彼女は貝を売る(跡部vs.宍戸)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*十話:怖くない*
お兄ちゃんと久しぶりに会って、思い知らされた。私の想いは消えてなどいないと。
景ちゃん先輩は泣きじゃくる私の話を根気強く聞いてくれた。何も言わずに支離滅裂な話を聞いて、何も言わずに頭を撫でてくれた。その優しさにいよいよ涙は止まらなくなって、気付いたら泣き疲れて寝てしまっていた。
「……」
腫れた瞼が重い。
それでも何とか目を開くと、すぐ近くに景ちゃん先輩の寝顔があった。灯りに照らされて透ける長い睫毛は、雪の結晶みたいだ。私は景ちゃん先輩ほど綺麗な人を知らない。寝顔だと、本当に彫刻だと言われても納得してしまう。
「……せんぱい……」
先輩も私につられて眠ってしまったのだろうか。きっと私を宥めるだけで疲れたと思う。何だか申し訳ない気持ちと甘えたい気持ちが競り合って、少しだけ距離を詰めた。
「…………」
私は身体を小さく丸めて、景ちゃん先輩の胸に擦り寄る。
「……せんぱい、ありがとう」
そう呟くと、背中に温かい手が回された。ぎゅっと抱きしめられて、じんわり心も温まる。
「……景ちゃん先輩、起きてたの?」
頭の上から、寝起きで掠れた先輩の声が降ってくる。
「……今起きた」
私は頭をぐりぐりと先輩の胸に押し付けて、こっそり破顔した。
いきなりお兄ちゃんに会って動転してしまったけれど、景ちゃん先輩がいればもう怖くない。
「先輩、大好き!」
「……知ってる。……とりあえず落ち着いたか?」
「……もうちょっと、ぎゅってしてて……?」
こんな我儘にも、先輩は嫌な顔一つしない。
「……仕方ねぇ。今日は特別だからな」
「ふふ。先輩、優しい」
この腕の中は安心できる。ふわふわしていて温かい。
「……ねぇ景ちゃん先輩」
「何だ?」
「庇ってくれて……ありがとう」
景ちゃん先輩は軽く鼻を鳴らして、私の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「俺にとっては当然のことをしたまでだ。……それより今後また家まで押し掛けられねぇよう、SPの数を増やす。多少窮屈かもしれねぇが、落ち着くまで我慢してくれ」
「……うん」
いつだって先輩は私のことを大事にしてくれる。一番に考えてくれる。それが嬉しくて、同じくらい後ろめたくなる。
考えないようにしてきた。
どうして先輩はこんなに私に優しくしてくれるの?
私、優しくされるだけの働きができてる……?
「……ねぇ、先輩」
「ん?」
「私……ちょっとは先輩の役に立ってる? ちゃんと女避けになってる……?」
私は景ちゃん先輩の婚約者として何度かパーティーに出席している。先輩の恋愛を邪魔してしまうのではないかと危惧したが、そう伝えるたびにげんなりした顔が返された。頼むから隣に居てくれ、と。
景ちゃん先輩は社交界でもモテモテだ。しかし本人はそれにうんざりしているらしい。貴重な休日を奪う“お見合い”から解放されるだけで有難い、と言われた。
私にできるのは、そんな景ちゃん先輩の婚約者として恥ずかしくないマナーを身に付けることくらいだった。
私と先輩しか知らない嘘の婚約。私と景ちゃん先輩はある意味タッグだ。一緒に戦うバディと言い換えてもいい。
「……希々が居なかったら、俺の休日は今も根こそぎ見合いで埋まってた。テニスもろくにできない毎日だっただろうな」
先輩がゆっくり髪を撫でてくれる。
「俺は十分助かってるぜ。希々が俺の婚約者になってくれて良かった。……俺の方こそ、宍戸のことを忘れさせてやれなくてごめんな」
「っ景ちゃん先輩は何も悪くないよ……!」
離れていれば忘れられると思った。嫌われていれば諦められると思った。私の見立てが甘かったのだ。お兄ちゃんへの想いはまだ心の奥深くに根を張っていた。
「……私、頑張る。お兄ちゃんに気持ち悪いって思われたくないもん。ちゃんと普通の兄妹に戻れたら、その時は……自信を持って会いに行けると思うの」
「……そう、か。そう、だな」
景ちゃん先輩の腕の中で、薔薇の香りに包まれる。私は景ちゃん先輩の首筋に鼻先をくっつけた。
「っ、いきなりどうした?」
「ここからする匂い、すき」
「!」
一瞬硬直した後、先輩は小さくぼやいた。
「……ばーか。俺様はいつだっていい匂いなんだよ」
私はすんすんその香りを取り込みながら頷く。
「うん。景ちゃん先輩のお風呂上がりの匂いも好きだし、帰ってきてすぐのちょっと爽やかな匂いも好き」
「……とか言ってもどうせ宍戸の匂いの方が好きなんだろ?」
「そこで張り合っちゃうの!? うーん、景ちゃん先輩もお兄ちゃんも違うタイプのいい匂いだから……どっちも好きだよ」
「欲張りな奴だな」
私は景ちゃん先輩の首筋に頬を押し付けて目を閉じた。
「きっと、私が初めてお兄ちゃんじゃない人を好きになるなら……景ちゃん先輩だと思う」
先輩は少しの間動きを止めてから、ぶっきらぼうに「そうかよ」と言った。この時の先輩の表情を、私は知らない。