知らない世界の、知らないきみと





◇◇◇◇



「やー、おまたせ!」
ヒューズがタクシーから降りてきた。片足は靴を脱がされ、包帯でぐるぐる巻きにされている。病院に行く前よりも痛そうに歩く様子に、また怪我をしたのかと聞いてしまった。
「いや傷口から錆やら砂利やらを掻き出すのが…」
なぜか嬉々として説明を始めるヒューズ。もういい、想像するだけで痛そうだ。
鋼のが駆け寄って肩を貸そうと手を差し出した。
「掴まってよ」
「え、いや……」
戸惑うヒューズが遠慮していると思ったようで、ほら早く!と催促する鋼の。
その鋼のとヒューズの間にぐいっと体を割り込ませ、
「私に掴まれ」
「あ!ロイ、ずるい!今オレが肩を貸そうと」
唇を尖らせて文句を言う鋼のは、普段よりさらに幼く見える。ヒューズも同じらしく、目尻を下げて苦笑する顔はエリシアを見るときと同じ表情だ。
「いやいや、エド。オレが体重かけたら、おまえ潰れちまうぞ?」
「そんなことねーもん!」
ムキになるところがまた子供っぽい。
だが、私の鋼のに他の男が抱きついているのを見るのは耐えられない。
「身長差を考えろ。どこにどう掴まれと言うんだ」
「小さい言うな!」
わざと禁句を言えば、さらに怒って騒ぐ子供。それを放置して、ヒューズをトラックへ連れて行く。歩きながら周囲を見回し、荷物が乗った板がきちんと並べられているのを見て、
「悪かったなぁ、結局やらせちまった」
すまなそうに言うヒューズに、大丈夫だと首を振る。だってあれはほとんど鋼のがやったんだから。

私の試練は、これからだ。

「鋼の、乗りなさい」
「……………」
助手席へ上がり、さらに奥のベッドへ移動していくヒューズを見て、鋼のが後退りする。
「や、やっぱ会社から誰か呼んで……」
「皆それぞれ仕事で出ているんだろう。誰も来れないからこそ、こうなったんじゃないか」
「…………でも、」
渋る鋼の。できれば私も乗りたくない。
「エド、大丈夫だって」
ヒューズが無責任に手招きする。
「こいつもロイなんだ、ちっと走ればすぐ慣れて普通に乗れるようになるさ」
確かに私はロイだが、おまえが言う男とはまったく全然別人だ。
「大型持ってて怪我してねぇのは今こいつだけなんだからよ、仕方ねぇだろ?」
大型なんて取ろうと考えたことすらない。だいたい普通免許だって、別に好きで取ったんじゃないんだ。軍で必須の資格だったから取っただけで。
だがこちらの世界では、私にそっくりのあの能天気な薄ぼんやりの顔写真がついた大型免許というものが存在している。私と同じ顔、同じ名前。誰が見ても、私の免許証。
「………ロイ、ほんとに大丈夫なの?」
上目遣いの鋼のの破壊力は抜群だ。代行かなんか呼べないものだろうかと往生際悪くまだ考えていたのに、それをそっくり撃ち砕かれてしまっては、もう頷くしかないじゃないか。
「うむ。…………………だったらいいな、と思ってる」
冷静になって考えたら、トラックの代行運転なんて聞いたことがない。多分こちらにも、そんなものはないだろう。諦めるしかないか。
語尾についた本音が怖い、と怯える鋼のを助手席へ押し上げて、ドアを閉める。
運転席に上がって、ベルトを締めた。不安に泣きそうになりながらも、鋼のもベルトを締める。

