2章
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*二十六話:大人の告白*
頭が働かない。何が起きているのかわからない。翔吾さんを押し返そうにも、私の意に反して身体には力が入らなかった。
優しいだけじゃない、初めてのキスに指先が震えた。椅子に座ったまま、背中が壁に押し付けられている。髪を掻き乱しながら、後頭部を支える大きな手のひら。震える私の指先に絡められる、体温の高い指先。
「……っ、」
好きだから。可愛いから。どちらでもいいと、この人は言った。私に選ばせてくれる、と。どちらもだから、どちらでもいい、と。
どちらも、ということは、好きという感情もあるということ?
私に選ばせる?
どういう意味?
兄のように慕っていた人から先日キスをされたばかりで、私の心は揺れていた。今も、優しい翔吾さんと強引な翔吾さんとが脳内で一致しないままに、かろうじて状況だけは把握した。
「……、ん……っ」
私の指先で、確かめているのだ。私の反応を。
景吾に似ているキスになると、無意識に力が抜けてしまう。景吾がしないキスには、思わず力が入ってしまう。
「……っ」
私が気持ちいいと思うキスを探られている。景吾とのキスを暴かれるようで、心理的な抵抗が微かに足を動かした。
「!」
でも、気付いた時には膝の間に翔吾さんの足があって、どうやっても逃げられない。こんな、恋人にするみたいなキス、駄目だ。待って、と伝えなければ。焦る気持ちとは裏腹に、霞む頭が快感の端を捉えた。
「……っ!」
だんだんと景吾に似たキスだけが繰り返されるようになって、息が上がる。歯を食いしばって、何とか深いキスだけは阻止した。
駄目。この人は景吾じゃない。気持ちいいキス、なんて、教えちゃいけない。
――――――――どうして?
不意に、私の中の私が問いかけた。
――――どうして、翔吾さんとキスをしちゃいけないの?
……だって私は、景吾のそばにいるって約束して、
――――それは、翔吾さんと関係あるの?
……景吾は、私のものだ、って言ってくれた、から、
――――私は、誰のものでもないのに?
……そう、だ。
私は、誰のものでもない。だから景吾は、『俺のものになる覚悟を決めろ』と言った。
恋人が、その人のものになる、ということなの?
くたり、と力の抜けた身体は、背後に壁がなければ倒れ込んでいただろう。
視界が涙で霞む。翔吾さんは私の知らない顔で私に触れる。
「……ほんま、そういう顔見て止まるわけないやろ。……なぁ、希々。その“大事な人”とはいつも、こんなキスしとるん?」
私は訊かれるままに頷いていた。
「…………へぇ……。キスマークも付け放題。なのに身体の関係はないんか。……舌入れさせてくれへんのは、そういうキス、“大事な人”以外としたないから?」
私にもわからないから、首を横に振る。
私は景吾の恋人ではないのに、どうして後ろめたく感じてしまうのか。
「……違うん?」
「わ、たし、にも…………わから、なくて……」
ようやく声を絞り出す。
翔吾さんは尋問のように、私の顎を持ち上げた。
「……そいつとキスし始めたんは、何年前?」
「3年、くらい……」
翔吾さんの瞳が、すっと細められる。
「…………なぁ、やっぱり俺、そいつが誰なんか知りたいわ。希々ちゃん、なんで教えてくれへんの? そいつのこと守りたいから?」
それだけは本当だから、私は頷いた。
私が誰にも言わないのは、景吾を守りたいからだ。私は恋愛感情がわからない、普通とは違う人間だった。でも景吾は、わかっている。たまたま相手が私だっただけで、どこもおかしくなんてない。
『俺は姉貴が好きだなんつーおかしい奴だ。それはわかってる。だから姉貴が俺を見限って居なくなった時のことを、……いつも考える』
景吾はそう言った。私は景吾をおかしいと思わないけれど、世間一般から見てそう思われる可能性があるなら、私は言わない。景ちゃんが私のことを好きだなんて、絶対に言わない。私が景吾を守ると決めた、その覚悟だけは一度だって揺らいだことはない。
「…………そんなに大事なら、なんで恋人や言わへんの? そいつは希々ちゃんのこと好きなんやろ? 希々ちゃんさえOKすれば晴れてカップル誕生やないか」
翔吾さんの言うことはもっともだった。でも、私は自分に嘘はつきたくないから。
「大事、……でも。“好き”がわからないなら……私は、だれかと付き合ったり、しない」
翔吾さんが数度瞬きをしてから吹き出した。
「…………ほんま、頑固やなぁ…………」
「昔から……自分に嘘をつかないことだけは、譲らなかったんです。だから、誰ともお付き合いしなかった。……好き、じゃない人を彼氏だなんて呼べない、から」
翔吾さんの瞳から刺々しさが消えた。
力の入らない私の身体を優しく抱きしめて、いつものように髪を撫でてくれる。
「はぁー…………ほんま、なんでこない厄介な娘に惚れてもうたんやろ。俺、実はドMだったんかな……」
「惚れて…………? そうだ、翔吾さん、キスの理由、」
「そんなんどっちもや言うたやろ?」
ため息混じりに、翔吾さんは言葉を繋ぐ。
「俺、希々ちゃんのこと好きや。女の子としても、人としても。でも希々ちゃん、恋愛対象として好き言われんの嫌やろ?」
「…………嫌、というか、困る、というか…………」
「それや。困って気ぃ遣われんのとか、俺の方が嫌やねん。せやから、子犬より可愛すぎてキスしたんが理由でええ。恋愛やなくてええよ」
「…………?」
翔吾さんは私の瞳を覗き込む。
「俺、希々の恋人になりたい。希々ちゃんは俺のものやって言いたい。見合い相手やら会社連中やら叔父貴やらに、な」
「――――……」
彼氏彼女、とは違う呼び方。こいびと、って何?
