彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
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*五話:俺の初めて*
希々はいつもあのくまのぬいぐるみを抱いて眠る。寝言で宍戸のことを口走る時も、知らず涙する時も。
希々は宍戸への想いを捨てたい、と思っている。俺もそれはわかっている。本来ならそのぬいぐるみだって捨てさせるべきだった。しかし、……命より大切な宝物だと言われれば、俺もそれ以上強くは言えなかった。
インドア派の希々は、机よりベッドにいることの方が多い。元書斎――現希々の部屋に入る時はノックをするが、彼女の寝室は俺の寝室でもあるため一々ノックをしない。
俺は帰宅すると真っ先に寝室に寄る。言うまでもなく、彼女の顔見たさにだ。大抵希々はそこに寝転がっていて、いつも笑っておかえりと言ってくれるのだ。
俺が堂々と隣にいられる場所。俺が俺の想いに触れられる場所。彼女に触れても不自然でない場所。それが寝室だった。アイスブルーのベッドの隣にある薄い桜色のベッドは、ひどく愛おしい。
ただそこに、あの茶色さえなければ。
俺は別に熊が嫌いなわけではない。ぬいぐるみの種類などどうでもいい。問題はその色があいつの色に酷似しているという点だった。あのくま、茶色い毛並みにアメジストの目は嫌でも宍戸を想起させる。
意図して贈ったものかは知らないが、以前サイトで調べたらそこそこ値の張るものだった。妹の誕生日プレゼントのために初めてのバイト代を注ぎ込むなんてあいつらしくて笑えない。
密かに対抗心を燃やしていた俺は、ついにチャンスを掴んだ。希々を迎えに行った時、通りすがりのゲームセンターに彼女の視線が釘付けだったのだ。希々が好きなキャラクターのことはよく知っている。俺は翌日そのうさぎのことを調べた。
毛並みは薄い桃色だから、ピンク好きの希々はきっと気に入るだろう。しかもこのうさぎの瞳の色は俺と同じだった。これは贈れという天からの託宣としか思えない。
だが、いざゲームセンターに赴き購入の交渉をしようとした段階で、はたと気付いた。これではいつもの贈り物と何も変わらない。
希々があのくまを大切にしている理由は値段ではない。もちろん宍戸からもらったものだという理由は大きいだろうが、それならもっと別のアクセサリーとかお守りとかでもよかったはずだ。恐らく彼女は、それが“初めてのバイト代でのプレゼント”だったから特別に感じたのだろう。
だったら俺様の初めてもくれてやろうじゃねぇの、と思った俺はゲームセンターで立ち尽くした。
俺の初めてと、このうさぎをどう結び付ければいい。いや、もう答えはわかっている。しかしこの跡部景吾が、庶民のたまり場であるゲームセンターなる場所で、庶民の遊戯であるUFOキャッチャーなるものに挑むのか?
いや、問題はない。さっさと済ませて帰ればいい。万が一、いや億が一苦戦したとしても知り合いに見られなければいいだけだ。もし見られたとしても――……。
そこまで考えて俺は潔くプライドを捨てた。
希々の笑顔と俺の自尊心、どちらが大切かなど明確だった。
1時間以上、ゆらゆらしたアームと戦った。どう考えても攻略法があるはずだ。30分を超えた辺りで店員が落としやすい場所に移動させましょうかと聞いてきたが、その甘言には耳を貸さずに挑み続けた。
現金の両替なる行為も初めてだったため、周りの客の見よう見まねでどうにか小銭を手に入れた。小銭なんてガキの頃以来触ることすら珍しかった。
奮闘の結果、見事うさぎを落とした時は周りから惜しみない拍手が送られた。周囲を気にする余裕がなかったので少々驚いたが、俺は“初めて”だらけのうさぎに若干愛着が湧いていた。
なのに、だ。
***
「……」
ぬいぐるみを渡そうと寝室に入った俺は、言葉を失った。
「おにぃちゃ…………やく、そく…………」
希々はくまを抱きしめて寝ながら泣いていた。
「……希々……」
何でだよ。
忘れたいから此処に来たんだろ。
助けて欲しくて俺に縋ったんだろ。
なのに何でお前の中は宍戸ばっかりなんだよ……!
「……っ!」
怒りにも似た焦燥が胸を焼く。
しかし俺は何度か深呼吸をし、どうにか心を落ち着かせた。ここで焦れても何も解決しない。
俺が希々を守ると決めた。俺が幸せにしてやると自分に誓った。そのために必要なのは、俺が耐えることだとわかっていたから。
「、」
俺も自分のベッドに上がる。
近寄ると希々の寝顔はひどく安らかだった。希々は微笑みながら泣いていた。
「……希々」
流れ落ちる涙を指先で拭う。知っている。こんなことをしても彼女の涙は止まらない。
「希々……」
夢ではあいつと幸せに笑っているんだろうか。きっと醒めたくないと彼女は思うだろう。ずっと夢の中にいたいと思うのだろう。
それでも俺は起こさなければならない。そうしなければ彼女の涙は止まらないと知っているから。
「希々、」
思わず声が詰まった。
その瞬間、閉じられていた瞼がふるりと震え、アメジストがぼんやりこちらを見た。
「けいちゃんせん、ぱい……?」
慣れている希々は何でもないことのようにごしごし目を擦って、満面の笑みを浮かべる。
「おかえりなさい! 景ちゃん先輩!」
「……あぁ、ただいま」
俺は何とか笑みを作った。
宍戸に勝てない無力さはもう何度も味わわされてきたが、希々が救いを求めたのは他の誰でもない俺なのだ。俺は俺にできることで、希々の心を少しでも楽にしてやりたい。
受け取ってもらえるだろうか。内心緊張しつつうさぎを渡すと、希々はぬいぐるみごと俺に抱きついてきた。反動で俺は希々に押し倒される。
「景ちゃん先輩、これ取ってくれたの!?」
きらきらした目を見て安心した。今彼女の心は此処にある。
「……まぁ、たまたま見かけたし、たまたま暇だったからな」
余裕を見せようとしたが、希々はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに食いついてきた。
「何で私がこのシリーズ好きって知ってるの!?」
いや、お前の新しい私物を買い揃えたのは誰だと思ってるんだ。お前の好きなものくらい知っているに決まってるだろうが。
半ば呆れてそう言えば、
「えへへ、そうだね! 景ちゃん先輩は私の全部知ってるもんねーっ」などと返された。
そう、俺は全て知っている。
俺だけが全てを知っている。
そして希々を解放してやれるのは、驕りではなく俺しかいない。
だから。
「俺は…………今日初めてUFOキャッチャーをやった」
小さな身体を掻き抱くようにして、想いの一部を伝える。
「……俺の戦利品もベッドに置いてくれ。俺の戦果は俺の視界に入る場所に置いておきたい」
そのくまだけじゃなく、俺のうさぎも置いてくれ。お前の枕元に。
抱きしめて眠るなら、このうさぎにしてくれよ。このうさぎはお前を傷つけないから。……俺はお前を傷つけないから。
「わかった! くまごろうと一緒にうさこも置くね! 景ちゃん先輩ももふもふしていいからねー!」
天真爛漫に希々は笑う。内に秘めた傷跡を隠して。
もし俺のいない間に夢で涙することがあっても、俺の代わりにそのぬいぐるみがお前の涙を止められたらいいのに。
腕の中の頼りない温もりに、切なさが込み上げた。