2章
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*二十七話:甘い洗脳*
希々さんが、大学まで会いに来た。昼に連絡があった時点で、予め俺の研究室が終わる時刻は伝えてある。今日は遅くなるから別の日ではどうかと訊く俺に、希々さんはどうしても今日にしてくれと懇願した。
「侑士くん!!」
「希々さん!」
もう辺りは暗いというのに、俺を見つけるなり駆け寄ってくる。その可愛らしさにくらくらしながらも、泣きそうな顔を見て何かがあったのだと察した。
「侑士、くん……っ!」
「どないしはったん?」
「私…………っ、どうしよう……! どうしたらいいかわからない……!」
何となく、嫌な予感がした。残念なことに、俺の嫌な予感は外れたことがない。
研究室仲間から隠すよう、校舎の裏側に回りながら小さく尋ねる。
「……それ、ここで聞いてもええ話ですか? 今なら学内にほとんど人も居らへんから、聞かれる心配もないと思いますけど……」
希々さんは俺に抱き着いて、何度も頷いた。
「誰にも聞かれないなら、どこでもいい……っ!」
「…………ほな、研究室、行きましょ」
研究が終わった後のそこは、当然ながら無人だ。
希々さんは俺の白衣の裾を握り締め、こくり、と頷く。
俺は彼女の手を引き、さっきまで篭っていた研究室に戻った。万が一誰かが戻ってきた時のために、内側から鍵をかけておく。
一番柔らかそうな椅子を希々さんに勧め、俺は適当なパイプ椅子に腰を下ろした。
「……跡部には何て言うてきたんですか? こない時間に俺と会うなんて、許さへんでしょ、あいつ」
「女友達と、会ってくるって言ってきた……」
いよいよもって不安が鎌首をもたげる。希々さんが跡部に嘘をついてまで俺に話したい、火急の用件。
「私……私、翔吾さんにお試しの恋人になるって、言っちゃったの……! それを景ちゃんに言う必要なんてないのに、黙ってるのも後ろめたくて、」
「……は?」
「侑士くんに報告する必要もないのに、ないけど、やっぱり恋人ってどんな認識なのかわかんなくなっちゃって……! 景ちゃん以外に相談できる人、侑士くんしか思いつかなくて、」
とんでもない台詞に、目の前が真っ暗になった。しかしなんとか冷静さを手繰り寄せ、希々さんの肩に手を置く。
「すんません、希々さん。何があったのか、順を追って全部説明してくれません?」
希々さんは微かに涙を浮かべて、口を開いた。
「あのね――――」
***
希々さんから今まであったことを聞いた俺は、拳を握り締めた。跡部と仲直りしたなんてことはどうでもいい。仲違いしていようが、希々さんを溺愛している跡部の方が折れるのはわかりきっていた。
問題なのは、榊翔吾の存在が俺の想定よりずっと深く希々さんの中に根付いてしまっていたことだった。
榊翔吾は希々さんの“大事な人”が跡部だということを知らない。会話の流れから、跡部家に仕える誰かだと考えているのだろう。
希々さんが大事だと思っているのが使用人なら、距離を置くべきだという意見には賛成する。
だが跡部は、仕事で常に顔を合わせる存在だ。切っても切れない血で繋がった弟だ。告白、を保留にしている相手だ。3年前から、いや、もっと前から彼女を愛してきた男だ。
「私、景ちゃんに言うべきかな……? でも何でも全部景ちゃんに報告する必要、ないよね……?」
希々さんは不安げに俺を見上げる。
「今までと何も変わらないなら、お試しでも恋人になってみるって間違ってたのかな……? だけど今からやっぱりやめますなんて言えないし、……私、どうしたらいいのかわからない……」
俺は静かに問いかける。
「…………希々さん、後悔してはるん?」
希々さんは俺の白衣の裾を握って、俯いた。
「わか、らない…………。その時、流されちゃったのは確かなの。だけど翔吾さんの本気は伝わったし、……胸がどきどきしたのも、本当」
「ほんならなんで、そんな泣きそうなんですか?」
「わからないの……! 侑士くんのこととか景ちゃんのことを考えると、今度は胸が痛くなるの……っ」
希々さんは俺を仰いで、身を乗り出した。
「私…………っ、どうすればいいと思う……?」
――――あの時、思った。榊翔吾。俺という相談相手がいることを知らなかったのが運の尽きだ、と。
そして今回、改めて思う。
今が、榊翔吾と跡部に並べる唯一のタイミング。
俺はこの機に乗じて、愛する人に近付く。たとえどれだけ、卑怯者になっても。
