リジー・ボーデン(跡部vs.幸村)
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*十六話:嘘*
久しぶりに精市くんの部屋に通されて、私は彼の香りに微笑んだ。落ち着く優しい香り。
精市くんはジャケットを脱ぎながら言う。
「跡部の家みたいな豪邸じゃなくてごめん。でも今日は、この狭い部屋でも我慢してくれるかい?」
私は大きく頷く。
「私は豪邸なんて興味無いよ。精市くんがいつも過ごしている部屋で、精市くんの香りに包まれて二人きりでいられる……これ以上の幸せなんてないよ」
精市くんは、ふっと儚げに微笑んだ。
「…………本当は、貴女の香りを全部俺のものにしたい。貴女の香りを俺の香りに染めてしまいたい」
「え?」
――それは一瞬のことだった。
手を引かれ、淡い水色のベッドに二人して縺れ込む。
「……っ」
精市くんに似合う色だけれど景吾くんを彷彿とさせる色に、僅かな硬直が生まれた。
精市くんはその変化を見逃してくれない。
「……希々さん。どうして跡部は貴女を束縛するんだい?」
「……ぁ…………」
私を見下ろす精市くんの瞳は確かな熱を孕んでいた。私を責めるものなのか私を求めるものなのか、彼の感情を窺い知ることはできない。
ただ、景吾くんのような欲の潜む眼差しを向けられて、言葉が途切れてしまった。
「門限が6時だとか大学まで貴女を迎えに来るだとか……その理由を希々さんは知っている?」
「、わ……たし、は……」
私は嘘が苦手だ。精市くんに嘘をつきたくもない。しかし景吾くんが私に執着する理由を話すべきか迷った。ただの許嫁とはいえ、片思いとはいえ、恋愛感情を抱かれている相手の家に私がいるなんて、精市くんに不快な思いをさせてしまうかもしれない。いらぬ心配をかけたくもない。
「…………私は、知らない、よ」
すっと視線を逸らすや否や、唇が塞がれた。
「っ!」
「今、初めて…………」
驚きのあまり見開いた私の目に映ったのは、怖いくらい無表情な精市くんだった。
「初めて希々さんが、俺に嘘をついたね」
「……!?」
「嘘つきな唇には、罰を与えないと」
「せぃ、……っんぅ…………っ!」
噛み付くように口づけられる。以前のように私を気遣うことなく、精市くんの舌が咥内を掻き乱す。
「……っぁ……っ!」
舌を吸われて一気に水分が枯渇した。私は喘ぐように彼から与えられる唾液を嚥下する。上顎と歯列の裏の性感帯に舌を往復させられて、知らず肩が強ばった。
「ふ、…………っ、ぁっ」
身体が熱くなることに戸惑いを隠せない。貪るような口づけが、時間も忘れるほど長く与えられる。
「は、…………っ、は、ぁ、」
もう唇に感覚がない上、軽く酸欠状態だ。
精市くんは余裕たっぷりに私の額や頬にキスを落とし、囁く。
「……俺に嘘はつかないでほしいな。そもそも俺に嘘は通用しないけど……できたら俺は、希々さんの口から直接真実を聞きたい」
「…………っは、……っ」
必死に呼吸を試みた。
息苦しさと快感とが身体の奥を熱くする。その感覚が怖くて、私は首を左右に振った。
なのに精市くんはわざとなのか偶然なのか、私の脚に手を滑らせる。
「っひ、ゃあ……っ!!」
「どうしたんだい……? 俺が怖い? ねぇ、希々さん……」
「せ、い、いちくん…………」
……こんな精市くん、見たことがない。
いつだって優しくて大人びていて、私の手を引いてくれた。年の差なんて感じさせないくらい完璧に、私をエスコートしてくれた。
そんな彼に、こんな顔をさせてしまった。
「ご、め、んね…………」
私は重い腕を持ち上げて、精市くんの頬に触れた。
「我慢、ばっかりさせて…………不安、に、させて…………ごめん、ね…………」
「…………、」
「私…………精市くんが、好きだよ……。大好きだよ……」
胸が痛かった。
何をされても構わないというつもりで目を閉じ、身体の力を抜く。どうなってしまうかわからないけれど、精市くんになら。
……ふと、景吾くんの声が脳裏に蘇った。
『ファーストキスも、誰かを好きになったのも、ディープキスも……そのうち初体験まであいつのもんになるのかよ……っ』
……そうなる、としたら。景吾くんはどんな顔をするのだろう。
もう景吾くんに悲しい顔はさせたくない。
でも精市くんにもこんな苦しそうな顔をさせたくない。
私はどうしたらいいのだろう。そんなとりとめのないことを考えていて、ふと違和感を覚えた。何も、されない。
「……? 精市くん……?」
恐る恐る目を開けて、私は困惑した。
「……精市、くん……」
「ごめん……!!」
精市くんは、泣きそうな表情で私から距離を取っていた。
「ごめん、希々さん……! ごめん……!!」
怯えるような仕草に、私は半身を起こして精市くんを抱きしめた。精市くんの肩がびくっと震える。
「……どうして謝るの?」
