彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
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*十四話:ファーストキス*
「先輩。キスして。ファーストキス、お兄ちゃんじゃないなら景ちゃん先輩がいい」
そう訴える希々に俺は不安を覚えた。心ここに在らずと言うか何をしでかすかわからないと言うか、そういった危うさがあったからだ。
俺は静かに問いかける。
「……何があった?」
「お兄ちゃんが彼女さんとキスしてた。私も早く大人になりたい。お兄ちゃんのこと忘れたい。だからキスして」
言い分が滅茶苦茶だった。最早希々は自分の感情を自分で制御できないのだ。
俺が無言で目を伏せると、希々はしがみついてきた。
「ねぇ、したことあるならいいでしょ? 景ちゃん先輩のファーストキス、もう誰かにあげちゃってるならいいじゃない。2回目も3回目も一緒だよ。初めてじゃないなら一緒だよ。キスしてよ、景ちゃん先輩」
泣くでもなく媚びるでもなく淡々と希々は言葉を重ねる。
「私はお兄ちゃんじゃないなら初めてのキスは景ちゃん先輩がいい。先輩は私のお兄ちゃんがわりって言ってくれるけど、ほんとの兄妹じゃないならできるでしょ?」
「……俺、は…………」
正解がわからない。そんなもの存在しないと知っているが、誰かに教えてくれと懇願したい気持ちだった。
俺はこの痛々しい瞳にどう答えればいい?
「それともやっぱりキスって好きな人とじゃないとできないの? 私相手じゃしたくない? こうしたらしたくなってくれる?」
俺が躊躇う間に、希々は制服を脱ぎ始めた。
「っ!! 何してやがる!!」
思わず希々の手を掴む。しかし希々は俺の手を強く払いのけた。
無表情にブラウスのボタンを外していく。
「女子高生の身体って価値があるんじゃないの? 私が脱いだら先輩その気になってくれるかもしれないでしょ? キスだけじゃない、セックスだってしていいよ。したいようにしていいよ」
「っふざけんのもいい加減にしろ!!」
俺は本気で希々の両腕を掴んだが、彼女は普段からは考えられないような力で俺を振りほどいた。
「ふざけてないよ? なんでふざけてると思うの? 私真剣だよ。真面目だよ。どうして先輩はそんなに怒ってるの? 婚約者なんだからいいじゃない。私が未成年だから気にしてるの? 大丈夫だよ。私誰にも言わないよ。だから犯罪にならないよ。それとも……」
パサ、とブラウスが床に落ちた。
下着姿の希々は能面のような表情で首を傾げる。
「私、魅力ない?」
「……っ!!」
本気だった。
希々は今にも壊れそうなほど、限界を迎えていた。
俺の中に初めてはっきりと、宍戸への怒りが生まれた瞬間だった。
何故あいつは希々の心を弄ぶ?
俺が誰かとキスをしても希々はこんな風にはならない。相手が宍戸だから、かろうじて保っていた心の均衡が崩れたのだ。わかりきった事実にほぞをかむ。
そもそも宍戸は無自覚とは言え希々のことが好きなはずなのに、何を彼女といちゃついているのか。自覚しないまま永遠に彼女とだけキスでも何でもしていればいい。
頼むから二度と希々の前に現れないで欲しい。それが俺の偽らざる本音だった。
「希々、落ち着け」
俺の声は届かない。希々は自問自答を繰り返すだけだ。
「そっか。景ちゃん先輩みたいに綺麗でカッコ良くてモテる人からしたら、2回目だろうと3回目だろうと私なんて嫌だよね。なんで私景ちゃん先輩のこと考えられなかったんだろう。ごめんね先輩」
「希々、」
「私でもいいって言ってくれる人にするね。ついこの間、婚約者がいてもいいから付き合ってほしいって言ってくれた人がいるの。その人ならきっとキスしてくれるよね。そうだ。最初からそうすればよかったんだ。私、先輩の婚約者やめるね。ずっと甘えてばかりでごめんなさい」
希々は脱ぎ捨てた制服を今度は着直し始めた。
温度のない平坦な声は、彼女が『出て行く』と言ったあの時よりずっと冷たかった。
「私知ってたよ。私が先輩の優しさを利用してたこと。先輩は“普通”の人生を歩める人だってこと。その道を邪魔してるのが他の誰でもない私だってこと」
息継ぎすらせずに希々は続ける。この後彼女が何を言い出すのかわかってしまった俺の背筋を、冷や汗が伝った。
「……ろ」
希々は感情の読めない丸い瞳で俺を見上げる。
