リジー・ボーデン(跡部vs.幸村)
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*十四話:俺が慰めてやる*
俺はあの時泣きたかった。滲みかけていた涙を何とか意地で止めていた。そんな俺の代わりに泣く希々を見て、俺の中の激情は少しばかり形を変えた。
キスはしたい。部屋も変えたくない。外泊もさせたくない。そこは譲れないが、それ以外は希々に不自由な思いをさせたくなかった。
長くても触れるだけのキスなら、希々は逃げない。時折俺が欲望に負けてキスが熱を帯びても、希々は受け止めてくれるようになった。頬を上気させ、喘ぎ声を抑えようとして漏れる吐息はいつも俺の理性を試してくる。当然、俺の理性が勝利を収めるわけだが。
俺が髪を乾かしてやると、希々は本当に心地良さそうに脱力する。その間抜け面を見たくて、俺は気付けば毎日彼女の髪をセットしてやっていた。気分は美容師だ。
帰りが遅くなる時は車を回し、間に合えば俺が迎えに行った。大学は氷帝の制服で行くと浮くものの、希々が俺の許嫁だということは周知の事実らしく、特に咎められることはなかった。
俺としては幸村と遭遇して前哨戦を繰り広げるのもやぶさかではなかったが、さすがの幸村も希々の講義が終わる時間帯は部活に励んでいるらしい。あれから顔を合わせることはなかった。
奴と希々が二人で出かけるのは決まって週末だ。どこで何をしているのかは知らないが、俺は突き止める気満々だった。
「希々。今日は幸村とデートだろ? 何浮かない顔してんだ」
「…………うん。そうだよね、笑顔でいなくちゃね」
「ばーか」
義務のように笑みを作る希々に俺はデコピンをかました。
「痛っ」
「無理矢理作った笑顔で会うくらいなら、死にそうな面で会いに行って悩み相談の一つや二つしてみろ。……本当にどうしたんだ? 最近の希々は希々らしくねぇ。何かから逃げ回ってるみてぇだ」
希々は視線を落とした。
「……うん、そう……だね。私…………精市くんの彼女、なんだもんね……」
「……?」
今までなら、何を着て行こうかと鼻歌混じりにクローゼットを漁る時間だ。しかし希々はどこか心ここに在らずといった様子でベッドに座っている。
「…………」
俯いたまま動かない彼女が心配で、俺は目線を合わせるため絨毯に膝をついた。
「どうした?」
希々は何も言わない。
俺は普段から触れるようになった髪を撫でて、もう一度繰り返した。
「希々、どうした?」
「……っ」
悲しげに眉を寄せた希々が、首を横に振った。
「……希々。幸村に言えねぇことがあるなら……いや、幸村は関係ねぇ。今思ってること、教えてくれ。俺は希々が考えてることを知りたい。……あんたが悲しむ理由を知りたい」
鳶色の瞳がゆらり、と揺れた。
小さな手が俺に伸ばされて、途中ではっとしたように下ろされる。
希々は今助けを求めている。
そう判断した俺は、華奢な身体を抱き寄せた。ゆっくりと何度も背を撫で、呼吸が整うまで待ってやる。
ややあって、消えそうな声が聞こえた。
「……私…………このまま、精市くんの傍に居ていいのかな…………?」
「…………」
あの日の俺のように全部を吐き出させてやりたくて、俺はただ黙って彼女の背を撫で続けた。
「……何もかも初めての私に、精市くんは合わせてくれた。でも私は……精市くんに何もしてあげられてない……。我慢させてばっかりで、守られてばっかりで……こんなの、対等じゃない。一方的に庇護されてるだけの関係を、恋人なんて呼べないよ……」
希々は微かに肩を震わせる。
「私……精市くんと、お別れ、した方がいいのかな……っ? そうしたら今からでも、精市くんの青春を……取り戻してあげられるかな…………っ」
「――――……」
以前の俺なら好機とばかりに別れろと言っただろう。しかし今の俺にそんな無責任なことは言えなかった。
幸村と別れた傷心のあんたを慰めていれば、なるほど気持ちは俺に向くのかもしれない。だがそれが“希々の幸せか”と問われれば、違うと答えざるを得なかった。俺は希々に、幸せになってほしい。希々を幸せにしたい。
俺は希々が望むなら跡部財閥を捨てても構わないと本気で思っている。そうすることで、俺に愛を教えてくれたこの人を幸せにできるのなら。
のみならず、俺は希々のためなら己の自尊心や打算さえ捨てられるのだと、今知った。
