ライオンとユニコーン(跡部vs.幸村)
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*九話*
私は小さい頃、母に抱きしめられた記憶がない。頭を撫でてもらった記憶すらない。母が心の病に罹っていたからだと知ったのは、精市さんに出会ったからだった。
精市さんは私よりも年上で、カウンセラーを目指し心理学部に在籍していた。遮断機で私の手を引き上げてから、彼は私の話を聞いてくれた。要領を得ない支離滅裂な身の上話。それでも彼は、言ってくれた。
『幼少期に母親からの愛情が不足していると、自己肯定感が低くなる傾向にある。君が不幸なのは、神様のせいじゃない。だけど、……神様のせいでも何でもいい。…………今までよく頑張ったね』
その言葉に、涙が止まらなかった。
頭を撫でてくれる温かい手に、私は子供みたいに泣きじゃくったのを覚えている。
『君は不思議だね。触れたら折れてしまいそうなくらい脆いのに、どんな嵐も受け流す柳みたいな強さがある』
精市さんは、自分のことを好きになれない私の隣にいてくれた。ずっと、傍にいてくれた。桜の季節も入道雲の季節も紅葉の季節も雪の季節も、飽きもせずに隣にいてくれた。
私をカウンセリング対象として見ているわけではない、と気付いたのは、出会って1年が過ぎる頃だった。
どうして傍にいてくれるのか尋ねた私に、彼は苦笑した。
『希々のことが好きだからだよ』
好き。
その言葉の意味が、よくわからなかった。
教えてくれたのは、精市さんだった。目に見えない大切なものは全て、精市さんが教えてくれた。
ずっと傍にいて、好きだと言い続けてくれた。たとえ私が私のことを好きになれなくても、そんな私ごと好きだと。いつか私が私のことを好きになれても、変わらず好きだと。……愛してる、と。
愛してる。今まで御伽噺の中でしか見たことのなかった言葉だった。好き、より温かくて、好き、より泣きそうになる、不思議な言葉だった。
何年も隣にいて教えてくれたのは、精市さんだった。氷のようだった私の心は、精市さんの温かな光で少しずつ溶けていった。
ある日、気付いた。私は、幸せだと。
本当に、私は不幸になるために生まれてきたのではないと思えた。この人がいれば、私は幸せになれるのだと。この人が、私を幸せにしてくれたのだと。わかってしまえば、胸がいっぱいになってまた涙が溢れた。
幸せな涙を、初めて流した。精市さんは穏やかに笑ってくれた。
『俺が、君を幸せにするって言っただろ?』
――私の、命より大切な人。私は私自身よりも精市さんのことが大切だった。そう伝えたら、彼は困ったように笑った。
『俺は、俺より希々が大切だから』
大事な話がある、と言われて出掛けたドライブデートで、まさか事故に遭うなんて思わなかった。もしも精市さんが死んでしまうなら、私も一緒に逝きたい。何も見えない視界と消えていく意識の中、それだけを願った。
神様。私の何でもあげるから、精市さんだけは取らないで。私の全て。私の光。この人を失ったら私は生きていけない。
彼を、返して。叶わないなら、彼と共に死なせて。どうか、どうか。
***
ぬるま湯を揺蕩うような気分の中、精市さんを探した。声を上げても音にならなくて、精市さんの優しい笑顔も見つからなくて。なら、もうこの世に未練はない。
自分の心音が小さくゆっくりになっていくのを感じながら、最後に精市さんの声を聞きたいと思った時。
『……戻っておいで』
精市さんの声が、聞こえた。
私はもう一度、必死に意識を地上へと引っ張り上げた。精市さんの姿を見ることはできなかったけれど、声を聞けるだけで幸せだった。
精市さんさえいてくれるなら、私は何も怖くない。何だってできる。初めて私を、愛してくれた人。
毎日見舞いに来て声をかけてくれることがうれしかった。長い時間一緒にいられなくても、会えるだけでうれしかった。
目が見えないことは、不安だった。人がいかに視覚に頼って生活していたかを知った。一人では満足に目的地まで行くこともできない。見知った家ならまだしも、見知らぬ病院のどこに何があるかなんて、わかるわけがない。
目覚めてから毎日、不安だった。視力は戻ると言われていたけれど、現実は何も見えなくて。それでも私が頑張ってこられたのは、精市さんがいてくれたからだった。
私の希望。私の光。優しい声を聞くたびに、もう一度彼をこの目で見るため頑張ろうと思えた。
ねぇ、精市さん。私、何も見えなくて怖い。でも、あなたがいてくれるから怖くない。あなたのいる世界なら、私は息ができる。あなたにたくさんのものをもらったから、今度は私があなたに返していきたいの。あなたに返して生きたいの。
――――その思いが行き場を失ったのは、目覚めて約一月後だった。
『今……キス、してもいいかな?』
その声は精市さんなのに、そのキスは精市さんのものじゃなかった。
どうして?
