彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*七話:再会*
高校生と大学生の生活リズムはあまり被らない。それでも帰りの時間が遅くなる時、景ちゃん先輩は必ず迎えに来てくれた。優しくてあったかい、私の唯一の理解者。
景ちゃん先輩には今、好きな人がいないらしい。でも先輩はこれから先、好きな人を見つけて結婚するんだろう。
その時が来ることを私はわかっている。
ただ、こんなにも面倒見のいい景ちゃん先輩だ。私に遠慮して自分から切り出せない可能性はじゅうぶんに考えられる。
だから私は予め伝えておいた。
景ちゃん先輩に本当に好きな人ができた時は、潔く私を捨ててくれと。
先輩は少し乱暴に私の髪を撫でて、わかったと言ってくれた。
景ちゃん先輩のおかげで、潰れそうだった私の心は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。お兄ちゃんと会わないという選択はもちろん寂しかったけれど、確実に私は前に進んでいる。
会えない分募る想いにも慣れてきたところだ。このまま景ちゃん先輩が許してくれる限りお兄ちゃんと離れて生活していれば、お兄ちゃんへの想いもいつか過去のものにできるかもしれない。
そんな淡い期待さえ持てるようになっていた。
なのに。
「……希々、久しぶり。元気だったか?」
突然跡部邸の前に現れたお兄ちゃんに、私は一瞬呼吸を忘れて見入ってしまった。
短い髪も帽子も見慣れたテニスバッグも、頬を掻く仕草さえ変わらない。Tシャツからのぞく、少し日焼けした腕に何度抱きしめられただろう。
「、」
声が、出ない。上手く息ができない。
私が景ちゃん先輩の家に行くことを最後まで反対していたお兄ちゃんとは、半ば喧嘩別れしていた。お兄ちゃんに嫌われることで未練を断ち切ろうとした私は、思ってもいない台詞をたくさんたくさん、お兄ちゃんにぶつけてしまった。
お兄ちゃんは過保護すぎるとか。
いつまで妹離れできないのとか。
私と景ちゃん先輩のことはお兄ちゃんに関係ないとか。
兄だからって私の恋愛にまで口を出さないでとか。
号泣しながら、そんな言葉を投げつけた。お兄ちゃんは私の涙を怒りからのものだと思っているだろう。本当は、寂しくて離れたくなくて、悲しみから溢れた涙だった。
お兄ちゃんは困ったように笑う。
「いきなり来ちまってごめんな。跡部の奴とは、その……どうだ?」
1年ぶりの、お兄ちゃん。
どうしよう。心臓が、すごい勢いで脈打ち始める。息が、苦しい。
お兄ちゃん。
「……っ」
元気だよ、とか、先輩は優しいよ、とか。
答えたいのに胸が詰まって声にならない。
門の前で棒立ちになるしかない私に、お兄ちゃんが近寄ってくる。
……お兄ちゃんは私のこと、嫌いになったんじゃないの……?
「……俺、お前に謝らなきゃいけねぇと思って」
「、」
「あの日……笑って送り出してやれなくてごめんな。俺、希々がいる毎日がなくなるってことを想像したくなくて……希々を跡部に取られるのが何か……悔しくてさ」
お兄ちゃんは私の頭を優しく撫でた。
「本当に妹離れできてなくて……ごめんな。でも、これだけは覚えててくれ」
お兄ちゃんは何かを堪えるような表情で口を開く。
「俺が希々を嫌うことはねぇから。希々は…………これからもずっと、俺の大切な妹だから」
――嫌いになってくれればいいのに。嘘。嫌わないで。
――大切な妹。嬉しいよ。嘘。妹じゃなかったら……ねぇ、私、あなたに“好き”って言えた…………?
視界が滲む。
前みたいに抱きしめて欲しい。おひさまの匂いでいっぱいの、お兄ちゃんの腕の中にいたい。
想いが溢れ出す。
瞼が熱くなる。
「だからもし跡部に何かされて困ったら、いつでも言えよ? 俺は、」
その、刹那。
「……宍戸?」
「っ跡部……、」
景ちゃん先輩の声がした。
振り向くと同時に、涙が零れた。
お兄ちゃんに見られる寸前の、ギリギリのタイミングだった。景ちゃん先輩は私の涙を見るなり、はっとしたように私を抱き寄せた。
「……何しに来た」
涙に濡れた顔が先輩の胸にきつく押し付けられる。先輩は私を守ってくれたのだと、遅ればせながらに気付いた。
もしも衝動のままお兄ちゃんに抱きついていたら、お兄ちゃんは受け止めてくれただろう。そのかわり私は以前より強くお兄ちゃんに惹かれてしまっただろう。
景ちゃん先輩はそれを知っていたから、私の望みを叶えるために庇ってくれたのだ。私の、“お兄ちゃんへの想いを消したい”という望みを叶えるために。
「……兄貴が妹の顔見るのに理由が要るのかよ?」
「お前もいい加減妹離れしろ。喧嘩別れした兄貴がいきなり1年ぶりに家の前に立ってたら、普通の女は怖がるだろうが」
背後のお兄ちゃんの声に棘が混じる。
「俺はそれを謝りに来たんだよ」
「なら用は済んだだろ。とっとと帰れ」
私の手を引き、景ちゃん先輩は門をくぐる。
と、背中にお兄ちゃんの声がかけられた。
「っ希々!! ……いつでも帰って来いよ。俺は、」
「話はそこまでだ。じゃあな、義兄さん」
「……っおい跡部! 何で希々と話をさせてくれねぇんだよ! おい跡部……っ!!」
景ちゃん先輩は振り返ることなく、私の手を握ったまま家の中に入って行った。
涙でぐちゃぐちゃの顔をお兄ちゃんに見せるわけにはいかない私も、振り向かず先輩の後を追う。
こんな顔を見たら、きっとお兄ちゃんは心配する。今までみたいに私をぎゅっと抱きしめて髪を撫でてくれて、……私の涙は余計に止まらなくなる。そうなることは火を見るより明らかだった。
景ちゃん先輩の行動が一番冷静だ。
頭でわかっていても心は痛みを訴える。
「希々……っ!」
お兄ちゃんの声が、門の向こうに消える。
「……っ」
私は後ろ髪をひかれつつ、閉門の音を聞くことしかできなかった。
頬を流れる涙が風に吹かれて、やけに冷たく感じた。
***
『おにいちゃん! みて、このふくおひめさまみたい!』
『ほんとだな! 本にでてきそうだ』
『ふふー。わたし、おひめさま! りんごをたべてねむっちゃうの!』
『じゃあおれが王子だな! 希々をおこすには……って、さ、さすがにそれははずかしいだろっ!』
『ぷぅー。きすのかわりにぎゅってしてくれたらおひめさまはめざめるかもしれませんが、ぜったいにめざめるのはきすですー』
『……ったく、しかたねーな。ほらおきろ、おひめさま』
額にもらった最初で最後のキスを、私はまだ忘れていない。
***
……何で来たの?
お兄ちゃん…………。