もうひとつの「黒と赤の夢」
夕方。
仕事を終えて自宅に戻り、飯を食ってたら弟が呼んだ。
「兄さん、携帯鳴ってるよ」
「ん?」
玄関に置きっぱなしのスポーツバッグから携帯を出す。画面には会社の同僚の名前。
「もしもし?」
『おう、エドか』
「なんかあった?珍しいね、電話とか」
相手はブレダさんといって、オレが入社したとき教育係として仕事を教えてくれた人だ。中型免許をとったばかりのど素人なオレに、運転の仕方や荷積みなどなどたくさんのことを教えてくれた。ちょっと強面でぶっきらぼうだから最初は怖い人かと思ってたけど、面倒見がよくて優しくて頼りになって。他の同僚とはあまり話したこともなくて親しいとは言えないけど、ブレダさんだけは別。今でも困ったことがあったら一番に相談したりしている。
そのブレダさんから電話。オレからかけることはよくあるけど、かかってくるのは珍しい。
『今日オレの車が車検でさ。おまえの車に乗ったんだけどよ』
「え、そうなんだ?掃除しとけばよかった。ゴミとか置いたまんまで、ゴメン」
『それはいいが。そんなことより、この名刺なんだがよ』
あ。あの変な社長さんに貰った名刺、放り出してそのままだった。
『知り合いなのか?』
「いや……うーん。コンビニで声かけられて、名刺貰ったんだけど」
『……コンビニねぇ…』
考えるような声に、なんだか不安になる。
「あの……なんかまずかった?」
オレみたいな平社員が、よその会社の社長さんに名刺を貰うなんておこがましかっただろうか。でもオレがねだったんじゃなく、勝手にくれたんだけど。
『いや、それはいいんだ。けど……この、名刺のこいつ。大丈夫なのか?』
「え?知ってる人?」
『………止まって飯食ってたら声かけてきたんだよ。トラックを見て来たみたいなんだが…おまえ、こいつになんもされてねぇか?』
「………へ?」
『エドワードはどこだって聞かれてよ。いねぇっつったら、おまえは誰だエドワードとどういう関係だエドワードに恋人はいるのか家はどこで休日はいつだ、とか色々……』
「………………」
変な人だとは思ってたけど、そこまでとは。
『とにかく、ありゃ危ねぇ。なるべく近寄らねぇほうがいいぞ』
電話を切って、黒い大型車を思い浮かべた。カーブばかりの山道を、滑るように抜けていく赤いマーカー。あっという間に見えなくなったあの車を運転していたのは、黒髪と黒い瞳の、あの変な社長さんだった。
「………そんな、危険な人だったかなぁ……」
確かに変わった人だと思ったけれど、そこまでおかしな人だという印象はない。態度も話し方もしっかりした大人の男という感じで。言ってる内容はまぁ変だったけど、疲れていたのかもしれないし。
一度会っただけのオレを、そんなに気にかけてくれるということは、気に入ってくれたのだろう。気にかけ方がまた変だけど、そこはまぁ置いといて。
「……あんなに運転が上手い人だもんな。多少変わってても不思議じゃねぇよ、うん」
頷いてから携帯をバッグにしまい、部屋に向かう。風呂に入ってさっさと寝なくては、また夜中から仕事だ。眠くてふらふらしていてミスとかしたら大変だし、最悪事故でも起こしたらどうしようもない。
ブレダさんの言葉は頭の隅に追いやることにして、オレは自分のやるべきことを優先することにした。
それからひと月ほど経った、ある日。
出勤すると、なぜだか事務所のまわりに社員のみんなが集まっていた。
夕方も過ぎた時間。普段ならみんな、仕事に出ているか帰っているかで、事務所には事務員が数人いるだけのはず。
なのに、なんでみんないるんだろう。滅多に見ない同僚たちが真剣な顔でなにか話をしていて、なんだか不穏な空気。
何人かがこっちを見る。その視線を避けるように目を逸らして、急ぎ足で事務所のドアに向かった。けど、開かない。鍵がかかっているようだ。
「………あれ?」
焦ってガチャガチャやってみたけど、やっぱり開かない。窓から中を覗いて見ると、明かりもついてない室内には誰もいないようだった。
「エド、」
後ろからかかった声に振り向くと、とっくに帰っているはずのブレダさんが立っている。一緒にいるのは、何度か顔を見たことがある同僚だ。
「無駄だよ。朝から会社には誰もいねぇよ」
「朝から?」
なんで?うちの会社、年中無休じゃなかったっけ?