どういうこと?
この人は精市さんじゃない。
声がそっくりで、話し方も似ていたから気付かなかった。でも違う。この人は、精市さんじゃない。
なのに、精市さんのふりをしている。
精市さんのふりを、して、くれている、の?
なら、精市さんは?
私の知っている精市さんは、何処にいるの?
「――――…………死んで、しまったの?」
誰に訊くまでもない。家族やこの“精市さん”が私に嘘をつく理由なんて、それくらいしか思いつかなかった。
一人で屋上に行こうとした。階段で何度も転びながら辿り着いた屋上には、当然だが鍵がかかっていた。泣き叫びたかった。目からは何も出なかった。ただ、ひどく網膜が痛かった。
「精市さん……何処にいるの? あなたは…………そちらで、笑ってる? ねぇ、私…………嫌よ。あなたのいない世界で生きていくことなんて、できない」
夜の病室で一人、血が出るほど唇を噛み締めた。何も見えないから、自力で死を選ぶこともできない。涙を流すことさえできないこの身が、悔しくてたまらない。
そんな時……ふと、思い出した。
『希々…………好きだよ』
今、精市さんのふりをしてくれている人は、どうして傍にいてくれるのだろう。
お金をもらったから?
私に同情したから?
『今日は少し顔色が良いね。昨日は顔色が悪かったから、心配したんだよ』
『俺は…………君に会える時間が、楽しみなんだ』
『もっと希々の傍にいたい』
『……好きだよ、希々』
「――――……ち、がう」
お金をもらったとしても、どれだけ私が惨めで可哀想だったとしても、誰かのふりをして毎日会いに来るなんて面倒なこと、簡単に引き受けるわけ、ない。
『君の声が……好きだよ』
『……俺は、希々の背丈、好きだよ』
『……君は、綺麗だ。今でも、十分に』
彼の言葉には嘘がなかった。
目覚めた後の彼の声を、言葉を、優しい手のひらを思い出すと、胸が苦しくなった。
景吾くんに屋上に連れて行ってもらった時、私は死にたかった。でも、死にたくなかった。
精市さんに、会いたかった。
“今の精市さん”に、会いたかった。
惹かれている心を認めたくなくて、認めるのが怖くて、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
何も見えなければいい。何も知らないままでいたい。そうすれば私は、精市さんを失った現実と向き合わなくて済む。そうすれば私は、“今の精市さん”に会いたいと思うことに罪悪感を抱かずに済む。
……わかっていた。逃げていても何も解決しないことくらい。
「ねぇ、精市さん…………あなたは私に、どうして欲しい……?」
傍に来て欲しい?
生きて欲しい?
「教えてよ、精市さん…………」
答える声は、無い。
ただひたすらに蘇るのは、いつも精市さんが言ってくれていた言葉だった。
『俺は希々に、幸せになって欲しい』
「……私に、幸せに、なって欲しい………………それがあなたの望み、なの…………?」
刹那、ふわりと風が頬を撫でた。
夜の病室。窓なんて開いてない。近くに人の気配もない。その風が精市さんだと、何故か私は理解できた。
「…………そう。やっぱりあなたは、そう言うのね」
一緒に死んで欲しい、生きて欲しい、どちらも違った。精市さんは私が幸せになることを望んでくれている。私の幸せは私にしかわからない。なら、私は考えなければならない。向き合わなければならない。私自身と、精市さんと、“今の精市さん”と。
思い出すのは、手術前のやり取り。
『…………成功、しなくても、俺はいいよ』
『希々の目が、一生見えないままでも俺は構わない。そうしたら……俺が一生君の傍にいる。君の目になる』
『…………本当は、それを望んでさえいる。そうしたら君を誰かに取られる心配が……減るから』
私の目が見えないままでもいいと言ってくれた。私の傍にいると言ってくれた。この人は、私を大切に思ってくれている。きっとそれは、私の勘違いじゃない。
そしてこの人が言う“私を取られる心配”とは、精市さんのことだ。私に彼の後を追って欲しくない、ということなのだと思う。
私が、精市さんじゃない人を好きになっても、精市さんは許してくれると思う?
