彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
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*二十二話:近すぎて*
お兄ちゃんに再会してから私は、これまで離れていた分を埋めるように抱きしめられた。初めての事態に、勿論心臓は破裂寸前だ。いつもは私が一方的に抱きついて、お兄ちゃんが抱き返してくれるという流れだったから。
お兄ちゃんの方から触れられて、かつてないほど距離が近くて、気付けば私の恋心は再び顔を出してしまっていた。
私は内心自分を諌める。
駄目だよ。
私はお兄ちゃんへの気持ちとさよならして、景ちゃん先輩のことだけ考えるの。
そのためにここに戻ってきたの。
……なのにお兄ちゃんは、私の心を掻き乱す。
どうして?
どうしてお兄ちゃんは今になって、こんなにサービスしてくれるの?
彼女さんと別れたこと。私を一番大事だと言ってくれること。お兄ちゃんから私に触れてくれること。その距離が今までになく近いこと。
どれも初めてのことだらけで、脈拍がひどく速い。大好きなおひさまの匂いが身体中を包む。嬉しいけれど、景ちゃん先輩のことを思うと後ろめたくなる。
お兄ちゃん、どうしたの……?
離れていたから?
懐かしくなったから?
……上手く言えないけれど、きっと違う。
今までのお兄ちゃんと何か違う。
私のいない間に何があったのだろう。お兄ちゃんは私に何を望んでいるのだろう。
考えたところで答えなど見付からなかった。
***
「お兄ちゃん……あの、そろそろ離して……」
お兄ちゃんはベッドの上、後ろから私を抱きしめている。それもずっとだ。
「……嫌、か?」
「……っ!」
耳元でお兄ちゃんの声がする。首筋をお兄ちゃんの鼻先が掠める。時々吐息まで感じられて、もう私の頭は沸騰しそうだった。
ずっと好きだった人の近くにいられて嫌なわけがない。ただ、離れないと景ちゃん先輩からの信頼を裏切ることになってしまいそうで怖かった。
景ちゃん先輩は言った。
『宍戸に何かされてもぐらつくなよ?』と。
私は頷いたのだ。
明確な約束ではなくても、一度言ったことを曲げたくなかった。
それにはこの状況を打破するしかない。
「嫌……じゃないよ。でも、その…………ほら、私汗くさいでしょ?」
「いい匂いだぜ? 暑いならクーラーの温度下げるけどどうする?」
「……っ」
こんなお兄ちゃん、知らない。景ちゃん先輩がするみたいに私を抱きしめて、“離したくない”というオーラを発している。離してほしいという私の意思に気付きながら、それを黙殺する。こんなお兄ちゃん、私は知らない。
……このままでいたい。お兄ちゃんに惹かれる私はそう思ってしまう。
……早く離れなきゃ。先輩を思う私は焦ってしまう。
「お兄、ちゃん…………」
「希々…………」
「…………」
「…………」
沈黙がしばし部屋を支配していた。
それからどれくらい経っただろう。
肩に触れるお兄ちゃんの髪にドキドキしていると、不意に私の身体が解放された。
「っ!」
気持ちが落ち着くまで一旦お兄ちゃんから離れよう。
そう考え、ベッドから降りようとしたのとほぼ同時だった。
「……久しぶりなんだ。よく顔見せてくれよ」
「え……」
ギシ、
私より早くベッドから降りたお兄ちゃんが、私の行く手を塞ぐ位置で切なく目を細めた。
「……俺、お前にずっと聞きたいことがあったんだ」
いつも優しかったアメジストの瞳が、知らない光を宿して私を射抜く。
「!」
お兄ちゃんを見上げる私の背が凍った。
お兄ちゃんの目は明確に、私を責めていたから。
「希々、どうして俺に嘘をついたんだ?」
「……、え…………?」
何のことかわからない。眉を下げる私の頬に触れて、お兄ちゃんは無表情に尋ねる。