「これでようやく先輩を解放してあげられる。先輩が私を助けてくれたこと忘れない。本当に嬉しかったから。大好きだよ。離れてても先輩の幸せをずっと祈ってる」
「……めろ、」
身支度を整えた希々が俺から距離をとる。
「今までありがとう。大好きだよ景ちゃん先輩、……うぅん、跡部先輩」
「やめろ!!」
希々は微笑んだ。
「さよな、――――」
「っ!!」
我慢も限界だった。罪悪感を押し退け、これまで押さえつけてきた恋慕が迸る。気付けば俺は彼女が別れを言い終える前に手を伸ばし、その唇を奪っていた。
「っ……」
華奢な身体を掻き抱き、後頭部に手を回して貪るようにキスをする。
希々は最初こそ身体を強ばらせたものの、徐々に俺のキスを受け入れていった。
こんなファーストキス、嬉しいはずがないだろうに。
希々の心の傷を思うと視界が滲んだ。瞼の裏が熱くなる。
「希々……っ」
「せん、ぱ…………」
「キスなら……っ俺が何度でもしてやるから……っ!!」
「、」
今度はできる限りそっと抱きしめて優しく唇を重ねた。
砂糖菓子のようにふわりとしたキス。きっと世の中の女がファーストキスに望むであろうそれを、今更希々に落とした。
「ぁ…………」
触れるだけのキスで、俺は角度を変えず動きを止めた。積年の想いを込めた長い口づけ。
拒絶がないことが、唯一の救いだった。
――――――…………。
――――…………。
――……。
どれくらいそのままでいただろう。こんなに長い間愛情を伝えるキスはしたことがない。俺のファーストキスは残念なことに幼少期イギリスで奪われてしまっている。
希々のファーストキスがトラウマにならないよう細心の注意を払って唇を離すと、希々は落ち着きを取り戻してくれていた。アメジストはしっかり光を宿し、俺を真っ直ぐ見つめる。
やがて希々は俺に抱きついた。
「景ちゃん先輩、ありがとう」
「……もっと自分を大事にしてくれ。頼む、希々……」
俺の右目から、すっと雫が溢れた。
希々は背伸びしてその滴を唇で拭う。
俺が希々を甘やかす理由を、恐らく誰も知らない。希々のことが好きだという理由だけではない。
今回の件でもわかる通り、希々はひどく危ういのだ。物心ついてからずっと禁じられた恋心を秘めていたせいで、彼女は自分を罪深い人間だと思っている。同時に自分のことを価値がないどころか、存在すべきではない人間だと考えている。
だから、自分を大切にしない。
希々が自分を大事にできないのなら、誰が彼女を守る?
「俺が、守るから…………。宍戸のことなんて、忘れさせてやるから……っ」
「景ちゃん先輩……ごめんね、ごめんね……」
謝りながら俺の涙に口づける希々を見ていたら、長年おさえつけてきた俺の感情もどろりと溶け出してしまった。
俺はみっともなく流れた涙をぐいと拭い、希々の両肩に手を置いて視線を合わせる。
「希々、俺はお前が抱える苦しみ全部をわかってやることはできない。ただ、お前がずっと自分を責め続けてきたことは知ってる」
希々は瞬きを繰り返した。
「だって私、存在が罪だよ?」
「違ぇ。誰かを想うことは悪いことじゃねぇだろ。お前は誰かが誰かを好きだと思うこと自体を罪だと思ってんのか?」
「それは、…………思わない、けど……」
「希々は何も悪くねぇ。それに希々の存在は罪なんかじゃねぇよ。……それだと俺が困る」
「え?」
俺の気持ちは変わらない。希々が宍戸への想いに蹴りをつけられなくても、守ってやりたい。自分のことを愛せない希々に愛を感じさせてやりたい。
どうしたら希々の心に届くのかわからない。何を言えば希々の心に響くのかわからない。
それでももう、この胸に後から後から溢れてくる愛情は留まってくれそうになかった。想いが弾ける。
「俺は希々が好きだ。ずっと……中学の頃から好きだった」
「……? ………………?」
希々は目を丸くした後、首を傾けた。
「景ちゃん先輩はこんな時に冗談言う人じゃないって知ってる。でも私、お兄ちゃんのことが好きだなんて言う頭のおかしい女なんだよ?」
俺は苦笑する。
「知ってる。知ってて俺は、お前が好きなんだ」
希々は更に首を傾けた。
「好き……って、私がお兄ちゃんを思うみたいに、景ちゃん先輩は私を思ってるってこと?」
「あぁ」
「ずっと一緒にいたくて何かしてあげたくて、大好きでくっついてたくてキスもしたい……そんな好き、ってこと?」
「あぁ」
俺は希々の髪を撫でながら頷く。希々はぽつりと問うた。