そんな意地悪な質問を景吾くんに投げかけた。実際のこの問いは、私が私に投げかけたものだった。
――――精市さんは、許してくれる。何よりも私の幸せを願ってくれた人だから。そんな人だから、私は好きになったんだから。
今ならそう言える。
……だから。
***
目を開けた。
はじめはぼんやりと、やがてくっきり結び始める像は、思っていたよりずっと幼さの残る顔立ちだった。
私は涙の名残を拭いながら苦笑してしまう。
「…………精市、くん、って言う感じね」
目の前の少年は、目を見開いたまま動かない。
私は彼の手をそっと握って、問いかけた。
「……あなたの名前を、教えてくれる?」
少年はどこか苦しそうに、視線を逸らした。
「……幸村、精市」
同じ、名前だったのね。
もしかしたら、精市さんが引き合わせてくれたのかもしれない。そんな不思議な縁を感じた。
「…………精市くん、……ありがとう」
「……え?」
精市くんは、どこか怯えたように私を見る。私は彼の罪悪感を取り除きたくて、言葉を重ねる。
「毎日私に声をかけてくれて、ありがとう。あの日私を呼び戻してくれて、ありがとう。無関係な私を……助けようとしてくれて、ありがとう」
「……俺、は、」
「謝らないで。どんな理由であれ、…………精市さんのふりをさせてしまったのは、私が弱かったから。謝るのは私の方。……本当に、ごめんなさい」
体温の低い、大きな手。温もりが伝わるように願って、私は目を伏せた。
「……精市くんが、何を思って私にキスをしたのかわからない。でも、あなたのせいじゃない。忘れてくれて、いいから」
景吾くんと同じくらいの年頃か、それより少し上か。どちらにせよこんな前途ある少年に、私は重すぎるものを背負わせてしまった。
私にできることが、何もないことが少し悲しい。でも、好きな人には笑顔でいてほしいから。
「…………慰謝料、請求してくれていいからね。いつになるかわからないけれど、必ず返すから」
キスだけなら未成年淫行、には入らないから刑事事件にはならないと思う。あまり法律に詳しくない私にはわからない。とりあえず医師と両親、そして精市くんのご両親に連絡しようと立ち上がった時だった。
「……っ俺のファーストキスは、希々さんだ!」
精市くんは私の手を引き寄せた。
「精市く、」
「なんで……っ一人で全部決めつけるんですか。慰謝料って何の慰謝料ですか」
それはあなたのキスを奪った慰謝料だ、と告げることはかなわなかった。精市くんは私の頬を包んで、口づける。
「――――、」
角度を変えて繰り返されるそのキスに、私は目を閉じた。
「…………いつから、俺が片倉精市じゃないって気付いてたんですか?」
吐息が触れ合う距離で、精市くんは問う。
「…………初めて、精市くんにキスをされた時。精市さんのキスじゃなかったから、…………っん、」
声も仕草も柔らかいのに、精市くんの目には熱い光が宿っていて。抵抗も反論も許されない、そんな気配が部屋を満たす。
「知っていて俺のキスを受け入れてくれてた、ってことですよね?」
「ごめんなさ、」
「俺があなたを好きだってことも、知ってたんですか?」
私は答えに窮した。精市くん、だと知る前は、精市さんのふりをしてくれている人の目的は金銭なのか私への同情なのかと考えていた。しかし相手が未成年だなんて思っていなかったのだ。それくらい、話し方も大人びていたから。
「…………ごめんなさい。私が勝手にあなたを好きになって、あなたの優しさに甘えていただけなの」
「……どうして謝るんですか?」
どのみちこの問題を避けて通ることはできない。私は息を吸って、精市くんのアメジストの瞳を見つめた。
「精市くん、今……いくつ?」
精市くんは微かな躊躇いの後、小さく答える。
「15……中3です」
「私は25歳。あなたの10も年上のおばさんよ」
「年齢なんて関係ない」
「いいえ、関係ある」
優しい声に、少し強引な腕に、惹かれてしまった私が引き下がるべきだ。
「思春期に、年上の異性に憧れるのはよくあることよ。だけど、精市くんには精市くんに相応しい年齢の子がいる。今はいなくても、必ず出てくる。……だから、こんな所で私なんかに躓かないで」
「……っ15は子供ですか。子供は大人を好きになっちゃいけないんですか」
「精市くん……」
意外にも精市くんは食い下がる。私は困ってしまった。
「……ずっと、精市さんの代わりに好きだって言ってくれてたこと、すごく感謝してる。でもそれはいわば演技で、あなたの感情とは違うの。お願い、気付いて? もう精市くんは、私を好きだと言う義務なんてないの」