「いつから跡部のことが好きだった? 告白したのはどっちからだ? 今までの恋愛は全部逐一俺に報告してくれてたのに、何で跡部のことだけは黙ってた?」
「……っ、そ、れは……!」
「『お兄ちゃんより好きな人なんかいない』って言葉…………俺、本気で信じてたんだぜ? 何で素直に跡部の方が好きだって言ってくれなかったんだよ……」
「、…………」
私は何も言えなくなってしまった。
景ちゃん先輩との打ち合わせは、この偽婚約が始まる前に既にしてある。
“景ちゃん先輩が私を好きになってくれた”
“私は恋愛に興味がなかったけれど先輩の告白をきっかけに意識するようになった”
これが、用意されている答えだ。
私が誰とも付き合ったことがないのは事実だし、隠していない。しかも先輩から選んでもらえて先輩からアプローチされたことにすれば、他の景ちゃん先輩ファンの人たちにも角が立たない。多少の違和感は誤魔化せるだろう。
それが私たちのシナリオだった。実際、今まで不審に思われたことはない。
ただお兄ちゃんの声音は、そういう継ぎ接ぎの答えでは納得してくれそうにない雰囲気だった。
「……希々、跡部のこと、いつから好きだったんだ?」
「……っお、ぼえて、ないよ……」
緊張で心臓の音が煩い。
「今すぐ結婚したいほどあいつのことが好きなのか?」
「……っそ、ういうわけじゃ、なくて…………」
上手い言い訳を必死に探す。
「景ちゃん先輩の家は特殊だから、慣れておきたいなって……ほんとにそれだけ、で……」
お兄ちゃんが私の腰を引き寄せる。近すぎて目が逸らせない。
「……跡部のどこが好きなんだ?」
「そ、そんなの全部だよ。私の悩みを聞いてくれるところも、ぎゅってしてくれるところも……好きって言ってくれるところも、」
「俺より? 俺より好きなのか? ……本当に?」
「……っ!」
喉が詰まる。やっぱりお兄ちゃんはどこかおかしい。こんな問い詰めるみたいな聞き方、お兄ちゃんからされたことは一度もない。
私はお兄ちゃんの胸を押して離れようとしたけれど、お兄ちゃんは離してくれなかった。
至近距離の瞳がいつになく熱っぽくて、見ているだけでくらくらしてしまう。好きな人の艶やかな表情は容赦なく私の判断力を奪っていった。
「……俺より好きな奴、いるじゃねぇか。……俺は今までお前のこと、嘘のつけない奴だと思ってたけど……違うんだな」
腰はお兄ちゃんに固定されている。頬も視線も、心も。捨てるはずだった想いが溢れ出す。
「何で嘘ついたんだよ、希々。今まで俺に大好きって言ってくれてたのも、全部嘘だったのか……?」
「ちがう……違うよ! 私はお兄ちゃんに嘘なんてついたことない!」
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。好き。大好き。
だから言わないできたの。だからさよならしたの。
お願い、もう私の心を揺さぶらないで……。
「お兄ちゃん…………怒らないで…………」
私の瞳からひとしずく、涙が落ちた。
「私……っ嘘なんて、ついてない……っ! お兄ちゃんのこと、大好きだから……っ、だからずっと、先輩に相談に乗ってもらってただけで……っ!」
「……相談? 何のこと――――」
「亮ー! 希々ー! ご飯よー!」
階下からお母さんの声が聞こえた。お兄ちゃんははっとしたように私を解放し、涙を拭ってくれた。
「ごめんな。飯行こう」
「……お、兄ちゃ、ん……」
私はお兄ちゃんに手を引かれ、リビングへと向かう。変なお兄ちゃんはもうそこにはいなくて、いつもの優しいお兄ちゃんが笑ってくれていた。
夕飯の間もお兄ちゃんは今まで通り、優しくて少し過保護なお兄ちゃんだった。お母さんとお父さんと、久しぶりに家族で食卓を囲む。
お兄ちゃんの考えていることがわからなくて、私は少しだけ怖くなった。
同時にお兄ちゃんにドキドキしてしまった自分が後ろめたくて、私は混乱のまま目を伏せるしかなかった。