彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
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*三十三話:恋人に見えるなら*
私は今、テニスコートにいる。
中学の頃からマネージャーとして関わってきたスポーツだけれど、私自身は体育の授業くらいでしかやったことがない。お兄ちゃんも景ちゃん先輩も大切にしているテニスというスポーツを、私もやってみたくなった。
そこでお兄ちゃんにお願いすると『俺が教えてやる』と快諾してくれた。
でも私は、本当にやってみたいという程度の気持ちだったのだ。
*
初めてのストリートテニスコートで、私は緊張も露にお兄ちゃんを見上げる。
「お兄ちゃん、知らない人がいっぱいいるよ……。私初心者だから、コートじゃなくて公園でいいって言ってるのに……!」
「テニスは俺の青春だからな。可愛い妹に教えるなら、最低でもコートは必要だろ」
「いい! 大丈夫! 私、ちょっとやってみたかっただけだから……! もういいよ、帰ろうよ……!」
知らない人だらけの場所でもお兄ちゃんは堂々としていた。周りはみんな大人の男性や女性で、明らかにスポーツ慣れしている。
体育の授業では試合形式なんてやらなかった。初心者向けに、先生からの軽いボールを打ち返せるかどうかで成績がつくようなものだった。私だって、誰かとラリーすらしたことがない。
周りは当たり前のように試合をしている。私の手からラケットでもすっぽ抜けようものなら、間違いなくコートの雰囲気を悪くしてしまう。ラケットを胸に抱き締めて立ち尽くしている自分が、場違いすぎて逃げ出したかった。
しかしお兄ちゃんは笑って、ラケットを肩でぽんぽんと弾ませている。やる気満々だ。
「……あの、私、ラケットにボールが当たらないかもしれないから…………最初は壁打ち? とかの練習がいいんだけど……」
「いいぜ! フォームも見てやるよ」
「……う、うん……」
テニスのスイッチが入ったお兄ちゃんは、私には止められそうになかった。
*****
希々からテニスを教えてくれと言われて、俺は張り切っていた。元から誰かに頼られると燃えるタチだし、思い返せば俺の周りには後輩が多かった。
それが今回は愛しい妹相手だ。兄として、男として、いい所を見せたい。
俺は大人に囲まれての練習など慣れていたが、それにすら怯える希々がいじらしく内心悶えた。
「私、邪魔になっちゃうよ……。他の人の邪魔にならないとこがいいよ……」
「邪魔になんかならねぇよ。ここにいるヤツら全員、テニスしに来てるんだ。俺たちだって同じだろ?」
「そ、そうかもしれないけど……! 私、授業でもサーブ打てなかったんだよ……?」
俺が慣れているからこそ、慣れていない希々の様子が新鮮だった。怖がって俺に縋り付く希々を見るのは、それこそ小学生の頃以来だろうか。
「お兄ちゃん……端っこ行こうよ……!」
「……あぁ、わかった」
希々は俺の背にぴったりくっついて、Tシャツの裾を握りしめてくる。
「……この辺はどうだ?」
悪戯心でわざと人の多い角に足を向けると、希々はぎゅっと全身で抱きついて嫌がった。
「もっと人の少ないとこ……っ」
「じゃあこっちか?」
「だめ! なんかプロっぽい人いるよ……っ」
「…………」
家の外でこんなにも密着したのは初めてだ。俺の中でむくりと頭をもたげる独占欲。
「……ここはどうだ?」
「やだ……! こわい顔の人いるもん……っ!」
「どこならいいんだ?」
希々が眉をハの字に寄せ、上目遣いで見上げてくる。
「だ、誰もいないとこないの……っ?」
「…………」
――――堪らない。
最初こそテニスへのやる気に満ちていたが、気付けば俺の頭は希々でいっぱいになっていた。
この場において、希々は俺しか頼る者がいない。俺に希々の全てが預けられている。
言い換えれば今、俺は希々の全てを握っていることになる。
怯える希々は可哀想なはずなのに、何故だろう。もっと不安にさせたくなってしまう。
怯える希々は俺を頼るから。
俺に縋るから。
――俺を求めるから。
「……なぁ、希々」
「な、なに……っ?」
自制心が薄れていく。
「……人のいない所がいいのか?」
「うん……っ! 試合なんてできないもん、ちょっとラリーできたら嬉しいなって思っただけで……!」
「……そうか。わかった」
俺は普段ストリートには来ない。このコートも希々のために調べて見つけただけだ。
自宅からも遠く、学校が近くにあるでもない此処なら、俺と希々は……もしかしたら、兄妹以外に見えるのではないだろうか。
「……なら、こっち来い」
自然な流れで手を繋ぐ。
希々はほっとしたように頷いた。
「うん!」
人の少ない場所を探して俺たちは歩き回った。壁打ちができそうで、ある程度足場が安全な所。
なかなか見つからなかったが、希々と手を繋いで歩いているだけで俺は幸せだった。
今俺たちは、周りにどう映っているのだろう。
……恋人、に、見えているだろうか。
「……この辺なら、足場もしっかりしてるし壁打ちもできるだろ。希々、ここならいいか?」
辺りには女子大生が数人、クレープを食べながら談笑しているだけだ。
希々は周りを見回して頷いた。
「うん、ここなら怖くない! お兄ちゃん、ありがとう!」
向けられた笑顔が可愛すぎる。
俺はテニスバッグを下ろし、いくつかボールをポケットに入れた。
新品のラケットを抱えてそわそわしている希々の横に立ち、構えて見せる。
「足は肩幅より少し開いて、ラケットは体の真ん中で構える」
「こ、こう……?」
「……型はいいんだけどな。そんなカチコチじゃ走れねぇだろ」
「う……。でも、お兄ちゃんはいつもこんな感じでしょ?」
希々の立ち方は、俺をよく見ていることがわかるフォームだった。俺と同じ歩幅では女の希々が身体を上手く動かせない。それでも、その型が無性に嬉しかった。
「……希々、ほんとに俺のこと見ててくれたんだな」
「!」
希々は僅かに肩を強ばらせ、俯いた。
「…………だって、……その、……ずっと、見てきた、から……」
「希々……」
そっと抱きしめて、右手で顔を上げさせた。
「……っ」
赤い頬の希々を見て、俺の中の喜びが膨らんでいく。
「……跡部のフォームはできるのか?」
「景ちゃん先輩のフォーム? えと、……見てたわけじゃないから、私にはわからないの。……見ただけでその人のフォームを真似できる、とかの特技があるわけじゃなくてごめんね」
「そんな特技、要らねぇ。俺は…………俺のフォームを覚えるほど俺を見ていてくれた事実が、何より嬉しい」
「お兄ちゃ、ん……」
遠くで女子大生たちの声が聞こえる。
俺たちのことを兄妹なのか恋人なのかと噂している。
バレたらまずいのに、誰にも言ってはいけないのに、他人に気付かれてはいけないのに。
右手に触れるほんのり熱い、柔らかい頬。俺を見上げるアメジストの瞳。困ったように、照れたように下げられた眉。
――あぁ、好きだ。
そっと顔を傾ける。
目を伏せて、近付く。
「お兄ちゃ、こんなとこ、――――」
「今だけは――――」
今だけは、恋人に見えることを信じて。
「、」
桜色の唇を塞いだ。
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