ピーター・パイパー(跡部vs.忍足)
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*三十四話:幻滅なんかできない*
私は自惚れていた。もうお兄ちゃんとのことは自分の中で過去にできたと思っていた。何を見ても動揺なんてしないと思っていた。私は強いと、過信していた。
忍足くんと知らない女の子のキスシーンが、頭に焼き付いて離れない。重なるのはあの日、結婚式でお兄ちゃんとお嫁さんが誓いのキスを交わしているシーン。
見た瞬間、がつんと殴られたような気がした。フラッシュバックしていく、泣き明かした日の感覚。
苦しくて苦しくて、忍足くんの制止を振り切って逃げ出した。息が上手くできなくて、誰かに助けてと叫びたくて、でもできなくて。そんな時クラスに顔を出した跡部くんに、思わず縋ってしまった。
忍足くんがキスをしていたから悲しかったのか、誰かのキスシーンがショックだったのか、自分でもわからない。きっと私は、忍足くんじゃなく跡部くんが誰かとキスをしている所を見ても苦しくなったと思う。
何が原因なのか、私自身わからない。友人に相談すればいいのかもしれないが、半年以上前の、それも克服したと思っていた失恋を蒸し返すのは憚られた。
10年以上誰かを好きだなんて、きっと普通じゃない。未だに引き摺っているなんて異常だと、軽蔑されたらどうしよう。
私は自分が思うよりずっと怖がりなのだということを、今知った。
お兄ちゃん。大好きだよ。今お嫁さんと二人の写真を見ても、もう涙は出ない。恋愛感情とは少し違う気持ちであなたを想ってる。
だけど、私、気付いてしまった。
私の心は今、二人の同級生に惹かれていると。
ずっと好きだったと言ってくれた忍足くんが、別の子とキスをしていた。私のために私と歩幅を合わせてゆっくり進んでくれた人。陽だまりみたいな人。
私は忍足くんに、愛想を尽かされたのかな。見捨てられたのかな。
心にぽっかり開いた穴が、視界を黒く染めていく。
私じゃない子と幸せになってくれるなら、それが一番だ。これは偽らざる本音だ。私はまだ彼に答えを渡せないのだから。
それでも、一言言ってほしかった。
『好きな子ができたから、ただのクラスメイトに戻ろう』と。
きっと私は裏切られたような気持ちになっているのだと思う。忍足くんの気持ちを知って、忍足くんのことだけを考えようと思っていた矢先の出来事だったから。
私と関わることが面倒になったのなら、正面からそう言ってほしかった。たとえ一時傷付くとしても、それは私が今まで彼を傷付けてきた分の痛みだ。受け入れる覚悟はできていたのに。
跡部くんは、優しすぎる。強引なのに、本気で私が嫌がることは絶対にしない。今だって、そう。
『誰かに助けてほしい時、俺を頼ってくれて嬉しかった。何があったか言わなくてもいい。俺はどうすれば藍田の助けになれる?』
慈愛に満ちた台詞に、涙が溢れた。孤独に絡め取られかけていた心に温もりが芽生えた。ただ私を助けたいと思ってくれる言葉に、胸が震えた。
『幻滅なんかしねぇ』
最初はその言葉も半信半疑だった。素直には信じられなかった。
跡部くんの中には、大人びて物分りのいい“理想の藍田希々像”があって、それと違う言動を取れば私への興味なんてなくなると思っていた。
だけど、跡部くんの双眸は怖いくらい真剣で。その台詞に胸が、知らない音を立てていた。
***
跡部くんの腕の中で5時間目の授業開始のチャイムを耳にした私は、身を縮めた。私がサボる分には何の問題もないが、跡部会長まで巻き込んでしまった。
「あ、の…………跡部くん、ごめんね」
「何がだ?」
「跡部くんまで、授業を無断欠席させちゃって……」
次の瞬間、跡部くんはにやりと笑った。
「問題ねぇ。俺はこれから体調不良の女子生徒に付き添って保健室まで行く予定だからな」
「? それってどうい、う……っ!?」
既視感に襲われる。
私は気を抜いた隙にまたもやお姫様抱っこされていた。
「ちょ……っ、跡部くん!?」
跡部くんは涼しい顔で生徒会室を出た。
「別に俺も体調不良やらサボりやらで構わねぇんだけどな。真面目な藍田はどうせ、俺の生徒会長っつー肩書きに傷が付くとか教師からの信頼が薄れるとか、どうでもいいこと気にするだろ?」
「……あ、当たり前だよ!」
跡部くんは悠々闊歩して保健室へ向かう。通り過ぎるいくつもの教室では、何人かが私たちに気付いたようだった。
「俺は藍田の涙が止まるまで傍にいると決めた。具合の悪くなった生徒を保健室で介抱するための無断欠席なら、俺は責められねぇだろ」
「……っだけど私は具合なんて、」
「……心の不調だって、体調不良のうちだ。目が真っ赤だぞ?」
『心に元気がない時は、無理して笑わなくていいんだよ。希々のその涙は、心のSOSだから』
お兄ちゃんは昔、そう言った。
跡部くんの言葉と似ていて、私は目を見開く。
「保健室まで行くことは決定事項なんだ。藍田は顔伏せとけ」
「……、でも……」