希々にはいつも笑っていてほしい。花がぱっと開くような笑顔。子供じみた拗ねた顔。気高く前を見据える横顔。どれも好きだが、やはり笑顔が一番愛おしい。
俺は悲しみ泣く希々を隣で慰めたいんじゃない。ころころ表情を変える希々を隣で守りたいんだ。
愛に勝てるものなどない。
……仕方ねぇから、あんたが少しでも多く笑えるよう、今日だけは敵に塩を送ってやるよ。
俺は苦笑して口を開いた。
「……希々。今の話を幸村にしろ。遠慮なんかせずに思ってること全部ぶつけろ」
「でも……っ!」
「付き合うってのは、あんたと幸村二人の問題だろ? 幸村が何を望んでるのか、どうして欲しいのか、知りたきゃ話し合うしかねぇよ」
「、」
本音を打ち明けるのが怖い、と心の声が聞こえた気がした。
「俺様に言えて幸村には言えねぇってか? 許嫁には言えて彼氏には言えねぇことがあるなんざ、それこそ後ろめたい何かがあると思われちまうぞ。あいつに誤解されたくねぇなら、……希々がまだあいつと付き合っていたいなら、今日だけは逃げるな」
言うべきことは伝えた後、なるべく優しく言葉を重ねた。
「……幸村は背伸びしてるだけだ。あいつだってまだ17だぜ? あんたもあいつもお互いに遠慮しすぎだ。たまには喧嘩でもして来い」
「…………だ、けど…………」
「あいつに泣かされたら、俺が慰めてやる。希々が泣かなくなるまで何時間でも傍に居る。話を聞いてやる。約束する。……だから今日の服、気合い入れて選んで来い」
「、…………」
それからどれくらい静寂が流れただろう。
やがて希々は、小さく小さく頷いた。
と同時に、俺の背へと細い両腕が回された。
「っ!!」
きゅっと抱き着くその可愛い仕草に、俺は内心パニックに陥っていた。意識のある状態で彼女の方から触れられるのは初めてだったからだ。動揺を押し殺し、どうにか同じくらいの強さで抱き返す。
しばしの抱擁の後そっと離れると、涙を堪えた希々は縋るように俺を見つめていた。
「ほ、んとに…………し、失恋したら、話……聞いて、くれる……?」
そんなことにはならないだろうが、俺はしっかりと頷いた。
「俺は一度交わした約束は破らねぇ。希々も知ってんだろ」
そう言うと、希々の表情が僅かに柔らかくなった。
「ありがとう、景吾くん……。じゃあ…………勇気、出してみるね」
「……あぁ」
今泣きそうな笑みが向けられているのは、幸村じゃない。俺だ。
助けを求められたのも俺。
礼を言われたのも俺。
彼女の涙を笑顔に変えられたのは、他の誰でもない俺だ。
その喜びに、一瞬我を忘れかけた。
「っ希々、」
「? けぃごく、――」
滑らかな頬を両手で固定し、そのままの体勢で口づける。
「――――」
希々は抵抗しなかった。
夜と違って本当に一瞬だったが、彼女は目を閉じ俺のキスを受け入れてくれた。ゆっくりと唇を離し、鼻先を掠める吐息ごともう一度だけ口づけた。
「……ぁ…………」
微かに声を出した希々は、どこか陶然とした眼差しを向けてくる。
「……キス、嫌じゃねぇか?」
俺がそう問いかけると、希々は慌てたように両手を上下させた。
「! い、いや、だよ…………っ」
「……へぇ? そこそこ乗り気に見えたのは俺様の視力が落ちたからか?」
わざと軽口を叩けば、単純な希々は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「景吾くんの気のせいだから!」
その拗ね方が微笑ましい。
しかしいつもならそのまま俺に背を向ける希々が、今日は何やら口ごもっている。
「? 何か言いてぇことでもあるのか?」
俺の問いに、途切れ途切れの答えが返された。
「……っわ、私は景吾くんと、キスしたいわけじゃ、ないから……」
「それは前も聞いたが」
「…………っもう!! 馬鹿!!」
これから二人で会う幸村への嫉妬は当然あるが、それよりも希々に元気が戻ったことの方が俺にとっては重要だった。
せめてもの仕返しに、希々の耳元で囁く。
「……恋愛指導代、っつーことで」
「!!」
希々は今度こそ赤くなって、もじもじしながら小さく呟いた。
「…………っあの、……あ、ありがとう、ございました…………」
「……あぁ。門限は守れよ」
夜毎のキスは確実に彼女の日常を侵食している。彼女の心の中で俺が占める割合は、少しずつだが増えている。その事実に、胸の奥が多少満たされた。