「おまえは昨日休みだったな?」
ブレダさんの隣にいた同僚が、厳しい顔でオレを見た。
「う、うん」
戸惑いながら頷くオレに、同僚はため息をついて肩を竦めた。
「じゃ、知らなくて当然か」
「………なにを?」
「社長が夜逃げしたんだよ。この会社は、もう終わりだ」
「……………………」
なにを言われたのかわからなくて、ブレダさんを見る。俯いていたブレダさんは、オレをちらりと見てからまわりを見回した。
つられてオレも見回す。
たくさんのトラックや、荷を移したり積んだりするためのフォークリフトや、シャッターが開いたままの倉庫にあった荷物。
そういうものが、全部なくなっていた。
「………え……………」
オレが乗っていたトラックも、もちろんない。
事務所の前にみんながいて、なにかわいわいやっている。それに気をとられていて、気づかなかった。
なんにもない。
事務所の中をもう一度覗くと、奥にあった金庫が開けっぱなしになっていた。
「売れるモン全部金に換えて、トンズラしやがった。なんも残ってねぇよ」
「……………そんな、」
足元が揺らいだような錯覚に、思わずふらつく。
静かになっていた周囲が、またざわつき始めた。
「給料がまだだ。どうなるんだよ、オレたち」
「社長の行き先、誰か知らねぇんかよ」
「くそ、一人で逃げやがって。見つけたら締め上げてやる」
口々に言うみんなを見て、少しだけ冷静になった。
そうだ、オレはまだいい。実家に親と一緒に住んでいて、給料がなくてもとりあえず生活には困らないからだ。
家族を養っている人や、一人で生活している人。ほとんどの同僚がそうだ。オレなんかより、よほど切羽詰まった状況のはず。
「ま、ここにこれ以上いても仕方ねぇよ。行こうぜ、エド」
オレの肩をぽんと叩いて苦笑のような笑みを浮かべてみせるブレダさんも、アパートで一人暮らしだと言っていた。どうするんだろう、これから。
「……ブレダさん、」
「ここにいたって、社長は帰ってこねぇ。トラックもねぇんじゃ、仕事もできねぇしよ」
「………………」
呆然としたままのオレに顔を近づけて、ブレダさんが囁くような声を出す。
「ここにいちゃマズいんだよ。倉庫にあったのは客からの預かりの荷物で、社長の奴それも全部売っ払っちまってるんだ。それに債権者もじきに押しかけてくる。面倒なことになるぞ」
「わ、わかった」
力の入らない足をなんとか動かして、さっきエンジンを切ったばかりの原付バイクに跨がった。ヘルメットをかぶる間に、ブレダさんが自分の車のドアを開ける。
「ついて来い」
言われて頷いて、ブレダさんの車のあとを追って走り出した。振り向くとみんなはまだ事務所の前で話をしている。
トラックドライバーという仕事に憧れて憧れて、ようやく取った中型免許を握りしめて、何社も回った。どこも経験無しの素人のオレに、首を縦には振ってくれなかった。それでもトラックに乗りたくて、諦めきれずに募集を探して。
やっと採用してくれた会社。
やっと見つけた、居場所。
トラックにも仕事にも、なんとか慣れてきたところだったのに。
滲んだ涙をごまかすように首を振って、オレは前を見た。
これから、オレはどうしたらいいんだろう。
「ちょっと前から、噂はあったんだよ」
落ち着いたファミレスで、コーヒーを飲みながらブレダさんが言った。
「不渡りをやらかしたみたいでよ。おまえんとこ大丈夫か、なんて時々言われてた」
「不渡り……」
オレはそういうことには詳しくないから、よくわからなかった。要は支払い関係がうまくいってなかった、ってことなんだろう。
「まさか夜逃げされるとは思わなかったぜ。出勤して、なんにもなくなってんの見たときは目の前が真っ暗になったぞ」
肩を竦めて笑うブレダさん。確かに、もう笑うしかない状況だ。
「ブレダさんは今からどうするの?」
「あー……まぁツテはあるからよ。当たってみるかと思ってる。おまえは?」
「………………」
ブレダさんは他の会社のドライバーにも知り合いがたくさんいる。運送屋はどこも人手不足だし、キャリアのあるブレダさんならどこにでも行けるだろう。
でも、オレは。
まだまだ新米で、仕事をこなすことだけで精一杯だったオレには、他社の知り合いなんていない。キャリアもツテもないから、当然行き場もなくて。
俯いたオレの頭を、ブレダさんがぽんと撫でた。
「そんな顔すんなって。オレが責任持って、おまえと一緒に行けるとこ探してみるからよ」
「…………いいよ、そんな」
足枷になんてなりたくない。オレよりブレダさんのほうが大変なんだ。他人のことまで考えている余裕はないだろうに。
「他人、なんて言うなよ。おまえはオレの後輩なんだから、面倒みるのは当たり前だろ」
優しく言ってくれるブレダさんに、思わず涙ぐみそうになったとき。
「感動した!」
いきなり、後ろの席から強く肩を叩かれた。
「ツラに似合わずいい奴だなぁおまえ!オレは感動したぞ!」
ばしばしオレの肩を叩きながら、後ろの席の男がブレダさんに言う。
「ちょ、痛いんだけど!」
ブレダさんに感動したんなら、そっちを叩いてくれ。
そう言おうとして振り向くと。
「あ、悪ぃ。力入り過ぎた」
そう悪びれもせずに言った男の、蒼い瞳と目が合って。
「あ…………」
「おお!おまえ、あんときの!」
あのときと同じくタバコをくわえた金髪の男が、オレを見て笑顔になった。