彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
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*四話:やくそく*
景ちゃん先輩は私の逃げ場所になる代わりに、一つだけ条件を出した。
“未練を捨てること”。
具体的には今まで使っていた家具から着ていた服まで全ての処分だ。必要なものは全部買い直してやると言われた。もちろん最初はそこまで迷惑をかけられないと言ったけれど、
『全部に宍戸との思い出が詰まってるだろうが。それじゃあ捨てられるもんも捨てられねぇ』
と言われてしまえば返す言葉もなかった。
元からあまり物に執着する性格でもない私は着の身着のまま家を後にし、景ちゃん先輩の家で生活することになった。
先輩の家はとにかく豪華で、私は部屋というものの概念がわからなくなったのを今でも覚えている。例えば現状、私は自分の勉強机も先輩に押し付けられたソファも本棚もある部屋にいる。しかしこれは跡部家で“部屋”と認識しないらしい。景ちゃん先輩の“部屋”は、書斎と寝室とリビングとトレーニング室とパソコンモニター室とその他、全てを纏めて指すそうだ。
私は景ちゃん先輩の書斎その2だった部屋をお借りしている。本当ならこの場所だけでもじゅうぶんすぎるくらいで、元の私の部屋の3倍は広い。傍目にはシンデレラストーリーだろう。
敢えて今までと勝手が違うところを挙げるとすれば、この部屋にベッドがないことか。
紳士な景ちゃん先輩は、唯一便宜を図れなかったと私に謝った。婚約者という建前上、寝室だけは同じにしなくてはいけないと。
私にとって本当のお兄ちゃんみたいな存在が景ちゃん先輩だ。異存などあろうはずもない。ただ私も、ここで頷く代わりに一つだけお願いをした。お兄ちゃんに誕生日に買ってもらったぬいぐるみだけは、宝物だから持っていたいと。お兄ちゃんが、初めてのバイトでお給料を貯めて買ってくれたぬいぐるみ。
景ちゃん先輩はどこか寂しそうに微笑んで、許してくれた。
先輩の大きなベッドの隣に、少しだけ小さな私のベッドが並ぶ。買ってもらった薄いピンク色のこのベッドはとてつもなく寝心地が良くて、私は自室よりここでだらけている方が多かったりする。
休みの日はベッドでスマホを弄りながら気付いたら昼寝をしていた、なんてことも頻繁にあった。今は受験を控えているからそこまで怠惰な生活は送れない。
でも今日は。
テスト翌日の今日くらいは一日ごろごろしてもバチは当たらないと思う。
お兄ちゃんからもらったぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめてベッドに沈む。久しぶりの多幸感に、私は思わず一人くすりと笑った。
***
『おにいちゃん、おっきくなったらききをおよめさんにしてくれる?』
『いいぜ! ききのどれす、ぜってーかわいいとおもう!』
『えへへ、おにいちゃんのたきしーど? も、ぜったいかっこいいの!』
『そ、そうか?』
『うん!! ぜったいだよ? やくそくだからね!』
『おう、やくそくな!』
『ゆびきり! ききはおおきくなったら、おにいちゃんのおよめさんになる!』
『うそついたらはり……なんぼんだっけか? まぁいーや。はりのーます! ゆびきった!』
***
誰かに呼ばれた気がして、目を開けた。
「希々、」
「けいちゃんせん、ぱい……?」
景ちゃん先輩のしなやかな指が、私の目元をそっと擦る。先輩の声が泣きそうに聞こえてその表情を確認しようとしたら、自分の視界がぼやけていることに気付いた。
寝ながら泣いていたらしい。頬を伝った涙で枕がしっとり濡れていた。こんなことは以前からあった。お兄ちゃんの夢を見ると時折知らないうちに泣いている。
慣れている私はさっと目を擦って身体を起こし、景ちゃん先輩に笑顔を向けた。
