2章
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*三十話:大人の恋愛*
翔吾さんは、強引に私の心を引き寄せる。大人のキスは景ちゃんとしかしたことがないから、他の人とはしてはいけない気がしていた。触れるだけのキスは拒みきれなくても、深いキスは避けていたのに。知っていて、翔吾さんは踏み込んでくる。
言葉は、今までと同じように優しい。でも、ふと景吾の影がちらつくと別人のように“男の人”になる。私が逃げるとわかっているから、いつだって抱きしめて逃げ道を塞いで。
これが大人の恋愛、なのだろうか。
そんなこと私にわかるわけがない。
いっそのこと嫌いになれたらいいのに、“キス”や“大事な人”が関わらない時の翔吾さんは、相変わらず私の大好きなお兄ちゃんだから困ってしまう。
「……希々ちゃんには、俺が二重人格みたく見えてるんかな?」
私は何となく、翔吾さんの伊達眼鏡をそっと外してはまたかける、という動作を繰り返した。意味のない行動と共に、控えめに頷く。
翔吾さんは私の手を取って、苦笑した。
「……ごめんな。俺、もう我慢も限界なんや」
「……え…………?」
指先をそっと絡めて、切なく笑う。
「初めて会うた時のこと……覚えとる?」
「……はい。テニス部の同窓会で……」
「あん時から、どんどん好きになってった。ずっと希々ちゃんのこと、好きやった」
私は目を伏せる。
指先に微かに力が込められた。
「男が苦手な希々ちゃんに近付きたくて、友達なんて言うてみたり、従兄弟の兄ちゃんみたいに思ってくれなんて言うてみたり。……ほんま、女々しいわな」
私は俯いたまま、首を左右に振る。
「私のことを……考えてくださったのに、そんな風には思いません……」
翔吾さんは握った手ごと、私を抱き寄せた。
「けどな、お試しでも恋人OKしてくれたんは希々ちゃんや」
「、……はい」
「手繋いで歩ける。キスできる。それが、俺の思とる恋人像やった。せやけど希々ちゃんの恋人像は、ちゃうんよな」
「……?」
ぎゅっと抱き締められて、今度は緩やかに髪を撫でられる。安心できる手つきに、警戒心が解けていく。
「希々ちゃんには多分、恋人像そのものがあらへん。街を歩いてるカップル、みたいな認識やろ? どっか自分とは別世界のこと、みたいな」
「……はい。私…………恋人が欲しいわけじゃ、ないから」
お試しで恋人になりたいと言われた時、熱い空気と眼差しに流されたのは事実だった。ただ、私からやめてくださいと言わなかったのは、これで景吾の想いが何かわかるかもしれないと思ったからだった。
だがそう上手くはいかない。二人とお試し恋人になると決めた日から、私の心は行先を失った。
翔吾さんにどきどきさせられる。侑士くんに癒される。でも、二人と会う日私は、景吾に嘘をついている。女友達と会ってくる。そう告げるたび、景吾は私を見て微笑む。
『……そうか。あんまり遅くなるなよ』
あの微笑みはきっと、わかっている。私の会う相手が女友達ではないこと。後ろめたい相手だということ。それでも送り出してくれるのは恐らく、以前のように私を“監視しているわけではない”と証明するためだ。
どう言葉にすればいいんだろう。何かを諦めたような、何かに耐えるような、傷付いたような微笑みを。私は景吾のその表情を見るたび、胸がずきりと痛む。
――今の私が“好き”を知りたい理由。
それは、景吾の気持ちを少しでも理解してあげたいからだった。
景吾は学生の頃から、私を愛してくれていた。何よりも私を大事にしてくれた。私は景吾にしてもらうばかりで何も返せないのに、それさえ自分の喜びだと言う。
弟だけれど、景吾のキスは私を落ち着かせてくれた。景吾の腕の中が、何処よりも安心できた。
こんなに深くて甘い愛情をもらっていれば、自然何か返したいという気持ちが湧いてくる。私は、景吾の心を知って寄り添ってあげたかったのだ。
同じ“やきもち”一つとっても、私と景吾の持つ意味は違ってしまう。私のやきもちは、景吾がいなくなってしまう寂しさや不安に端を発している。対する景吾のやきもちは、所謂恋愛感情の嫉妬、というものなのだろう。
