もうひとつの「黒と赤の夢」
山々に響き渡るオレの悲鳴の余韻が消え、次にはスパーンという気持ちいいくらい軽快な音が響く。窓に手をかけたまま蒼い瞳をまん丸にして固まる金髪の男が、走ってきた黒髪の男に後ろ頭を思い切り叩かれた音だ。
「バカかおまえ!誰が脅かせと言った!?声をかけろと言ったはずだぞ!」
「いや、だって!こんな驚かれるとは思わなくて」
静かな周囲を気にしてか、黒髪が声を潜めて金髪を叱り、金髪は慌てた様子で言い訳をする。オレはというと、いまだヘビメタばりのリズムを刻む心臓が苦しくて、なにも言えずに窓にもたれかかって、腕に顔を伏せていた。
飛んできた店員に金髪が長身を縮こまらせてぺこぺこと頭を下げる。
「ノックしても返事がねぇから、諦めて車に戻ろうとしたら窓が開いて、だから声をかけたんだけど驚かせちまったみてぇで…」
「……いえ、なんでもないならそれでいいんですけど」
駐車場ではなるべく静かにお願いしますね、と念を押して、店員は店に戻っていった。
それを見送ってから、
「大丈夫か、きみ」
黒髪が気遣ってくれる。ありがたいが、そもそもあんたが声をかけろなんて言わなきゃこんなことにはならなかったんじゃないだろうか。
「…………オレに、なんか用……?」
「ああ、いや。たいした用じゃないんだが」
黒髪が改まった声になる。
「さっき、道を譲ってくれただろう。ちょうどここに入ってくるのが見えたから、礼を言おうと思って」
「さっき?」
「ほら、山道で。追い越ししようとしたら、左に寄ってくれたじゃないか」
「………山道、」
あの黒い大型が頭に甦る。がばっと顔をあげてもう一度見回すと、コンビニの向こう側の駐車場の隅に、闇に紛れて黒い巨体がひっそりと停まっているのが見えた。
「……あれ、あんたらだったんだ?」
暗いし、ライトもマーカーも消しているからわからなかった。
というか、もうとっくにどこか遠くに行ってしまったものと思っていた。
「急いでたように見えたけど、ここに来るんだったの?」
「いや。目的地はここじゃなく、この先にある青果市場だ。そっちの時間はまだ大丈夫なんだが、このバカが急に腹が痛いと言い出して…」
なるほど。トラックにはトイレはついてないからな。
「それで急いでたんだよ。市場まで飛ばさなきゃならんかと思ってたんだが、このコンビニの看板が目に入ってね。ちょうどいいからついでに休憩してたら、きみが来るのが見えて。礼がわりにコーヒーでもどうだ?奢るよ」
うん、と返事をしながらも、目は黒いトラックから離れない。
「………運転してたの、どっち?」
気になっていたことを口にすると、すぐに返事が返ってくる。
「私だが」
「マジ!?」
くるっと振り向き、窓の下の二人を見る。今の声と話し方は、多分こっちの黒髪だ。
「すげぇ!あんた運転上手いんだな、さっきはマジびっくりした!全然追いつけねぇんだもん!」
思わず笑顔になってしまう。だって本当に、あんなに上手い運転は初めてだったんだ。そのドライバーが目の前にいるなら、ぜひとも話を聞かせていただきたい。
「なぁ、運転上手くなるコツとかあんの?どうやったらあんなに速くカーブ抜けられんの?」
早口で問いかけてみるが、黒髪は目を大きく開いたままオレを見つめて固まっている。
しばし答えを待ってみたけど、固まったまま。
「……あの。オレ、なんか悪いこと言った……?」
黒髪の隣に立つ金髪に、恐る恐る問いかける。金髪は黒髪の顔をちらりと見て肩を竦めた。
「別に、なんも悪くねぇと思うぜ?」
「でも、なんか固まってるよ」
「電池でも切れたみてぇな固まり方だな」
金髪はぽこぽこと黒髪の頭を叩き、それでも動かない黒髪の顔を覗きこんだ。
「……汚いものを近づけるな。せっかく美しいものを鑑賞しているところだというのに」
呟くように言う黒髪。汚いって。
「あ、生きてたんだ」
気にしてない顔で言う金髪。慣れてんのか。それとも本当に汚いんだろうか。暗いからわかんねぇけど。
「生きてるから気軽に叩くな。叩いた数だけ貴様の給料が減っていくぞ」
「自分は遠慮なく叩くくせに」
「私はいいんだ。社長だからな」
「どういう理屈だよ」
ぶつぶつ言う金髪に言葉は返すけど、黒髪の目はオレに向いたままだ。真っ黒な瞳にじっと見つめられて、なんだか落ち着かない気分になってくる。
