3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*十三話:帰る場所*
それからは怒涛の日々だった。
希々は俺と一緒に榊翔吾に頭を下げ、誠心誠意結婚の申し出を断った。榊翔吾はその答えがわかっていたかのように静かだった。
『希々ちゃんの大事な人……俺、わかってもうた。せやから希々ちゃんの選んだ答えには何も言わん。けど、結婚に憧れが出てきたら俺んとこ来てな?』
行かせるわけがない。希々の手を引いて足早に奴のタワーマンションを後にする俺に、希々はくすりと笑った。
『景ちゃん、落ち着いて』
『俺は落ち着いてる』
『歩くの速いよ』
『…………』
歩幅を合わせることすら忘れていた自身に舌打ちしたくなった。
しかし俺の中に積もる不安は、こんな幸せな結末でいいのかと現実さえ疑ってしまう。
今が俺に都合のいい夢の中で目覚めたら希々は誰かの嫁になっていた、なんてことになったら耐えられない。俺は寝ている場合じゃない。
とりあえず頬をつねってみるか、頭をどこかにぶつけてみるか。真剣に思案する俺の手を握って希々は笑った。
『景ちゃん、夢じゃないから。……だから一緒に帰ろう?』
一緒に帰ろう。
何度も聞いたはずのその台詞に熱いものが込み上げたのを隠して、俺は告げた。
『……あぁ。帰るぞ』
希々は忍足にもきちんと頭を下げて断った。というか逃げ回る忍足を俺が文字通りふんじばって希々の前に突き出した。あんなことをしてすまなかった、と謝り続ける忍足に、希々は微笑んだ。
『たくさん支えてもらったのに、侑士くんを選べなくてごめんなさい。……私を好きになってくれてありがとう』
そういう生ぬるい言葉ばかりかけるから勘違いしてつけ上がる奴が出て来るのだ。俺は終始仏頂面で事の成り行きを眺めていたが、ここでも窘められた。
『景ちゃん、落ち着いて』
『俺は冷静だ』
『靴、左右逆に履いてるよ?』
『…………』
無言で履き替える俺を見て、希々はくすくす笑った。今度は彼女から手が伸ばされる。
『景ちゃん、帰ろう』
『……っ』
またもや込み上げる熱い何かを飲み込むように、周りを確認して一瞬だけ口づけた。
何なんだ、最近。
俺様は跡部景吾だぞ?
跡部グループ副代表だぞ?
今まで面倒な状況など数え切れない程対処してきた。一々感傷的になった覚えはない。
なのに希々が“帰ろう”と言うたび、瞼の裏が熱くなる。
俺の涙腺は決して弱くない。俺は強い、はずだ。しかし、
『景吾?』
名前を呼ばれてふと気付いた。
そうか。俺は――――――。
***
溜めていた仕事を片付けつつ、窓に目をやるともう空は暗くなっていた。集中しすぎて定時をとうに過ぎている。
「姉貴、悪い。もう上がれ」
「うぅん、景吾が終わるまで私も残る」
「……? わかった。あと1時間もすれば終わる」
「はーい」
いつもなら定時で上がる希々が俺につき合って残業するなんて珍しい。
とは言え彼女に負担をかけるわけにはいかない。俺は普段の倍の速度で頭を回転させ、何とか区切りのいいところまで仕事を終わらせた。
「……希々、悪い。待たせたな」
希々は笑って席を立ち、俺の方へと歩み寄る。
「大丈夫だよ。お疲れ様、景ちゃん」
そっと頭を抱き寄せられて、俺は目を閉じた。落ち着く希々の香りに包まれる。俺の大好きな香り。
……本当にこれは夢ではないのだろうか。幸せすぎてまたもや不安になってきた。
「……なぁ希々、俺……夢見てるのか?」
「景ちゃん?」
「だってそうだろ? 希々が他の奴じゃなく俺を……選んでくれる、なんて、そんな都合の、いい…………っ」
本当に俺はどうしたんだ。喉が詰まってそれ以上声が出ない。夢の中でも俺は泣いたりしないのに。
俺を抱きしめる希々の腕に力が込められた。
「景ちゃん……遠回りしちゃってごめんね。心配かけちゃってごめんね。ずっと待たせて…………ごめんね」