「…………俺が、義務感だけで希々さんの病室に毎日通ってたと思ってるんですか?」
「それはもちろん、同情とか、」
どうにかして冷静になってほしい。なのに精市くんは、私の唇を塞いでしまう。
「俺は希々さんの声が好きだ」
「!」
口づけの合間に、告げられる。
「希々さんの指が好きだ」
「、」
「希々さんの笑い方が好きだ。仕草が好きだ。一途なところが好きだ」
精市さんのふりをしていたせいで、私のことが好きだと錯覚しているんだと思っていた。でも並べられる言葉には、どれも精市くん自身の意思がある。
「片倉精市としてじゃなく、俺を見てほしかった。……ずっと。……俺の名前を、呼んでほしかった」
「……精市くん」
「片倉さんへの想いを聞くたびに、俺もこんな風に思ってもらえたらいいのに、って思ってきました。……こんな風に一途に、希々さんから愛されたいって」
精市くんは私を抱きしめて、何度も繰り返す。
「俺は希々さんが好きだ。貴女の目が見えないままなら、一生片倉精市としてでもいいから傍にいるつもりだったよ」
「精市、くん……」
「俺の言葉に嘘はない。…………信じてもらえないなら、あと3年待って欲しい」
私は彼の背に手を回したいのに回せないジレンマに、拳をきゅっと握った。不安を抱えたまま、尋ねる。
「……どうして、3年?」
「俺が18になったら結婚しよう」
「………………え…………?」
予期せぬ台詞に、私は息を飲んだ。
「……貴女と片倉さんが乗っていた車から、婚約指輪が見つかっているんだ。きっと彼は、渡すつもりだったんだろう」
精市さんの大事な話、は、結婚のことだった。
『希々、愛してるよ』
そう言って笑うあなたを思い出すと、涙が止まらない。だって私は、本当にあなたを愛していたから。あなたに愛も幸せも、全てを教えてもらったから。
「…………っ」
涙で視界がぼやける。
私を宥めるように、精市くんは背中をそっと撫でてくれた。
「希々さん、俺のこと好きだって言っていたよね。俺も希々さんのことが好きなのに、どうして離れる前提で話を進めるの?」
「だ、って…………っ、私は、10歳も年上で…………っ」
「だから年齢は関係ないって言ってるだろう? 俺はそんなこと、最初から知っていて貴女を好きになったんだ」
中学生とは思えない落ち着いた声が、耳に響く。
「私は、精市さんのこと、が、好きなのに、……っ」
「今は俺のことが好き、なんだろう?」
「っ10個も、年下、なのよ…………っ!? 精市くんが変な目で見られちゃう……っ!」
なんだ、と拍子抜けしたかのような声音が続いた。
「変な目で見られるのは慣れてるよ。神の子だとか魔王だとか、病気がちで薄幸な少年だとかね」
「! 精市くんは病気なの?」
「そうだよ。ここには検査入院で来てる。今は元気だけど、いつ再発するかもわからない。そんな“俺なんか”でもいいのなら、……恋人になって欲しい」
「あ…………」
私は年齢差への後ろめたさで、“私なんか”と言ってしまった。精市くんは、自分の病気を抱えた上で私のために毎日病室に通っていてくれたのに。
「希々さん。“私なんか”なんて言わないで。貴女にそう言われたら、俺こそ“俺なんか”って言わないといけなくなる。……何も悪いことをしていないのに」
私は恐る恐る精市くんの背に手を回した。
「俺より健康で死ななそうな人間はいっぱいいるって、わかってるよ。例えば跡部とかね」
違う。健康な人だって事故に遭えば一瞬で死んでしまう。私はそれをよく知っている。
「本当は……こんな身体で、結婚なんて口にしちゃいけないのかもしれない」
そんなことない。真剣な気持ちを感じられて、私はうれしかった。
「……俺はもう退院できるけど、久しぶりに外を歩くなら希々さんと歩きたい」
「……っ私、……私も」
涙声で、何とか頷く。精市くんは私を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
「俺は健康体じゃない。だけど、いつ死ぬかわからないのは健康な人間もそうじゃない人間も同じだ。……約束する。俺は、貴女を置いて逝かない。必ず貴女より長生きする。だから……」
頬に触れる手のひらは、熱い。
「俺と、付き合ってください」
年齢差があっても、彼はそれを気にしないという。
彼に持病があっても、私は彼を支えたい。
惹かれる心を隠さなくていいのなら。
「…………はい」
交わしたキスは、誓いのようだった。