3章
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*九話:今すぐ*
『このこと、跡部に言うたらあきまへんよ?』
『誰かに聞かれたら、ちゃんと答えてくださいね? 俺のもんや、って』
『指輪……一緒に選びに行きましょ』
景吾を守りたい。そのためには、景吾が私を好きだなんてスキャンダルは誰にも知られてはいけない。
侑士くんと結婚しても、私と景吾が姉弟だということは変わらない。
なのに何故だろう。
涙が止まらない。
「希々さん、希々さんは誰のもん?」
「……侑士くん、だよ……」
「ほんなら、もう泣かんといて……」
降ってくる口づけを受け止め、私は目を閉じる。自力では止められない涙が、頬を伝うのがわかった。
侑士くんは翔吾さんとも会っていいと言ったけれど、侑士くんと結婚する私が彼に会うのはおかしな話だ。先刻の電話でさよならを言えただけよかった。
「……お願い……優しい侑士くんに戻って…………」
何度も言った。何度も懇願した。でももう、私の言葉は侑士くんには届かないみたいだった。
「希々さんが俺の言うこと聞いてくれとるうちは、優しくしますよ。誰より……」
優しかった侑士くんをこんなに追い詰めてしまったのは、私だ。
藍色の瞳に仄昏い光を宿して、侑士くんは私の頬を包む。
「希々さん…………愛してる」
繰り返される愛の言葉と口づけは、まるで呪いのようだった。
「我慢できひん……堪忍な、希々さん」
既にブラウスは脱がされている。キャミソールとスカートだけの私に、しなやかな手が伸ばされた。
「……っ」
ちくりとした痛みと共に、腰に、鳩尾に、キスマークが付けられる。
「やっぱりこの辺が一番俺のもんっちゅう感じするな」
景ちゃんにすら付けられたことのない敏感な場所を吸われて震えていた私は、もういない。
左手の薬指に嵌められた指輪も、肌に散る所有印も、楔だった。
あの日の取引、という言葉通り、侑士くんは私を抱いてはいない。きっと景吾のことも誰かに話したりしていないと信じている。
……私は答えを出すのが遅すぎた。そのせいで、侑士くんが変わってしまった。なら、私が償わなければならない。
「これももう……いらへんでしょ」
「! それは……っ!」
景ちゃんにもらったネックレスが外された。侑士くんは金具を指先で摘んで首を傾ける。
「“それは”? 何です?」
「…………っ何でも、ないよ…………」
景ちゃん。
景ちゃん。
景ちゃん、ごめんね。
どうしたらいいかなんてわからないけど、どうしたいかはわかってる。私は景ちゃんを守りたい。
景ちゃん。
いつも私を守ってくれてありがとう。
いつも傍にいてくれてありがとう。
今度は私が、景ちゃんを守るから。
「希々さん、いつもそのネックレス肌身離さず付けてたやろ? ……跡部からもらったもんやから? それとも単にデザインが好みやったから?」
「……デザインが好きだったから、だよ」
私の、お守りだった。
「なら、似たようなやつ今度買いに行きましょ。医者の卵って、そこそこ金もらえるんよ」
「……うん。ありがとう」
心を閉ざして、私は微笑む。
「式、いつにします? その前にご両親に挨拶せなあかんし……結婚て、やること結構多いんやね」
「……そうだね。侑士くんの方が忙しいと思うから、侑士くんの都合に合わせるよ」
「そこは花嫁さんが主役なんやから、希々さんに俺が合わせます」
「……考えておくね」
私は目を閉じる。
景ちゃんの笑顔はもう、霞んでしまった。でも耳に残って離れない。
景吾が放った、何気ない一言。
『……幸せだ』
思い出して、また涙が溢れた。
「大分外暗なってきましたね。今夜は俺ん家泊まって行きます? 家帰ります?」
私は涙を拭って、どうにか笑みを作る。
「……侑士くんと結婚したら、頻繁には家に帰れないから。お父さんとお母さんとの時間、もう少し大事にしてもいいかな……?」
侑士くんは優しく頭を撫でてくれる。
「そう、やね。親孝行せんとね。……送って行きます」
「……ありがとう」
残り僅かな時間、景ちゃんと一緒に過ごしたかった。
以前景ちゃんと喧嘩になった原因、バレンタインのリボンが脳裏を過る。景ちゃんが私と離れた時のためにとっておいたという、ラッピングリボン。あの時の景ちゃんも、こんな気持ちだったのだろうか。