「たまには“いい子”から抜け出せよ。言っただろ? 幻滅しねぇって」
その声が意地悪なのに優しくて、再び涙が込み上げた。
「……っわか、った……」
私は跡部くんの首に両腕を回し、彼の胸元に顔を伏せた。私より高い体温と、慣れ親しんだ跡部くんの香りが、身体の強ばりを解いていく。
「あり……がと……う…………ありがと、う、跡部くん……」
***
保健室につくと、跡部くんは私をベッドに座らせてくれた。生徒は一人もおらず、先生の姿も見当たらない。真っ白なパイプベッドだけがいくつか並んでいる。
「誰もいない、みたいだね」
「あぁ」
頷きながら、すぐ隣に跡部くんも腰を下ろした。
「跡部くん……?」
私を運んだ後、てっきり跡部くんは授業に戻るものだと思っていた。私が微かに首を傾げて見やると、跡部くんはふっと微笑んだ。
「……少しは落ち着いたみてぇだな」
「あ……っ、あの、ありがとう……! 取り乱しちゃってごめんね……」
喉の奥でくつくつ笑う声と共に、彼の大きな手のひらが頭の上に乗せられた。
「藍田の方から俺を必要としてくれたのは、これが初めてだ。俺はむしろ嬉しいぜ?」
「……でも、迷惑かけちゃってるし…………今度こそきっと、幻滅させた……」
私は視線を落とした。
都合のいい時だけ頼って号泣して、その理由すら自分でも見つけられない。跡部くんに見限られても仕方ないくらいの醜態を晒した、という自覚はある。
しかし跡部くんは、私の頭をゆっくり撫でた。
「迷惑なんかじゃねぇし、さっき言った通り幻滅もしねぇ。今日の藍田の何処に幻滅する要素があるのかわからねぇが、俺は……この期に及んでまだ藍田のことが、好きで仕方ねぇんだ」
「…………っ!」
胸が、どくんと大きく脈打つ。経験したことのない激しい音が心臓の奥から聞こえるみたいだった。
跡部くんは私の目を覗き込んで優しく問いかける。
「俺は藍田が落ち着くまでここにいるが、どうしてほしい? 話を聞いてほしいなら聞くし、聞かないでほしいならただ隣にいる。お前の涙が止まるまで」
「――――……」
この気持ちは、何て名前なんだろう。
愛しくて優しくて温かくて、無償の愛、みたいだ。滲みかけた涙を今度こそどうにか堪えたが、私の口からは思わず本音が漏れてしまった。
「い、一緒に考えてほしい……!」
「わかった」
跡部くんは真っ直ぐな眼差しで一言、そう言ってくれた。誰かに相談したかったのは本当だけれど、自分でもまとめられない気持ちを打ち明けていいのだろうか。
今さら逃げ出したくなる己を鼓舞し、私は震える唇を開く。
「ひ、昼休み……一緒に勉強しようと思って、忍足くんを探してたの」
「あぁ」
「そうしたら、忍足くんが……知らない女の子とキス、してて」
「…………」
跡部くんの左手を命綱のように握りしめ、声を絞り出す。
「私、跡部くんからされるキス……嫌じゃなくなってることに気付いたの。忍足くんの優しいキスも、あったかい。…………でも、誰かと誰かがキスしてるシーンを見た瞬間、胸が苦しくて息ができなくなって……」
跡部くんの右手が、緩やかに私を抱き寄せる。
「もうお兄ちゃんのことは吹っ切れたつもりだった。強がりじゃなくて、ね。……だけど私は、私が思ってたより……強く、なかった…………」
ぽろ、と涙が溢れた。もう、本当に嫌だ。
一度感情のままに泣いてしまえば涙腺が緩むことを知っていたのに。
「ごめ、違うの、いまはちょっと弱気、なだけで」
跡部くんの腕の力が強くなった。掠れた声が耳朶を震わす。
「……弱気なお前を、一人で泣かせることにならなくてよかった」
「…………っ!」
そんなことを言われたら、止まらなくなる。ひとしずく落ちた涙は私の心を掻き乱し、張っていた虚勢を溶かしてしまう。
跡部くんに抱きついて私はわんわん泣いた。土砂降りの日に傘を忘れた子供のように。
跡部くんは飽きも呆れもせず、温かい両腕で私を包んでくれた。
「10年の想いが半年やそこらで消えるわけねぇだろ。……他の奴を見るからそんなことになるんだよ」
しゃくり上げて言葉にならない私に、少しだけ速い心音が届く。
「……藍田は俺だけ見て、俺とだけキスしてればいいんだよ。……自分のキスは自分じゃ見れねぇからな」
優しい指先が涙を拭って、そっと頬を持ち上げられる。
「、」
驚くほど自然に唇がふわりと重なった。
「……な? 自分じゃ見えねぇだろ?」
優しい声が額に、腫れた瞼に、赤い鼻先にキスを落とす。
「……ぅ、ん」
先刻まであんなに怖かったキスも、慈愛に満ちたアイスブルーの前では怖くなかった。
触れるだけの口づけが、開いた傷を癒していく。
「藍田の心に少し触れられた気がして、俺は嬉しい。……不謹慎でごめんな」
私が首を横に振った拍子に頬を伝った最後の雫は、跡部くんの手のひらの中に消えた。
「前より藍田のことが……好きになった。愛しい、と思う」
男の子にしては長い睫毛が伏せられて、綺麗な顔が傾いて。
「……好きだ」
私はそのキスを、目を閉じて受け入れていた。