3章
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*四話:俺の全て*
嫌な予感はしていた。それでも希々が一人であいつと会うよりはましだと思って、招待に応じた。
『希々ちゃんがOKしてくれたら、大事な姉さんを俺にください』
頭の中がぐちゃぐちゃだ。叫び出したいほどの激情を押し殺し、どうにかビジネス用の顔で乗り切った。何を喋ったかなんて覚えていない。
あれから希々は、何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
家に帰っても、思考が働かない。
俺にはできないプロポーズを、いとも容易くやってのけた榊翔吾が妬ましくて死にそうだった。
希々は恋愛感情がわからないことを両親に伝えていない。そこまで予想していた榊翔吾を、完全になめていた。奴は俺の想定よりずっと深く、希々のことを考えていた。
しかし、よりによって俺に『姉さんをください』だと?
拷問されようと四肢を捥がれようと出来ない相談だ。
「……っくそ…………っ!」
希々は俺のものだと言えたら良かった。言いたかった。言えるはずがなかった。
この際俺達の関係がバレてしまってもいいんじゃないか、と一瞬でも考えた自分を殴りたくなった。
悩みながら、泣きながら、それでも希々は俺を守ろうとしてきた。忍足以外には何があろうと俺との関係を話さなかった。
俺は弟として、守られてきた。なのに俺は、その思いを踏みにじろうと考えたのだ。僅か一時とはいえ、希々の覚悟と愛情を裏切ろうとした自分への嫌悪感が止まらない。
誰か、俺を殴ってくれ。
濁流のような感情が止まらない。
このまま希々の口からあいつの名前なんて聞こうものなら、俺は禁忌の一線を越えて彼女を抱き潰してしまうだろう。
あの指輪を左手の薬指に嵌めて、榊翔吾の隣で笑う希々を想像して吐き気がした。拳を強く握りすぎて爪が手のひらに食い込み、血が滲んでいることに気付く。
「…………痛ぇ…………」
ぽつりと呟いた声が部屋に響いた。
その痛みで、はっと我に返る。
「っ!」
――違う。痛いのは俺だけじゃない。
誰とも付き合わない、という結論を出すまでにさえあれだけ苦しんだ希々だ。初めてのプロポーズに、何を考え始めてもおかしくない。
「希々、」
俺は縺れる足で部屋を飛び出した。
「……っ希々……っ!」
自分のせいで跡部グループと榊グループの関係が悪くなるんじゃないかとか。
自分さえ頷けば関係者の傷は浅くて済むんじゃないかとか。
恋愛じゃなく結婚ならもう諦めようとか、これははっきりした答えが出せない自分への罰なんだとか。
どうせそんなろくでもないことを考え出すんだ、あの馬鹿姉貴は。
俺は俺で何も整理なんてできていない。だが、俺の不安や葛藤など希々を一人で泣かせることに比べれば、あまりに些事だった。俺にはすべきことがある。何より優先すべきものがある。
希々の部屋にたどり着き、両手でドアを叩いた。
「希々!」
返事はない。
「……っ」
強行手段に出ようとドアノブを握っても、鍵がかかっていて動かない。学生の時を思い出して、血の気が引いた。
希々が部屋に鍵をかけるのは、俺に会いたくない時だ。俺の予想通り、一人で泣いて一人で訳のわからないことを考えている時だ。
「……っ希々!」
もう一度ドアを叩いたが、相変わらず返事はなかった。
部屋に戻ってスマホを持ってくる時間さえ惜しい。希々が俺に会いたくなかろうが、声も聞きたくなかろうが知ったことか。
俺は俺の命より大切なものを、守る。
――――バキッ、
俺は希々の部屋のドアを、蹴り破った。
「!?」
キィ、と頼りなさげな蝶番を支えに、揺れるドアの向こう。
見慣れた優しいアイスブルーから、幾筋も雫が溢れていく。目の縁も鼻の頭も真っ赤で、震える唇が嗚咽を堪えて俺の名前を呼ぶ。
「景……ちゃ…………っ」
俺は選択を誤らなかったことに安堵して、希々を力いっぱい抱き締めた。
「……っ希々……っ!!」
「けぃ……ちゃ……っ! 私、わたし…………っ!」
「……っごめんな。もう、一人で泣かせねぇ。……ごめんな」
できるなら希々の部屋でこのまま動かない方が、彼女への負担は少ないだろう。しかし俺がドアを壊したせいで、人に見られる可能性が出てきてしまった。そのうち使用人も集まってくるはずだ。
俺は希々の膝裏に手を回し、抱き上げた。
「……悪い。必死すぎてドア壊しちまったから、今日は俺の部屋で休んでくれるか?」
希々は俺の首に縋り付くようにして、小さく頷いた。首肯の弾みでぽたりと落ちた涙が、ひどく頼りなく見えた。
*****
俺は自室に戻って鍵をかけ、希々を抱き締めたままコントロールパネルで使用人に指示を出した。こんな夜中に何が起きたのかと屋敷はざわついていたものの、程なくして収まったようだった。
ある程度の静けさを取り戻した部屋で、希々の髪をゆっくり撫でる。
泣きすぎて苦しそうな希々にミネラルウォーターのペットボトルを渡したが、呼吸がひどく浅く、首を横に振られた。様子を見るに、飲みたいが飲めない状態だ。既に過呼吸寸前で、脱水症状も危ぶまれる。
「……ごめんな」
俺は自分の唇で希々の唇を塞いだ。息が苦しいのか捩る身体を、痛みを感じさせないよう抱きすくめる。
「んん……っ! っ、は……っ!」
「ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だ。俺がついてる」
「け……ちゃ…………っ!」