さて。

「………ええと、エンジンのかけ方は………」

「降りるぅぅ!降ろしてぇぇぇぇ!!」
叫ぶ鋼の。
「そこだ。ほら、それ。ぶら下がってるやつ」
ヒューズが後ろから、ハンドルの奥で揺れているキーホルダーを指す。なんだ、あっちの世界の車と同じなのか。ふ、つい焦って見失ってしまっていたな。私としたことが。
鍵を回し、エンジンをかけた。唸る音は、以前乗ったことがある軍用トラックよりも重く響いた。
ヒューズに言われるまま、シフトレバーの側にあったスイッチを押す。内側にたたまれた状態だった左側のサイドミラーが、電動音とともに元の位置に戻った。
冷凍機のスイッチを切る。エアサスのスイッチを入れる。それからクラッチを踏み込んで、ギアを1速に入れて。
「待った。ロイ、トラックじゃ1速はほとんど使わねぇんだ」
えっ、そうなのか?
「低速型のエンジンだし、今は箱も空だからな。1速だとパワーがありすぎて前へろくに進まねぇ。2速に入れろ」
じゃあ、なんのための1速なんだ。
「荷をめいっぱい積んだ状態での坂道発進とか、フルパワーが必要なとき使うためだよ」
なるほど。では2速に。
するとどこかから、ピーピーと音がする。
「おい、バックに入ってるぞ」
「えっ」
シフトレバーに書かれたギアの位置をよく見て、もう一度入れなおす。
ピーピーピーピー。
「またバックだ」
「仕方ないだろう、2速とバックがお隣さんなんだから!」
逆ギレしつつもう一回。今度はうまく入った。なんでトラックのギアはバックが普通車とは違うところにあるんだ。罠か。罠なのか。私を陥れようと誰かが罠を張っているのか。
そして、サイドブレーキを握り、力を入れる。

「………これを下ろしたら、もう後戻りはできない」

皆、真剣に頷く。

「………覚悟はいいか」

「ああ」

「………あんまり」

頷くヒューズと首を振る鋼の。
だがここまでやったからには、あとは発進するのみだ。
私はアクセルを踏む足に力を入れ、クラッチをゆっくりと離した。

がくん。プシュー。ピーピー。

エンストして止まった車内に、警告音が鳴り響く。

「………なぜだ」

「………サイドブレーキを、おろしてなかったからじゃねぇかな」

落ち着け。そう言い聞かせるように言うヒューズの顔色が、なんとなく悪い。鋼のなんか今にも気絶しそうな顔をしている。だが多分絶対、私が一番青い顔をしていると思う。

「まずは市場を軽く一周して、慣らそうぜ」
ヒューズの提案を受け、そろそろと車を走らせた。外周を回り、ハンドルを切るタイミングや左右の感覚を覚えていく。
最初は恐怖だった高い視点が、慣れてきたせいか怖くなくなってきた。視界が広く、運転が楽だ。いくつもついたミラーが死角をカバーして、周囲の状況がよくわかる。

うん、これならなんとかなるかも。
そう思いながら、ハンドルを切ったとき。

ぐしゃ。ガリガリ。

左側の後ろから、なんとも不気味な音がした。

飛び降りて確認すると、発泡スチロールの箱が潰れている。大きな破片がバンパーに引っ掛かって、それで引きずるような嫌な音がしたんだろう。だがなぜこれがこんなところにあるんだ。罠か。罠なのか。誰かが私を以下同文。
運転席に戻ると、ヒューズと鋼のが真剣な顔で私を見た。
「……なんだった?」
「発泡スチロールの箱を轢いた」
「な、中身は……?」
「空だった」
ほ、と息をつく二人。だが私が一番ほっとしていると思う。
「曲がるときは、左のミラーで後輪の位置を確かめながら曲がったほうがいいぞ」
「善処しよう」
では、もう一周。

何周か回って練習したあと、ようやく市場から外に出た。時刻はもうすぐ夕方になるあたり。ひどく狭く感じる道をゆっくりと走り、国道に出る交差点で信号待ちで停まった。
「5時を過ぎたら車が一気に増えるぞ。初心者に渋滞はキツいから、高速に乗ろう」
ヒューズがあっちへと指をさす。ついに初心者扱いになってしまった。だが私以外は皆、鋼のまでがトラックに乗って仕事をしているプロばかりだ。そう言われても仕方あるまい。
頷いて、指示通りに走る。国道へ入らずに、山へ。まわりの車が減り、いささか走りやすくなる。
よし、これならなんとかなりそうだ。
根拠なくそう思って、少しだけ余裕が出てきた。隣で固まったまま震えている鋼のへ、笑顔を向ける。
「鋼の」
「な、なに」
真っ青な顔で暑くもないのに汗を滲ませる鋼の。答える唇も震えている。
「高速ってなんだ?」
「そっち、こっ高速ないの……?」
「ないと言うか。こんな黒いきれいな道を見たのも、初めてだ」
「…………………どんなとこなの、あんたの世界って」
高速道路とは、広くて大きな自動車専用道路のこと。有料である場合がほとんどだが、信号も交差点もなく、目的地まで楽に時間を短縮できる。
「そんな便利な道があるのか」
感心して頷いている間に、インターとやらが近づいてくる。鋼のが震える手で小さな機械に触れた。料金所を通過するためのカードがそこにちゃんと入っているかどうか確かめたらしい。