ていうか、社長って。
エライヒトなんだ、こいつ。
「………きみ。名前は?」
唐突にそう聞かれて、なぜかびくっとしてしまった。
「え……エドワード、だけど」
明らかにオレよりずっと年上だし、社長というからにはもしかして敬語のほうがよかったかもしれない。
けど黒髪はそんな小さなことには拘らない様子で、うんうんと頷いた。
「エドワードか。うん、可愛らしい名前だ」
「………かわ……?」
「私はロイ。ロイ・マスタングだ。道を譲ってくれた礼と、先ほど驚かせた詫びをしたい。どうか連絡先を教えてくれないだろうか」
口を半開きにして間抜けな顔で固まってたくせに、そんなのなかったことみたいに優雅に微笑む黒髪。その後ろで、金髪が呆れたように軽くため息をついた。
「れ、礼とか詫びとか…別にいいよ、そんなの」
慌てて首を振るけど、ロイという男は引き下がらない。そういうわけには、と粘るロイに、困ったオレはコンビニを指した。
「じゃあさ、さっき言ってたじゃん。コーヒー奢ってよ、それで充分だから」
「コンビニのコーヒーにそこまでの価値はないよ。それに、それで済んでしまったらもうきみに会えなくなってしまうじゃないか」
「…………会えなく、って………」
お礼にコーヒーを奢ると言ったのはこいつだったような気がするんだけど。価値がないとかどうよ。
ていうか、会えるとか会えないとか。同僚ですら滅多に会わないような仕事をしているのに、他社のしかも社長さんなんて、よほど奇跡が百くらい重ならない限り二度と会えないと思うけど。
「これは私の連絡先だ。よかったらいつでも、何時でも、いや四六時中電話をかけてきてくれなさい」
胸ポケットから名刺を出す黒髪。肩書きには取締役社長とある。
「………えっと。オレ、平社員だから名刺とかなくて……」
恐縮しながら受け取ったが、どうしたらいいんだコレ。
「きみの番号を登録しておきたいから、その名刺の番号に電話してくれないか。ああ、登録に必要だから住所とフルネームと誕生日も頼む」
にこにこしながら言う黒髪の頭を、金髪がぺしんと叩く。
「どこのなに詐欺だよ。番号登録するくらいで住所とか必要ねぇだろ」
「必要だろう!この子のすべてを入力しておかなくては、いざというときどうするんだ」
「いざってなんだ、いざって」
目の前でどつき合う二人を見て、うっすらと明けていく空に目を移す。
なんだか、変なのに絡まれたらしい。
どうしよう、これ。
つか休憩、全然できなかった。
個人情報を知りたがる黒髪に急かされて、とりあえず電話をした。一回のコールですぐ切ると、黒髪は嬉しげにポチポチと登録を始める。
それを金髪が押したり引っ張ったりして、二人は自分たちのトラックに戻っていった。ほどなくエンジンの唸り声がして、夜明けの弱い光で紫に染まった空気の中をゆっくりと出ていく。運転席から金髪がひらひらと手を振ってくれた。
時計を見ると、指定された時間まであと30分少々。寝る暇はない。
ため息をついて座り直し、さっき貰った名刺を眺めた。
会社の住所は、オレんちからわりと近かった。こんなところに運送会社なんてあったっけ。
ロイ・マスタング。
ちょっと、いやかなり変な奴だった。
でも金髪のほうはまとも。ちょっとチャラそうな感じだけど、まぁこの業界では珍しくない。笑った顔は優しそうだった。ただ、ずっとタバコをくわえていたのが気になる。一日何本消費してるんだろ。
とはいえ、もう会うこともないだろう。あの変な社長さんも、社長であるからには忙しいだろうし。
よその会社のオンボロトラックでのろのろ走る初心者のことなんか、すぐに忘れてしまうに決まってる。
オレは早めに出発することにして、エンジンをかけてシートベルトを締めた。もう明るくなったし、ライトは必要ないだろう。
名刺をそのへんに放り出して、クラッチを踏み込んでギヤを入れる。
アクセルをゆっくり踏みながら車道に出る頃には、オレの頭にはこれから行く工場での荷下ろし作業のことでいっぱいになった。フォークリフトは空いているだろうか、誰か作業員は出勤してきているだろうか。
そうして、変な社長のことは頭の片隅に追いやって。
警備員に手を上げて工場の敷地内に車を乗り入れた頃には、すっかり忘れ去っていたのだった。