6ペンスの唄
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*十話:逃がさない*
今日の希々は様子がおかしかった。
「希々せんせ?」
俺が呼んでも難しい顔で宙を見つめている。
「希々せんせ、課題終わったで」
何を考え込んでいるのか、俺の言葉は全く耳に入っていないようだ。
俺は呆れて彼女の耳を引っ張った。
「……ったく……。教師の方が授業に集中してへんってどういうことや」
「!」
希々は息を飲んで頭を下げる。
「ご、ごめんね侑士くん! 課題、……あ、終わってるんだね。ごめん、」
「…………」
「ほんとにごめんね……」
申し訳なさそうに何度も謝る希々を見ていたら、心がざわついた。いつもの底抜けに明るい笑顔ばかり脳内で再生され、気付けば口をついて出た言葉。
「…………何や悩んでることでもあるん? 話聞いたってもええで。このままじゃ俺も勉強に集中できへんし」
「……っもう、ほんとにごめんね……! 私、ちゃんと侑士くんの先生として頑張るって決めた矢先なのに……っ!」
別に今更と言おうとして、俺は目を見開いた。
「ごめん……っ、ごめんね……っ!」
「――っ!」
希々が、泣いていた。
頭が真っ白になる。
俺は反射的に彼女の身体を引き寄せ、抱き締めていた。
自分でもどうしてこんなことをしたのかわからない。ただ、今はこの頼りない背中を温めてやりたくて。
「ごめんね……っ、ゆ、うしくん……!」
「…………阿呆。言うたやろ? あんたには先生言うほどの威厳なんか最初からあらへんのや。変な気ぃ遣わんと素直に泣いとき」
「ぅ…………っ、う、ぅー…………っ!」
俺の腕にすっぽり収まってしまう、華奢な肩。今までなら狙っている女が泣いている、なんて絶好の機会があれば即落としにかかるところだが、何故か口説き文句一つ出て来なかった。
「……ほんまに、何なんや自分」
「ぅうー……っ、ごめんね……っ!」
――――なぁ、希々せんせ。俺の心臓は何でこない煩いことになっとるんやろな。
***
しばらくして泣き止んだ希々は、ハンカチを口元に当てたまま俯いている。
「……今日のぶんはお給料から引いてもらうね……」
「そんなことどうだってええ。お袋に出させとき」
「……でも、」
「生徒が文句言うてへんのやからええんや。それとも何か? 希々せんせはお袋に、『今日は生徒の前で号泣して授業にならへんかったんですすみません』とでも言うつもりなん? 話めっちゃややこしなるで?」
希々が黙り込んだ。
俺はため息をつきながら彼女の目を覗き込む。
「……前にせんせ、言うてくれたやろ? 何かあったら話聞いてくれるて。俺、嬉しかったんや」
これは嘘ではない。
「、」
「年下やけど俺かてせんせの話聞くくらいはできる。……何があったん? ……まぁ、話したないことなら無理には聞かへんけど」
刹那、赤くなった大きな瞳が上目がちに俺を見つめた。
どくん、と鼓動が跳ねる。
「……あの…………ね」
細い指先がブレザーの裾を摘んだ。
「っ!」
直接肌が触れているわけでもないのに、体温が上がるのがわかる。
「侑士くんは……モテるでしょ? 私は……恥ずかしいけど、その、全然恋愛経験がないから……教えてほしいの」
「……何を?」
「家族みたいに思っていた子に……えっと、…………弟みたいに思っていた子に告白されたけど、私パニックになっちゃって逃げることしかできなくて…………。これからどう接してあげればいいのかな……?」
「…………」
面白くなかった。この女が言っているのは十中八九跡部のことだ。
相談の答えは簡単だ。意外にピュアな跡部の気が済むまで付き合ってやればいい。飽きたら向こうから勝手に別れを切り出すだろう。
俺には何の関係もないのなら、それが一番手っ取り早い。
ただ、跡部と付き合っている間希々の笑顔も声も全てがあいつのものになると考えた途端、舌打ちが漏れた。
胸の中に蟠るマグマのような不快感は、経験したことのない苛立ちを呼ぶ。
「えぇえ舌打ち!? ご、ごめん侑士くん…………私、無神経なこと聞いちゃったよね……。ただでさえ成績上げることに集中しなきゃいけないのに……!」