私には嫉妬が、わからない。誰かを羨ましいと思うことはあれど、嫉妬と呼べるほど強い感情を抱いたことがない。
「……ほんなら、何でお試し恋人OKしてくれたん?」
翔吾さんの言葉に、私は小さく呟いた。
「……微笑みの裏にある、痛みを知りたかったからです」
向かい風の中、私をただ優しく見つめるあのアイスブルーに、何かしてあげたい。私からもできることを探したい。景吾に笑ってほしい。思い出すのは、景吾の『幸せだ』という言葉。景吾に、幸せをあげたい。
……と、不意に翔吾さんが私の頬に触れた。
「……今希々ちゃん、“大事な人”のこと考えとったやろ? 俺と恋人ん時くらい、俺のことだけ考えて」
「!」
私は頭を下げた。
「ごめんなさい。……そう、ですよね」
翔吾さんのことだけ考える、と言ったのに、私はまた景ちゃんのことを考えてしまっていた。このままでは約束が守れない。
申し訳なくて思わず肩を落とした。そんな私の髪をくしゃ、と撫でて、翔吾さんは言った。
「いーや。俺は今深く傷付いた。せやから希々ちゃんに責任取ってもらわんと」
「えぇっ!?」
驚いて顔を上げた私の唇が、塞がれる。
「……っ!」
ぎゅっと目を閉じた。しかし、触れただけの唇はすぐに離れて行った。
ほっとした私の内心なんて、全部お見通しなのだろうか。翔吾さんは、不思議な表情で笑っていた。
「――!」
悲しそうな、愛おしそうな、切なそうな、諦めたような、嬉しそうな、寂しそうな。
いつも景吾がふとした瞬間見せる顔。私はその気持ちを、知りたい。
「あの……っ、翔吾さん!」
「ん?」
「今……っどんな気持ちだったんですか……!?」
唐突な私の願いに、翔吾さんは数回瞬きをしてから苦笑した。
「……言うてええの?」
「知りたいです!」
「……じゃあ、顔は見んといて」
ゆるりと抱き寄せられて、翔吾さんの表情が見られなくなる。翔吾さんは、今まで聞いたことのないような弱々しい声で切り出した。
「……今から言うことは、俺の中でもまとまってへん。正直、言いたない。でも、希々ちゃんが聞きたいなら…………カッコ悪いけど、教えたる」
「カッコ悪いなんて、」
言葉を遮るように、強く抱き締められた。
「……待つって決めたんに、キスなんかして希々ちゃん怖がらせてしもたかもしれへん。けど、そいつとしかキスしてへんとか狡すぎや。……そりゃあ俺は知り合うたばかりの他人やけど。でも、そんなんただのタイミングやろ? 俺だって3年……いやもっと早く希々ちゃんに出会えてたら、今頃もっと仲良うなれてたかもしれへん。希々ちゃんの恋人になれてたかもしれへん…………そんな仮定ばっかり、頭を過る」
「、」
「…………けどやっぱり、そいつの持っとる信頼がほんま羨ましくて悔しいわ。長く一緒に居るだけで、希々ちゃんの中にどっかり居座りよって。希々ちゃんの頭ん中、いつもそいつばっかや」
「――」
否定できなかった。
私の物事の基準がいつの間にか景吾になっていることに、今、気付かされた。
初めて知らされる翔吾さんの想いに、胸が震える。いつも自信に溢れていて何事もスマートにこなす彼の、不安に触れた瞬間だった。景吾と、同じ。
私がこの人に惹かれる理由の一つを知った。
この人は、景吾に似ているのだ。もしも他人だった時の、景吾を想像した時に。お金持ちで格好良くて自信満々で、でも優しくて。
「恋人になってみても、キスしても、どっかそいつがちらつく。そのたび思う。……俺やあかんの? 俺とそいつ、どこがちゃうん? 俺……そいつに負けたない。何をしたら、どう接したら、希々ちゃんの一番になれるん? 俺は本気で希々ちゃんが欲しい」
本気。その言葉に唇を噛み締める。
私は湧き出てくる思いを口にした。
「……翔吾、さんは、……格好良いです。大人で、優しくて、魅力的です。……こんな変な女じゃなくて、もっと綺麗で優しくて……可愛くて、面倒くさくない子を……選べるじゃないですか……」
景吾だって、そう。私を選んだって結婚できないのに。私が何か特別なことをしてあげているわけじゃないのに。
どうして?