「俺は…………っこんな、希々さんからの信頼を裏切るみたいな……!」
精市くんは私の背に腕を回してくれない。それはきっと、彼が自分を責めているから。
代わりに私の方がぎゅっと腕に力を込めた。
「ごめん……! 俺が高校生のうちは、そういうことをしないって……約束したのに……!」
精市くんは、自分に厳しい。厳しすぎるほどだ。
他の男子高校生ならとっくに我慢の限界だと言って私から去って行っただろう。一年以上私との約束を守り、自身を制してくれている精市くんを責める気持ちなどあるはずもない。
「……謝るのは、私の方だよ」
私は静かに口を開いた。
「精市くんに余計な心配をかけたくなくて誤魔化しちゃったけど、…………景吾くん、……私のことが好き、なんだって」
精市くんは小さく「やっぱり……」と呟いた。
私は精市くんの髪を梳きながら続ける。
「でもね、その気持ちを自覚したのがつい最近なんだって」
「…………」
私が初めて恋愛感情を自覚した時は、今でも忘れられない。世界が色付いた。心の中がたった一人でいっぱいになった。
私の心が、精市くんでいっぱいになっていた。
「告白されたけど、もちろん断ったよ。私は精市くんが好きだし、精市くんが20歳になったら精市くんと結婚したいと思ってる、って伝えた」
「、」
腕の中の精市くんが顔を上げてくれた。
不安そうな表情は初めて見るもので、私は思わず自分から彼にキスをしていた。
重ねた唇をそっと離し、苦笑する。
「ちゃんと、言ってあるよ。私が好きなのは精市くんだ、って」
「……本当、に?」
「精市くんに嘘は通用しないんでしょう? それに私、精市くんに嘘なんてつきたくない」
精市くんの腕が、ようやく私の背にも回された。いつも抱きしめてくれる温もり。今まで守られてばかりだった。今度は私があなたに安らぎをあげたい。
「最初は景吾くんから逃げたかった。……だけど、ね」
無理矢理部屋を一緒にしたり、脅してキスしたり、少し前の景吾くんは紛うことなき暴君だった。だけど、最近の景吾くんは違う。
“愛してる”と精市くん以外で初めて言ってくれた人。私の涙を拭ってくれた人。怖がる私の恋愛相談に乗ってくれた人。
「景吾くんが、…………私のことを諦めきれない自分を許してくれるか、って聞いてきたの」
「あの跡部が……?」
好きになった相手と両思いだったなら、そこには何の問題もない。しかし一方的な好意は相手の負担になってしまうかもしれない。きっと景吾くんはそう考えてくれたのだろう。片思いをしたことのない私にも、それくらいは想像できた。
「……好きでいていいか許可を求めるって…………相手のことをすごく考えないと出てこない発想だと思うの。同時に、すごく孤独だと思うの。…………そんな覚悟をした景吾くんに、ダメだなんて言えなかった」
「…………」
精市くんはしばらく無言だった。私も彼の髪を撫でたまま静寂に身を委ねる。
ややあって精市くんは、切ない眼差しで私の頬に触れた。
「……跡部に何もされてない?」
「大丈夫だよ」
「……跡部の家で嫌がらせを受けたりも?」
「してないよ。みんな良くしてくれてる」
少し迷ったけれど、同じ部屋で過ごしていることは言わないでおくことにした。今は精市くんの不安を払拭することだけ考えたい。
「だから安心して、精市くん。私……」
――――プルル、プルル、
言いかけた刹那、スマホが鳴った。
はっとして時計を見やると、ちょうど18時を回ったところだった。血の気が引く。
「どうしよう、景吾くんだ……連絡しないと……」
私は鞄に手を伸ばした、けれど。
「っ希々さん……!!」
後ろから強く抱きすくめられて、動けなくなる。
「精市くん……?」
鳴り続けるスマホを余所に、精市くんは痛いくらいの力で私を抱きしめる。
「何もしない。何もしないと誓うから…………今日は俺の家に泊まって行って」
「、………………え…………?」
「家族がいないのは今日だけなんだ。……周りを気にせず夜を越せるのは、今日しかない。本当に何もしないから……貴女を抱きしめて眠ることを許してほしい」
私は何も言えなかった。
――――プルル、プルル、
「……だけど景吾くんが、――」
言葉を遮るキスと同時に身体を引き寄せられて。
――――プルル、プルル、
「…………一生のお願い、だから」
――――プツ。
スマホの着信音が消える。
私の呼吸も僅か止まる。
アナログ時計の針の音だけがいやに耳に響く。
「…………」
きっとわざと旅行に行かなかった精市くん。
心配しているであろう景吾くん。
二人の顔が頭の中を行き来した。
しばらく考えた。でも、弱った精市くんからの初めてのお願いを断れるほど、私は強くなかった。
……たとえ門限を破ってイギリスに行くことになるとしても。
「…………わかった。今日は……精市くんと一緒にいるね」
嬉しそうな彼の笑顔が見られただけで、後悔しないと言える気がした。