「…………つらく、ないの? 好きな人が別の人を好き、って」
「辛いに決まってんだろ。ずっと宍戸が羨ましかった」
希々は俺を見上げて尋ねる。
「……私を助けてくれたの、女避けのためじゃなかったの?」
俺は隠す必要のなくなった想いに素直に答えた。
「俺が希々を助けてやりたかった。俺の持つ全てで希々を支えてやりたかった。俺が希々の傍にいたかった。……女避けは結果的にそうなっただけだ」
希々は不思議そうに瞬きする。
「私、お兄ちゃんのこと忘れられてないのに? ……私なんかのどこが好きなの?」
「なら逆に訊くが、お前は宍戸のどこが好きなんだ?」
「え? それ、は……」
「顔か? 声か? 性格か? 身長か? ……違ぇだろ。そういうもん全部ひっくるめて好き、なんだろ?」
希々は小さくこくりと頷いた。
俺はそんな希々の額に額を合わせ、「俺もだ」と続けた。
「希々の全部が好きなんだよ。声も顔も面倒な性格も全部含めて、希々が好きなんだ」
希々はきゅっと唇を結んだ。
「俺は希々が好きだ。だからお前の存在が罪じゃあ困るんだよ。俺にとって希々は罪じゃねぇ。何より大事な宝物だ」
「、」
「どうせ今まで宍戸のことしか考えて来なかったんだろ? 自分で自分が許せねぇ気持ちはわからなくもねぇ。けどな、それを言ったら一方的に希々を好きな俺も許されねぇことになっちまうんだよ」
希々は宍戸に似て真っ直ぐだ。一つのことしか見えていない。宍戸のことしか考えていないから、他の人間からの好意など想像もつかないのだ。
自分が許されること、自分が望まれることを想像できない。
「俺は希々を好きになったことを後悔したことはねぇし、責められる謂れもねぇ。希々があいつを忘れられねぇことも、頑張って忘れようとしてることも知ってる。……知った上で、愛してる」
「!」
希々が目を見開いた。
大きな瞳に俺が映っているのが見える。
「宍戸への想いは今すぐ捨てなくていい。いつか自分の中で折り合いをつけられる日が来る。……いや、来ないままでもいい。むしろ早く大人になろうとして生き急がず、自分を大事にしろ」
希々の眼差しが初めて揺れた。
「……でも、私…………自分のことが、好きじゃない……。どうやったら自分を大事にできるのかも……わからない……」
俺は希々を抱き寄せた。
「希々が自分のことを好きじゃなくても、俺は希々のことが好きだ。希々の全部が好きだ。希々が自分のことを許せねぇなら、俺が許してやる。希々が自分を大事にできねぇなら、その分俺がお前を大事にしてやる。……だからもう、出て行こうとなんかすんな」
「景ちゃん先輩、」
「その身体、やけになって他の奴に触らせんな。誰でもいいなら俺にしろ」
「せんぱ、――――」
ふわりと唇を塞ぐと、希々は微かに吐息を漏らした。
「……キス…………初めてが景ちゃん先輩で、よかった……」
そんな可愛いことを言われたら、我慢がきかなくなる。俺は希々の額に口づけを落とし、頭をぽんぽんと撫でた。
「これまで通り、宍戸に関しては一緒に考えてやる。何かあったら俺を頼れ。どうせお前のことだから、俺が自分に優しい理由は同情や責任感なんじゃないかと考えて引け目を感じてたろ?」
「景ちゃん先輩……エスパーなの?」
「猪突猛進の思考なんざ眼力がなくてもわかる」
俺は希々の眼を覗き込む。
「俺が希々に優しい理由はお前が好きだからだ。俺は希々に頼られることが嬉しい。希々だって宍戸に頼られたら嬉しいだろ?」
「……うん」
「だからまだ俺の傍にいてくれ。偽物の婚約者で構わねぇ。身体の関係を無理強いするつもりもねぇ。ただ、……俺も好きな奴には触れたいしキスしてぇんだ。……ちょっとくらい大目に見ろよな」
希々は俺の胸にしがみつき、声を震わせた。
「……っ私、ここにいてもいいの……?」
俺はふっと笑う。
「ここにいて欲しいんだ。俺がな」
「……あいしてる、ってよくわかんないけど…………景ちゃん先輩に言われて、心臓がぎゅってなった……。苦しいんじゃなくてあったかくて、初めての感覚だった……」
希々の眦が潤む。
「景ちゃん先輩は…………お兄ちゃんのこと忘れられるまで傍にいてくれる? 私の味方でいてくれる……?」
俺は当たり前の答えに口角を上げた。
「全世界を敵に回しても、俺は希々の味方だ。これまでも……これからもな」
頬を染めてぎゅうぎゅうと俺に抱きつく希々を愛しいと思った、何度目かの昼下がりだった。