「ほら、そこ。入り口だよ」

「……………えっ」

ゲートの前で急いで停まる。後続車がいなくてよかった。
「どうしたロイ」
「いやいやいや!無理無理無理無理!どっからどう見ても狭いって!絶対無理!通れない!」
必死で訴える私。だがヒューズは肩を竦めるだけ。
「大型が通る幅はあるぞ。まぁ広くはねぇが、ギリギリ通過できる」
「ギリギリって!そんな高等技術を初心者に要求しないでくれ!」
自分を初心者と認めてしまったが、そんなことはどうでもいいと思うくらい私は必死だ。
「他に入り口はないのか!?こんなの、通ったら絶対どっか擦るかぶつけるか……」

「……………うるせぇ」

「…………え?」

思わずきょろきょろする。なんだかとても聞き慣れた、懐かしい声がしたような。

「うるせぇっつってんだ。さっさと車出せヘタクソ」

声の主は鋼のだった。
あっちの世界で毎日のように聞いていた、あの鋼のの声だ。低くてドスの効いた、どこのチンピラかと思うような声。本気で怒って私を罵倒しまくるときの声だ。

しかし懐かしがってる場合じゃなかった。

「は、鋼の……?」

「人が気ぃ使って高速行こうって言ってやってんのに、しのごのタレてんじゃねぇよアホ!てめぇみてぇなヘタクソ、国道なんか走らせられっか!わかったら黙ってさっさとゲートくぐれ!」

「は、はい!」

腹を抱えて笑い転げるヒューズ。鋼のは本当に私の鋼のが乗り移ったかと思うような凶暴な仏頂面で、左右のミラーを見ながら私に指示を飛ばす。
「できるだけ右寄せて。こっち見なくていい!そっち側だけ見てろ!」
「わ、わかった!」
ゆっくりゆっくり、ゲートを抜ける。端から見てればどうか知らないが、私から見れば左右は本気でギリギリだと思った。設計した奴に、大型を通らせる気があるのかどうか詰問したい。絶対ないだろこれ。いくらなんでも狭すぎるじゃないか。それともやはりこれも罠以下同文。

合流はどうにか、他の車が避けてくれて助かった。本線に入り、80キロまで上げろと言われて首を振る。できるかそんなの。60キロがやっとの私に、死ねと言ってるようなもんだろう。
「ヘタクソな上にヘタレかよ」
恐怖がピークを越えてすっかり人が変わってしまったらしい鋼のが呟いた言葉が胸を抉るが、それでもスピードは出せない。アクセル踏むのが怖すぎて、無理だ。

どうにか高速を降り、ようやくゴールである会社の駐車場が見えてきた。
その頃には、私にもいささか自信がついてきていた。ハンドルを切りつつ、後ろで寝転んでいるヒューズに着いたぞと声をかけてみたりして。隣では鋼のがやっと機嫌を直したところで、終わったらごはん行こうよなんて可愛いおねだりなんかされたりして。

そんな感じで駐車場に入ろうとして。

砂利に乗り入れた車が、ぐらりと揺れた瞬間。

ガリガリ。パリン。

「…………なぜだ」

「……車幅を考えず、小回りしすぎたからかな」

椅子の間から顔だけ出して、冷静にヒューズが分析する。

「…………あんた、ヘタすぎ」

鋼のの呟きが、心に痛かった。



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