いつもと逆だ。俺の髪に、額に、瞼に、優しいキスが降ってくる。その拍子に一筋溢れた涙を唇で拭って、希々は俺から離れた。
行かないでくれ、と言いそうになって慌てて口を閉じる。
「……希々、?」
「えっと、ほんとは部屋で渡そうと思ってたんだけど……ここでもいいや」
希々は鞄をごそごそ漁り始め、何か小さな箱を持って再び近寄ってきた。
「あのね、景吾。よかったらこれ…………もらってほしい。つけなくてもいいから」
渡されたのはジュエリーボックスで、俺の心臓がどくんと音を立てた。
「開けていい、か……?」
情けなく声が震える。しかし平静を装う余裕など今の俺にはなかった。
「うん、もちろん」
声だけでなく指も震えていたが、有名ブランドのロゴが入ったその箱を開ける。
「――――――」
そこには、シルバーとピンクゴールドの指輪が並んでいた。
希々は照れくさそうにはにかんで、髪に手をやった。
「……ここ最近、ずっと景吾が不安そうで……私、心配だったの。翔吾さんと話した時も侑士くんと話した時も、夢じゃないかって何回も聞くから…………どうしたら安心してもらえるか考えたの」
「、」
「景吾は前に、私にプロポーズできないって言ってたから…………」
細い指がピンクゴールドのリングを引き抜き、華奢な左手薬指に嵌める。
「……私が、景ちゃんに言おうと思ったの」
夢じゃないかと、今も思う。現実味がない。シルバーのリングを引き抜いた希々が、俺の左手に触れて言う。
「…………景ちゃん。私と一緒に、生きてくれますか?」
本来なら男の俺から言い出すことだとか、嵌めるのは俺の役目だとか、浮かんだ言葉が端から消えていく。
誤魔化しようもなく頬を流れるのは涙だ。嬉しくて泣くなんて、生まれて初めてだった。
頷くことしかできない俺に、希々は微笑んだ。
「今だけ、景ちゃんも……嵌めてくれる?」
「……っ」
子供のように何度も何度も首を縦に振った。髪を撫でた手が、ゆっくり俺の左手薬指に指輪を通す。
「……えへへ、お揃いだね。私詳しくないからお店の人に聞いてね、すごく考えたんだよ」
このダイヤにはお守りの意味があるとか、誰かに見られて困るのは嫌だからデザインを特注にしたとか、愛しい声がいろいろ説明している。しかし俺の頭は全く機能しない。嬉しすぎて、嬉しすぎて、思考回路がショートしている。
「結婚、とかじゃないけど……指輪っていう目に見えるものがあったら、景ちゃんも少しは夢じゃないって信じられるんじゃないかって……景ちゃん? 聞いてる?」
――俺は許されないと、ずっと思っていた。
誰に許されなくてもいい。希々に許されるならそれだけでいいと思っていた。
気持ちを伝えることさえできないと思っていた。いつかは引導を渡されるんじゃないかと怖くて仕方なかった。
たとえ卑怯でも非道でも、希々を依存させることで繋がりを保とうとした。
……そんな俺には、勿体ないくらいの奇跡だ。
永遠が存在するなら、俺は俺の全てを永遠に希々に捧ごう。永遠が存在しないなら、俺が永遠を希々に証明しよう。この愛が永遠に変わらないことを。
「景ちゃ、」
「――愛してる」
我慢できるはずがない。
俺は希々を掻き抱き、唇を重ねた。
柔らかい唇を繰り返し奪い、やがてソファに雪崩込む。
「ちょ、景ちゃん! ここはオフィスで、」
「いいだろ、オフィス・ラブってのも」
「駄目、ん…………っ」
愛してる。愛してる、愛してる。
駄目だ。こんなんじゃ全然足りない。
俺は身体を起こし、希々も引き上げた。
「景、ちゃん……?」
「早く、帰る。部屋でちゃんと希々を堪能させろ」
「えぇえ!? もうこんな時間なのに!?」
「我慢できねぇ。明日は強制的に休みだ。俺も……姉貴もな」
元気に騒ぐ姉の手を引いて帰路につく。
少し肌寒い夜風が心地良いくらい、繋いだ手は温かい。
名前を呼ばれてふと気付く。温もりに触れてふと気付く。帰る場所を見てふと気付く。
そうか。俺は――――――幸せなんだ、と。