「大丈夫だ」
安心させる手つきで背中を撫でて、真っ赤な鼻や眦、唇に口づけを落としていく。柔らかな口づけの合間に大丈夫だ、と言葉を重ねる。それらを何度も繰り返しているうち、やがて希々の身体の震えが落ち着き始めた。呼吸も安定の兆しを見せる。
俺はほっとして、もう一度華奢な身体を抱きしめた。
「……ったく、心配かけさせやがって」
希々は軽く咳き込んだ。
「…………景ちゃ……、けほっ、喉かわいた……」
掠れた声で、希々は訴える。ぐったりと全体重を俺に預けている希々は、自力でペットボトルを持つことはおろか、動くことさえままならない。
「ちょっと待ってろ」
代わりに俺がミネラルウォーターをあおって、口移しで与えた。何となく2年前の夜を思い出した。
あの夜も、酔った希々に水を飲ませたのは俺だった。あの夜も、希々は泣いていた。あの夜も、……俺の忘れられない日になった。
泣き虫で、押しに弱くて、鈍くて、関西弁ホイホイで。でも、こんなにも愛おしい。
「ん……」
素直に俺からの水を含んだ希々の喉がこくん、と動いた。
真っ赤な目が、ぼんやりと開く。
「景……ちゃ…………」
「……馬鹿姉貴。一人で泣いて何か解決した試しがあったか?」
「……………………ない」
困り顔で寄せられた眉すら、俺の胸を叩くことをこの姉は知っているのだろうか。その弱さも頑固さも、笑顔も泣き顔も、全てが俺の鼓動を速める。好きだと伝えてくる。
「……言ってみろ。不安なこと、考えてること、まとまってないことも、全部」
「……でも、」
「俺は希々を悲しませる全てのものを排除する。何を聞いても俺の愛は変わらねぇ。……だから安心して、打ち明けてくれ」
ゆるりと髪を撫でてやる。言い出しづらいなら、あと何時間でもこうして抱きしめていてやる。待ってやる。明日の仕事なんざ有給でも消化すればいい。俺にとって一番大切なものが揺らいだことは、生まれてこの方一度もない。
安心してくれ。俺の腕の中は、あんたのためにある。俺の全ては、あんたのためにある。
「……あ、の、」
希々は震える右手で俺のシャツの裾を握って、俯いた。
「私…………本当に誰かにプロポーズされるなんて、思って、なかった。なんとなく、私は……誰とも結婚しないでいる、んじゃないかって、思ってた。……景ちゃんと一緒なら、それでいいって思ってた。……けど……」
どうせなら、シャツじゃなく俺の手に触れてほしい。細い指先を右手で包むと、希々は俺の小指をそっと握り返してくれた。低い希々の体温が少しでも温まればいいと思って、左腕で抱き締める力を少しだけ強めた。
希々は俯いたまま、ぽつりぽつりと思いを口にしていく。
「私が断ったら、……跡部グループと榊グループの関係が……悪くなるんじゃないかって、怖くなった。……恋愛の好きは結局わからないままだけど、恋愛と結婚は別物だって、聞いたことがあるから…………私、頷くべきなんじゃないかって、思った」
だって、と希々は呟いた。
「私…………どうしたらいいのか、わからない……」
本気で迷っているらしい希々に、俺はため息を禁じ得なかった。本当にこの姉は、何度も同じことで悩む。まぁ、俺はそのたびに何度でも彼女の不安を消すと決めているが。
「……希々、どうしたらいいかわからねぇっつったよな」
「……うん」
「じゃああんたは、死ねばいいと他人に言われたら死ぬのか?」
「え!?」
これは極論だ。しかし“どうすればいいのか”の答えを他者に求めている以上、解決はしないと伝えたい。
「結婚すればいいって言われたらするのか? 断ればいいって言われればそうするのか?」
「それ、は、……」
希々は黙り込んだ。
「……人生に答えなんかねぇ。どっちを選べば正解かなんて、誰も教えてくれねぇよ」
そっと希々の耳朶に口づける。
俺だって、譲れないものがあるから。
「希々。考えるのは、“どうしたらいいか”じゃねぇ。“どうしたいか”だ」
希々が、はっと顔を上げて俺を見た。
「希々があいつと結婚したいのか、考えろ。そこに俺はいねぇけど、それでも幸せだと笑えるか考えろ」
「……け、いちゃ…………」
「希々の素直な願いを、自分と向き合って探せ」
涙で濡れた頬を優しく拭いながら、俺は小さく息を吐いた。
「希々があいつを選ぶなら、俺はどうにかしてあんたを取り戻すから安心しろ。希々が俺を選ぶなら、跡部グループも榊グループも世界中を敵に回しても……」
唇を重ねて、告げる。
「……幸せになってやる」
「、景ちゃん……」
希々は目を丸くしてから、一拍置いてふにゃりと笑った。
「……それだと私、どう転んでも景ちゃんの所にいることになるよ」
「よくわかってんじゃねぇの」
それを希々から望まれるよう、俺は生きてきた。俺の全てはそのためにあった。
大学を卒業した。成人した。……今度は俺が希々を守る。
「俺は希々のもんだから、希々の望みに従う。……だが、甘く見んなよ?」
不意打ちでもう一度唇を奪って、ぎゅっと抱きしめた。
「俺よりあんたのことを理解してる人間なんざ、この世にいねぇからな」
ふふ、と笑って希々は頷いた。
「……景ちゃんは、いつだって私の涙を拭ってくれるもんね」
「……希々、だけだからな」
「私専用の……タオル?」
「俺はタオルか。……まぁ、あんたがそれで喜ぶならタオルでもいいか」
たとえ神に背いても。
悪魔に魂を売ってでも。
何もかもを蹴散らして、俺は腕の中のひとを手に入れる。
初めてのプロポーズが生んだ小さなひび割れを感じながら、俺は静かに目を閉じた。