何がしたいわけじゃない。
景ちゃんにぎゅっと抱きしめてもらいたい。
一緒に眠りたい。
拗ねた顔を見たい。嬉しそうな顔を見たい。
会いたい。
「希々さん、準備できた?」
「うん」
「ほな、行きましょか」
繋がれた手に、体温を感じなかった。
*****
跡部邸まで送ってもらった私は、部屋に向かおうとして途中で足を止めた。
こんな夜に珍しく、迎賓室から明かりが漏れている。しかも誰かが言い争っている声が聞こえる。興味本位で覗いた私は、そこに広がる光景に思わず息を飲んで身を隠した。
「希々ちゃんの様子おかしいんはあの忍足言うガキのせいなんやろ!? 俺はそいつの連絡先知らんのや! 景吾くん、頼むから何が起きてるんか教えてや……!」
息を切らした翔吾さんがいた。いつもと違って余裕なんて微塵もない。
対する景吾も、苛立ったように髪をかきあげる。
「俺だって知りたいですよ! ……っあの夜から姉貴は何も言わねぇし、忍足は俺からの電話に出ねぇし……!」
「ほんなら、俺が直接職場なり家なり行って聞いてくるわ」
「それは俺が試しました。……忍足は今医大の社員寮に住んでますが、関係者以外は本人が許可しない限り中に入れないようになってます」
「病院は……それこそ関係者以外立ち入り禁止か」
「はい。姉貴だけがそこに呼ばれてますが、何も話してくれません」
私……?
息を潜めて聞いているうちに、どうやら侑士くんの話らしいとわかった。でも、本当に二人が気にかけているのは私のこと、らしい。
翔吾さんは長く息を吐いた。
「……景吾くん、この際やからもう一個、聞きたいことがあるんやけど」
「何ですか?」
「希々ちゃんの“大事な人”って、誰か知っとる?」
私の心臓が、どくん、と音を立てた。無意識に身を縮める。
「……どんな人、って姉貴は言ってました?」
落ち着いた景吾の声が、耳に入る。
「恋愛感情がわからん自分のこと、ずっと好きや言ってくれた人、なんやて。小さい頃から一緒に過ごしてきて、自分の良い所も悪い所も知ってくれてる人……やって」
少しだけ寂しそうな翔吾さんの声が響く。
「使用人なんか幼なじみなんか知らんけど、……希々ちゃんはそいつのことがめっちゃ大切なんやて。でもそれは“侑士くん”やないって、俺ははっきり聞いたんや」
翔吾さんが、静かに問う。
「景吾くん。希々ちゃんの“大事な人”って誰か、知っとる?」
景吾は、どう答えるんだろう。
当然自分だなんて言わないと思うけれど、存在しない幼なじみは作れない。使用人と言っても歳の近い人はいない。
お茶を濁すのだろうか。
私は不安を抱えながら、景吾の答えを待った。
長い沈黙の後、景吾はそっと呟いた。
「…………そうか。姉貴は……そんな風に言ってたのか」
――あぁ、今景吾はきっと嬉しそうに笑ってる。わかるよ。その声、ずっとずっと聞いてきたんだから。
「……景吾くん?」
「俺……誓ったんです。成人して大学卒業して跡部を継げるようになったら、今度は俺が姉貴を守るって」
私が姉として守ると決めたのに、景ちゃんはいつも私のために全部捨ててしまう。どちらが歳上かわからないほど、甘くて温かい愛情をくれる。
そして、それを嬉しいと感じている自分を……私はもう、否定できない。
「……榊さん、ありがとうございます。姉貴が一人で抱え込むのも自分を犠牲にしようとするのも、……理由はいつも同じだってことに、あなたのおかげで気付けた」
「どういうことなん?」
「明日、俺が忍足と話をつけてきます。あと一日待っていてください」
「? 話聞き出す手段、無かったんとちゃうん?」
景ちゃんの声には、もう動揺の欠片もなかった。きっと何かを決めたんだ。
私は、密かに取り返していたネックレスをそっと抱きしめた。
「――――手段を選ばなければ、俺はあいつと話ができる。跡部の家だろうがこの国の警察司法行政全てだろうが、何を使ってでも……何を敵に回してでも、蹴りをつけます」
「……!」
「ですからあと一日、待っていてください」
翔吾さんは息を飲んだみたいだった。
「……っ希々ちゃんの大事な人って…………」
「ふっ……」
景ちゃんはきっと今、少し意地悪な顔をしている。それがわかる、自信に溢れた声音だった。
「……俺はその大事な人のこと、知ってますけどあなたには教えません」
景ちゃん。
今すぐ、ぎゅってしてほしい。