。
カバーをかけなおし、箱に戻そうとしたとき、祖父が言ったことを思い出した。
『本当に好きな人が』
鏡を持ち直し、カバーのかかったままのそれを見つめた。
好きな人などいない。少佐になったばかりの頃は自分も有頂天になっていて、たくさんの女と付き合ったりしていたが、降格されたあとも手を差しのべてくれるような女はいなかった。
山奥で、たった一人。
そんな自分が鏡を見て、誰が映るというのだろう。
あんなの、祖父の戯れ言だ。
そう思う気持ちが大半。
けれど、わずかながらももしかしたらという期待。
今日の分の仕事はすんでいて、あとは寝るだけの自分は暇なのだ。
だから、ちょっと試してみるだけ。あのときの祖父の戯れ言に、ちょっと付き合ってやるだけだ。
自分で自分に言い訳しながら、そっとカバーを外した。
鏡はなにも映していなかった。
なにも。
古びた詰め所の壁や天井、そしてそこにいて鏡を覗きこんでいる自分。
そういう、映ってしかるべきものも、なにも映していなかった。
驚いて、それから一人で納得する。骨董品のこの鏡がいつ頃作られたかは知らないが、鏡面を磨く技術がまだあまり発達していなかったに違いない。長い長い年月のうちに、表面に入った細かい傷などのせいでダメになってしまったのだろう。
なんとなくほっとして、苦笑した。
そして、カバーをまた戻そうと。
そのとき、鏡の表面が揺れた。
さざ波のような揺れが治まって、そこに人の姿が映りこんだときには、うっかり鏡を落としそうになってしまった。
そこに映った人物には、見覚えがあった。
金髪に、珍しい金瞳。真っ赤なコートを着て、どこか屋内を歩いているらしい小柄な体。
少し前に話題になった子供だった。最年少で資格を取った天才錬金術師、エドワード・エルリック。ひと月遅れで届く軍が発行する機関誌に確か載っていたはずだ。それを自分が覚えていたのは、単にこの子供がとても可愛らしくて美しい容姿をしていたからだった。
銘は鋼だったか。今は東方の司令官の元で仕事をしていると書いてあったと思う。
子供は元気よく、走るように歩いていく。手にはなにやら書類の束。
とある重厚なドアの前に立ち止まり、蹴破りそうな勢いでそれを開けた。
『うっす!報告書だぜ!』
『……もう少し静かに開けられんのか、きみは』
部屋の主らしい声は呆れているが、子供は気にした様子もない。ずかずか部屋に入り、足で蹴ってドアを閉める。がん、と固い音がしたことで、そういえば義手と義足だったと思い出す。
『はいこれ。読んでサインして返して。早く早く』
『なにをそんなに焦ってるんだ』
『駅前のドーナツが売り切れちゃうじゃんか!オレ、あれがねぇと仕事する気が起きねぇの!』
『それはまずいな。仕方ない、急ぐからそのへんで待っていなさい』
『早くね!』
部屋の主は司令官だろう。穏やかな声は無礼を怒るでもなく、子供を可愛がっているのがわかる。
早口でしゃべり、笑ったり拗ねたりとくるくる表情が変わる子供を鏡ごしに眺めて、そして気づいた。
好きな人がいない場合は、好きになる相手が映るのだ。
それが恋人になる運命なのかはわからない。
けれど、確かに。
自分は今、この子供に恋をした。