彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*十六話:変なお兄ちゃん*
夜、景ちゃん先輩がお風呂に入っている時、私のスマホが着信を告げた。見てみればそこには“お兄ちゃん”の表示。一瞬息が止まった。
どうしよう。
景ちゃん先輩が戻ってくるまで無視した方がいいのかな?
でも着信は随分長い。
最近はSPさんが警護してくれているから、お兄ちゃんに会ったのはお昼に公園で鉢合わせた時だけだった。
……お兄ちゃん、急に電話なんてどうしたんだろう。
何か言いたいことがあるなら私はそれを聞いてあげたい。声だってむしろ聞きたいのが本音だ。
確かに、お兄ちゃんと彼女さんのキスシーンは脳裏に焼き付いて離れない。でも今は不思議と胸が苦しくなかった。唇が触れ合う柔らかい感触がまだ残っていて、ほんのり胸の奥底を温めてくれる。
……景ちゃん先輩。私のファーストキスの相手。私を好きだと言ってくれた人。愛してると言ってくれた人。先輩がいれば何も怖くない。
私は数秒迷ったが、とりあえず用件を聞くことにした。話が拗れそうだったら景ちゃん先輩に助言を求めよう。
心が幾分か落ち着いたところで、通話ボタンを押す。
「……はい」
『希々……っ!』
画面の向こうからは切羽詰まったお兄ちゃんの声がした。
「お兄ちゃん? 何かあったの?」
『希々、俺…………っ、どうしてもお前に聞きたいことがあるんだ……!』
お兄ちゃんの声は必死で、心配になった。
何があったんだろう。こんな風に取り乱すお兄ちゃんを私はほとんど見たことがない。私がナンパされた時や迷子になった時くらいだと思う。普段のお兄ちゃんとは明らかに違った。
「うん、わかった。ちゃんと答えるよ。だからお兄ちゃん、落ち着いて?」
私がそう言うと、お兄ちゃんははっとしたように『わ、悪い』と呟いた。
スマホ越しに深呼吸の音が聞こえて、つい笑ってしまう。
「変なお兄ちゃん。……彼女さんとのキスを見られたこと、気にしてるの? 私だってもう高3なんだからそんなこと気にしないよ」
嘘つきの私は、お兄ちゃんのために自分の傷を笑い話にする。だけど、お兄ちゃんが笑顔になるなら痛みなんて気にならない。
そうだよな、なんて返ってきて、いつものお兄ちゃんに戻る。それが私の予想だった。
しかし現実はまったく違った。
『……気に…………ならねぇ、のか。……そう、だよな。俺が誰と何してようが、気になんて……ならねぇよな』
「お兄ちゃん…………?」
明らかに暗くなったお兄ちゃんの声に、私は眉を下げた。
『……はは、悪い。そうだよな。何でもねぇ、忘れてくれ』
「…………お兄ちゃん、なんで嘘つくの?」
きっと今お兄ちゃんは傷ついた顔をしている。
『嘘なんか、』
「嘘だよ。彼女さんと何かあったの? 私に聞きたいことって何……?」
『…………』
お兄ちゃんは黙り込んでしまった。
私は急かさずじっと待つ。電話越しのお兄ちゃんの声は距離が近くて、景ちゃん先輩を思い出した。普段ならお兄ちゃんの声だけでドキドキして困惑してしまっていたと思うけれど、今日は先輩の香りや温もりがまだ私を包んでくれている。この場にいない景ちゃん先輩に守られている気がした。
何を言われても、先輩がいてくれるから大丈夫。私は胸の前で小さく手を握りしめて覚悟を決めた。
やがてお兄ちゃんが、躊躇いがちに口火を切った。
『…………お前、くまごろう捨てちまったのか……?』
「!」
想定外の台詞に、刹那思考が止まる。
お兄ちゃんが気にしていたのはお昼のことじゃなく、くまごろうのことだった。
ここで捨てたと言えばいいの?
持っていると正直に伝えればいいの?