今も景吾の気持ちは変わっていない?
それとももう、私のこと“好き”じゃなくなった?
景吾も翔吾さんも、誰のものにもならない私を意地で欲しがっているだけなんじゃないの?
私が誰かのものになれば、すぐ興味を失って別の子を探すんでしょう?
――私の周りに溢れていた、たくさんの“恋”と同じように。
「意地を……張らないでください。翔吾さんは、私のことが好きなんじゃない。手に入らないものを欲しがってる、だけです」
私の葛藤を知ってか知らずか、翔吾さんは強い口調で否定する。
「俺は希々ちゃんがええんや。他の女じゃ意味あらへん。綺麗だろうが可愛かろうが従順やろうが、俺が欲しいんは……」
そっと、身体が離れる。
もう、隠そうとしない熱い眼差しが向けられる。
「――希々だけや」
「……」
ずっと、抑えていてくれた。私が怖がらないよう。こんな普通じゃない女に、そこまでする理由がわからない。私は何も、返せていないのに。
「……わかりません。私があなたなら、絶対に選ばない。こんな、……恋愛もまともにできない変な女。そんなに意地を通したいんですか? 綺麗な子を探してるなら、恋人のいないモデルさんを探し、――――」
言葉が、噛み付くような口づけに飲み込まれる。嫌だと身体をよじっても、景吾にそっくりで景吾より激しいキスは私の呼吸を奪った。噎せて、空気を求めてもがいて、それでも解放してはもらえない。
「……っ、は…………っ、っ、」
上手く息ができなくて、視界が歪み始める。キスって酸欠になるんだ、などと頭の隅でぼんやり考えた。
私は普通じゃないのに、どうしてこの人は私がいいと言うんだろう。私は自分のいいところなんて、見つけられない。昔から抱えてきた欠陥が、無意識に私の自己否定に繋がっていた。
好きな人ができない、私。
景ちゃんに依存している私。翔吾さんに流されている私。侑士くんにしか相談できない私。
「…………っは、っぁ…………っ!」
長すぎて苦しいキスに、頭が朦朧としてきた。足腰も腕も満足に動かせない。抱きしめられていなければ、私は個室の床に倒れ込んでいただろう。
私の身体を支えながらようやく唇を離してくれた翔吾さんの声は、驚く程優しかった。
「……希々ちゃんは、確かに他の大多数の女の子とはちゃうのかもしれん。でもな、俺が好きなんは……俺がもっと知りたいんは、希々ちゃんなんや。他の女がどうとか知らんわ。希々ちゃんかて、悩んどるのはわかっとる。けどな、俺の好きな子のこと…………それ以上悪く言わんといて」
咳き込み、ぐらつく視界で彼をとらえる。掠れた声で尋ねる。
「な、んで…………」
「俺が好きなんは、希々ちゃんや。――――愛してる。甘え下手なとこも、素直に笑ってくれるとこも、言えへんことを嘘で誤魔化すんじゃなくて、ちゃんと『言えへん』って言ってくれるとこも」
「……っ、」
私のことを肯定してくれる言葉に、驚きと戸惑いを抱えて目線を合わせる。
翔吾さんは、悲しそうに微笑んだ。
「……せやから、俺が好きな希々ちゃんのこと、それ以上悪く言わんといて。それがたとえ希々ちゃん自身でも、や」
「――――……」
肩で息をする私の目から、一筋涙がこぼれた。
涙の理由はわからなかった。ただ、温かいと感じた。