榊翔吾と跡部しか映さないわけではない、その綺麗な瞳。誰かを選んで俺を見なくなるくらいなら、誰も選ばずに迷って悩んで苦しみ続けて。俺じゃない答えなんて出さないで。
一度してしまったキスは、心地良くて心地良過ぎて。知らず俺の中の暗い感情に火をつけていた。
希々さんの髪をそっと撫でて、俺はやんわり微笑む。
「……希々さん、一個一個解決していきましょ」
「侑士、くん……」
希々さんの冷えた手を握る。
「まず、跡部に言うか言わへんかですよね。俺は言う必要あらへんと思います」
「、そ、う……?」
「おん。うちの姉貴も彼氏が出来たとか別れたとか、俺にいちいち言わへんし。結婚するって話になって初めて、互いの家族に紹介するもんやと思います」
希々さんは、俺の目を見つめて頷いた。
「うん、わかった。景ちゃんに言わなきゃいけないこと、じゃないんだね」
「希々さんが言いたいんやったら話は別やけど、言わなあかんってことはないですよ」
ようやく頬に赤みがさした希々さんは、ほっと息を吐いた。
「……ごめんね。私、普通の姉弟の距離感とかがわからなくて」
「気にせんといてください! 希々さん達の事情知っとんの俺だけやと思うんで。むしろ相談相手に俺を選んでくれて嬉しいです!」
内心の疚しさを隠すように、わざとらしい程優しい笑みを浮かべた。
これから俺は、貴女の優しさに付け入るから。
何も知らない希々さんは、嬉しそうに俺の手を握り返す。
「跡部に言うかどうかの次は……なんで、翔吾さんの恋人になったら後ろめたいか、でしたっけ」
「……うん」
考えることでいっぱいの細い指に、指を絡める。拒絶は、ない。
「今まで景ちゃんとしかキスしたことなかったから、初めて翔吾さんにキスされた時も、侑士くんにキスされた時も、……怖くはなかったけど、後になってどうしよう、って思ったの」
「……困らせてしもたなら、ほんまにすんません」
「あっ、違うの! ……景ちゃん以外の人とキスする方が、普通、なんだと思ったら、…………私、自分がどうすればいいかわからなくなっちゃったの。翔吾さんにも、景吾と距離を置いた方がいいって言われて……頭の中がぐしゃぐしゃなの」
俺は希々さんの手を握ったまま、距離を少しずつ詰める。
「答えなんてないってわかってるけど、家に帰って改めて翔吾さんの恋人になる、って考えたら…………景ちゃんと侑士くんの顔が浮かんで、……胸が痛くなった」
「…………跡部だけやのうて、俺のことも考えてくれたんはほんまに嬉しいです」
もう十数cmしかない二人の隙間を、抱きしめることで埋めた。
「考えるよ……。だって侑士くんは、初めての……その、デートの相手だもん」
俺の背中に、そっと華奢な腕が回される。抱き返される喜びに、軽く口角を上げた。ほんまに希々さんは、警戒心が薄い。
俺は小さく、悲しげに聞こえる声音で告げた。
「……俺、お試しでも希々さんが誰かだけの恋人になるんは嫌や」
希々さんの顔が下を向く。
「…………そう、だよね……」
抱きしめる腕に力を込めて、目の前にある冷えた耳朶に口づけた。
「せやから、俺ともお試しの恋人になって」
「…………え……?」
耳元で囁くのは、甘い洗脳。
「お試しなら、俺とも恋人になって、希々さん。本物の恋人やないなら、何人と試しても一緒や。どのみち跡部には言われへんやろうし……跡部にも翔吾さんにも内緒で、俺ともお試しの恋人になって、希々さん」
「侑士く、」
戸惑う唇を塞いだ。
否の意見を聞く気はない。
ふわりとした唇を何度も食んで、吐息ごと拐う。
「でも、……ん……っ」
「俺なら…………跡部とのこと知っとるから、相談に乗れる。俺かて、希々さんの恋人になりたい。翔吾さんだけ希々さんとキスできるの、ずるいです」
“好き”がわからないなら、この燃え盛る嫉妬も理解できないんだろう。俺は歪んだ愛を唇から溶け込ませる。
「……俺ともお試し恋人になって。希々さん。もし俺のこと嫌やって感じたら、もう金輪際希々さんには関わらんって誓います」
「金輪際、なんて…………!」
「それくらい、俺、本気やねん」
視線と視線が火花を散らす。
「……誰にも秘密にしてれば、“お試し”のこと、バレへん。……それにきっと希々さんも、自分の気持ちに気付けますよ。誰が一番“好き”に近いんか」
何の保証もない言葉だが、自信に溢れた断言は希々さんの心を揺らしたらしい。
「…………希々さん、俺とも恋人になって…………」
「、…………」
重ねた唇に、抵抗はなかった。