咎められていると勘違いした希々は、一人顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。
俺はため息をついて希々の唇に人差し指を当てた。
「侑士く、ん…………?」
本当は、気付いていた。
知らないふりをしてきた。
俺がこんな変な女に惚れるなんて有り得ない、と何度も自分に言い聞かせていた。
何度も。
「…………その弟みたいな子は、きっぱり断りぃや。恋愛対象として見れへんって」
希々は目を伏せる。
「私…………その子と気まずくなるの嫌だよ…………。恋愛じゃない好きだってこの世には存在するのに、何でみんなそれしか考えないの……?」
俺は目を細めた。
「……跡部には、告白されただけ?」
「え…………っ!? なんで景ちゃんって、」
「わかるに決まっとるやろ。そんで答えは?」
「……っ!!」
希々の顔が一瞬で赤くなった。
――あぁ、本当に気に食わない。
「……キスくらいはされたんやね。――ほんま、ムカつく」
跡部は学校で何を聞いても希々に関することは一切答えない。どころか、既に宣戦布告されている。
『希々は今はお前の教師だが、それ以前からずっと俺の幼なじみだ。俺の好きなヤツだ。……遊びで手ぇ出したら承知しねぇぞ』
まるで希々は自分のものだと言わんばかりの態度。跡部の物言いにカチンときて遊びで手を出してみようとしたものの玉砕続きだった。
だがもう関係ない。
遊びではなく本気なら、あいつにとやかく言われる筋合いはないのだから。
「侑士く、」
「――――好きや」
「……!?」
茶色の大きな瞳が見開かれる。そこに俺が映っているのが見える。
「俺、希々せんせのこと好きや。……ほんまは初めて会った時から好きやった」
真っ赤になって言葉を失う希々の髪を柔らかく掻き乱し、震える唇にそっと口づけを落とす。
「今せんせに辞められたら、俺、勉強なんて手につかんくなる。……せやから辞めんといて」
「、」
「本気で俺の“先生”になってくれるなら、こない成績のまんまで生徒放り出さんといて」
跡部の告白なんて消えてしまえばいい。俺で頭をいっぱいにして。
お袋によれば、希々は家庭教師をするのもアルバイトをするのもこれが初めてらしい。責任感の強い希々が辞めると言い出さないよう、俺は言葉を重ねる。
「教師と生徒でとか、希々せんせは考えんといて。俺、付き合ってくれなんて言うてへん。……跡部に先越されたんが悔しくて伝えただけや。……忘れてくれてええ」
「、でも、」
「せめて受験終わるまでは……俺の“先生”で居てくれへん? 俺……教わるなら希々せんせやないと嫌や」
“忘れていい”。忘れられるわけがないと知っていて、俺はそう言う。
“教師と生徒”。どこか背徳感の滲む言い方にすれば、幼なじみとの色恋沙汰も薄れるだろう。
俺はもう希々でないと嫌だ。家庭教師も、恋の相手も。この“高校生”という立場を利用し尽くして、俺は希々を逃がさないための糸を巡らせる。
「高校生の俺のこと…………希々せんせは面倒になったら放り出すん?」
「そんなことしない!! しない、けど……っ」
着実に積み上がる罪悪感。元来の生真面目な性格故に、希々は俺の教師を辞められない。
そっと抱きしめて、耳元で囁く。
「俺が頼れるん、希々せんせしか居らへんのや。……頼むから、辞めんといて……」
しばらくの沈黙の後、俺の背に躊躇いがちな両手が回された。
「…………わかっ、た……」
「……辞めへんでくれる?」
微かな首肯に、俺は口角を上げた。
俺が勝手に始めた彼女とのゲームはもう俺の負けだ。ゲームと名付けたのは負けている自覚があったからである。俺は初めて会った時から希々のことが好きだった。それを認めたくなくて遠回りしたが、結局先に告白してしまったのだから俺の負けでいい。
しかし跡部との勝負にまで負けるつもりは毛頭ない。
――そう。ゲームは真剣勝負へと形を変えた。ゲームなら勝っても負けても大して執着はないが、勝負なら話は別だ。
真剣勝負ではどんな手を使ってでも絶対に勝ってみせる。
これから覚悟しときぃや、希々せんせ。