私は自分を傷つける嘘ならつけるけれど、お兄ちゃんを傷つける嘘はつけない。お兄ちゃんの匂いがするほど大事にしていたくまごろうを捨てたなんて、嘘でも言えなかった。
「……くまごろうだけ、先輩の家に持ってきたの。今もベッドに置いてあるよ」
お兄ちゃんは息を飲んだみたいだった。
『な……んで…………お前、俺のこと嫌いになったんじゃなかったのかよ……? 跡部と付き合う邪魔になるって思ってたんじゃねぇのかよ……?』
今度はこちらが目をぱちくりさせた。
「どういうことかわからないけど、私はお兄ちゃんのこと嫌いになんてなってないよ。邪魔になるなんて思ったこと、一度もない」
表情が見えないということがこんなにも不安になるなんて知らなかった。お兄ちゃんがずっと煮え切らない口調でいる理由が、私には見当もつかない。
「……お兄ちゃんのこと、大好きだよ。だからくまごろうだけは持ってきたの」
『なら何で…………っ!!』
お兄ちゃんの声が震えた。
『……何で跡部のとこなんか行ったんだよ……! 俺のこと嫌いになったからじゃねぇのかよ……! ……っ戻って来いよ、希々……っ!』
「、」
返答に窮した。
その間にもお兄ちゃんは言葉を重ねる。
『俺……っ、……希々の部屋、定期的に掃除してんだ。いつ戻ってきてもいいように。……なぁ、跡部とは結婚した後でいくらでも一緒に暮らせるだろ……? 一旦家に戻って来いよ……。俺…………、希々に会いてぇよ……』
「お兄、ちゃん……」
お兄ちゃんが、私に会いたいと言ってくれた。
お兄ちゃんに嫌われたと思っていた。でも嫌われていなかった。会いたいと言ってもらえた。そのことは本当に嬉しかった。
しかし家に戻れば、私はお兄ちゃんと彼女さんの2ショットを否が応でも見ることになる。お兄ちゃんへの気持ちは忘れるどころかますます募り、結果的に自分の首を絞めるとわかっていた。
私は、家に戻れない。
「……お兄ちゃん、いきなりそんな話するなんてどうしたの?」
質問することで話題を逸らそうとしたのに、お兄ちゃんは私の気持ちを敢えて汲もうとしない。
『……どうしたら戻って来てくれる……? 俺がさくらと別れればいいのか?』
「っ!?」
さすがに驚いて声が漏れた。
『会いたいんだ……くまごろうを抱いて俺の部屋に来るお前に、もう一度会いたい。離れてたこの1年分も甘やかしてやりたい』
胸がきゅっと締め付けられる。
『彼女と別れればいいならそうする。跡部とデートしてたって、門限だ何だと文句は言わねぇって約束する。……俺達の家に戻って来いよ、希々……』
「お兄ちゃん……」
『俺にとって一番大事なのは彼女じゃねぇ。希々なんだ』
「…………っ!」
私の身体は硬直してしまった。
お兄ちゃんの一番になりたい。ずっと願ってきた。同じくらい、ずっと忘れなければならないと思ってきた。
でも、お兄ちゃんが私を一番だと言ってくれるなら、私は無理にこの気持ちを消さなくてもいいんじゃないの……?
「……どうして彼女さんと別れるって話になるの?」
『今日の昼、目が合ったお前が…………ショック受けたように見えたから……。お前が望むなら別れる。そもそも俺はさくらに恋愛感情を持ってねぇんだ』
「……? 好きだから付き合ったんじゃないの?」
『っ、希々が跡部と付き合いだしたから……っ!』
頭がこんがらがってきたと思いきや、突然背後から抱きしめられて私の肩が跳ねた。
「わぁっ!! ……って、景ちゃん先輩!」
お風呂上がりの先輩は後ろから私の耳元に唇を寄せた。
「……何の話してんだよ」
「……っ!」
先輩の濡れた髪から伝う滴が首筋に落ちてきて、わけもなく動揺してしまった。
先輩は今まで本当の兄みたいな存在だったけれど、私のことを好きだと言ってくれたのだ。こんな風に抱きしめられたら意識してしまう。
「俺のいねぇ間に……あいつと何の話してんだよ、希々」
「く、くまごろうを捨ててないかって、お兄ちゃんが聞くから、」
「……へぇ?」
まだ通話は繋がったままだ。切ろうとしても、景ちゃん先輩の力が強すぎて動けない。
「せんぱい、お兄ちゃんが、――――ん……っ」
――――ガタッ、
スマホが床に落ちた。
突然景ちゃん先輩にキスをされた私は、反射的に目を閉じた。しかし同時に手の力も抜けてしまったのだ。
床に落ちた通話中のスマホから、お兄ちゃんの声が微かに聞こえる。
『おい、希々!? ……っ跡部、お前希々に何して……!』
「――切っていいよな? 希々」
頬に添えられた手のひらが熱い。至近距離で絡み合う視線も熱い。ふわりと口づけられてその温もりに思考を奪われ、気付けば私は頷いていた。