「おかえりなさい! 景ちゃん先輩!」
「……あぁ、ただいま」
景ちゃん先輩の表情は浮かない。
私が首を傾げていると、先輩は私の抱いているぬいぐるみを指さした。
「……それしかベッドには置かねぇのか?」
「?」
先輩は何が言いたいのだろう。私は首を捻りながらも否定する。
「うぅん、これしか持ってないだけだよ」
景ちゃん先輩は珍しく視線を泳がせた後、ごそごそと何かを取り出した。何かと思えば私の好きなキャラクターのうさぎのぬいぐるみだった。以前街中のゲームセンターで見かけて欲しいなとは思っていたけれど、UFOキャッチャーが苦手な私には無理だと諦めていた限定うさぎだ。
私は先輩の目を見つめる。
景ちゃん先輩は僅かに頬を染めて、うさぎを私に突き出した。
「……やる」
「……っ景ちゃん先輩ーっ!」
「うおっ、」
私はぬいぐるみごと景ちゃん先輩に抱きついた。反動で二人してベッドに寝転がる体勢になる。
「景ちゃん先輩、これ取ってくれたの!?」
「……まぁ、たまたま見かけたし、たまたま暇だったからな」
「何で私がこのシリーズ好きって知ってるの!?」
「お前の新しい私物を買い揃えたのは俺だぞ? 絵本やらノートやらボールペンやら、全部このキャラクターじゃねぇか」
「えへへ、そうだね! 景ちゃん先輩は私の全部知ってるもんねーっ」
景ちゃん先輩の匂いを胸いっぱいに吸い込みたくて、私はぬいぐるみをぽいと横に投げて先輩に抱きついた。
「おい、苦労したんだから丁寧に、…………っ! な、何でもねぇ」
「………………景ちゃん先輩?」
「うるせぇ何だよ何でもねぇ」
「景ちゃん先輩?」
私を引き剥がそうとする先輩をぎゅっと抱きしめて、その胸に頬をあてる。二人ともベッドに転がっているから、私が先輩の上に乗っている状態だ。
あったかい。心臓の音が聞こえる。いつものいい匂い。
「……先輩。これ、一般商品じゃないんだよ」
「…………そうか良かったな」
「……ゲームセンター限定のうさぎなんだよ」
「そうか良かったな」
意地っ張り。私が小さく笑うと、景ちゃん先輩は緩く私を抱き返してくれた。
私の背中もあったかくなる。
「ねぇ、先輩。何回で取れたの?」
景ちゃん先輩も喉の奥で笑う。
「……俺様にかかればゲームなんざ一発だと思ってたんだが、意外に手こずった。回数は覚えちゃいねぇが……1時間以上粘ったな。最後は周りに人集りができてた」
UFOキャッチャーと戦う先輩とギャラリーを想像したら物珍しくて、思わず吹き出す。
「おい、人の努力を笑うな」
「だって、景ちゃん先輩がゲームセンターなんていう庶民の遊び場でギャラリー背負ってるの想像したら、何かおかしくて……!」
不意に景ちゃん先輩の腕に力が込められた。ぎゅっと抱きしめられて、安心できる温もりに頬擦りする。
「俺は…………今日初めてUFOキャッチャーをやった」
「? うん」
「いくらかけたか忘れたが、俺自身の力だけでそいつをものにした」
「ふふ。うん」
そこまで言うと先輩は黙ってしまった。
「景ちゃん先輩?」
「…………」
「せんぱいー?」
「…………、希々が……」
「? 私が?」
少しだけ、景ちゃん先輩の鼓動が速くなる。
「喜ぶと、思ったからだ」
「! うんっ! すっごく嬉しい!!」
「……だったら、俺の戦利品もベッドに置いてくれ」
ちょっと意味がわからない。
「俺の戦果は俺の視界に入る場所に置いておきたい」
とてもよくわかった。
きっと景ちゃん先輩にとってこのうさぎはトロフィーとかと同じ、戦いで勝ち取ったものなのだろう。
「わかった! くまごろうと一緒にうさこも置くね! 景ちゃん先輩ももふもふしていいからねー!」
「あぁ。……いや待てそんな名称だったか?」
「今私が名付けたんだよ!」
「…………そうか、わかった」
先輩の胸の中でぬくぬくしながら、私はうさこを横目に再び破顔したのだった。