もはや思考が停止しそうだ。
そんな私のどこまでを知っているのか、翔吾さんは困ったように微笑む。
「恋人の定義、なんて、俺にもようわからん。人によって、っちゅうか、相手によっても変わるんちゃう?」
「じゃあ、翔吾さんの中の定義は……?」
「俺は……そうやなぁ……」
温かな手のひらが、私の頬をそっと滑る。
「他の子相手やったら、さっきみたいに俺のものって言う。実際俺のもんにするしな。……でも、希々ちゃん相手やと違う」
「私相手だと、どんな感じなんですか?」
「……俺のもの、っちゅうんは他の男に言いたなるけど…………感覚的には、希々ちゃんのもんになりたい、が近い」
「……!」
景吾の言葉との既視感に、私は息を飲んだ。
「恋愛感情がわからん希々ちゃんに選ばれたんは俺やって、言いたい。他の奴らに自慢したい。……いつか俺のことを好きになってくれたら、それはもちろん嬉しいけどな。俺は、希々ちゃんの恋愛感情がわからんままでもええ思っとるんよ」
翔吾さんは真剣な眼差しで、私を射抜く。
「…………希々ちゃんが嫌がることは、絶対せえへんって誓う。正直接し方が変わるわけやない。希々ちゃんは今まで通り、俺のこと従兄弟の兄ちゃんや思て甘えてくれるだけでええ」
「……翔吾、さん……?」
「頼って、相談して、いつでも呼んで。何してもええ。俺を自分のもんやと思って、利用してくれてええ」
そこに滲む決意に、私はたじろいでしまう。翔吾さんは本気だ。本気で自分を利用しろと言っている。
「……それでええから希々ちゃんは、その“大事な人”とちぃと距離置いた方がええと思う。これは俺のエゴやない。本気で希々ちゃんのこと考えてるからや」
「そ、れは、……」
景吾と距離を置いた方がいい。何度も考えたことを他の人からも改めて言われて、罪悪感が芽生えた。
翔吾さんは私の手を取って、視線を合わせ口を開く。
「……お試しでええ。嫌になったら言うて。すぐやめる。何一つ無理強いせえへんって、何なら景吾くんに約束する」
「、」
「お試しでええ。…………俺を、希々の恋人にしてくれへん?」
侑士くんと景吾の顔が頭を過る。それでも、私はこの人の言葉に心惹かれてしまった。
「恋人、って…………何、するんですか……?」
「希々ちゃんがしたいこと。今までと何も変わらんよ」
「、じゃあ…………なんで、恋人、って名前にするんですか…………?」
翔吾さんはにやりと笑って、鞄から眼鏡を取り出した。それをかけて、人差し指を立てる。
「希々ちゃんがその“大事な人”からの誘い断る時とか、迷惑なナンパされた時とか、使える時はぎょうさんあるで! なんせ相手は俺なんやから、使い放題や」
「わ、たし……のため…………?」
翔吾さんは私の頭を撫でて優しく笑う。
「俺の方は恋人が居るなんて言わん。好きな人が居る、くらいは言うかもしれへんけどな。希々ちゃんの名前は出さへんよ。……仮の恋人の名目は、希々ちゃんが使いたい時に使て」
そんなことをしても、翔吾さんにメリットなんて何もない。私だけが一方的に甘やかされて。
「……!」
そこで、景吾もそうだったということに気付く。
見返りを求めない愛をくれる人に、私はどう接するべきなのだろう。
翔吾さんは、微かに自嘲の笑みを浮かべた。
「……とは言え、俺かて無償の愛をあげようなんちゅう出来た人間やない。……あわよくば……」
頬に口づけられる。
「嫌がられへん程度に、キスしたいしな」
「!」
思わず赤くなる私から目線を外し、翔吾さんは窓を見つめた。
「……とにかく、希々ちゃんが“大事な人”と一旦距離置いてくれんなら、何でもええ。離れてみて、それでもそいつしか居らんってなったら俺にはもうどうしようもないしな」
眼鏡をかけた横顔はどこか景吾に似ている。切なさを含む眼差しに、私は言葉を失った。
「……でも、一旦離れて考えたら、俺の方がええってなるかもしれへんやろ? 今は希々ちゃん、そいつを守ることしか考えてへん。俺かて、希々ちゃんに俺のことだけ考えて欲しい」
「……翔吾、さん……」
「俺はええ奴やない。チャンスがほしいだけの崖っぷち男や」
熱い視線が、戻ってくる。
胸が苦しい。心臓の音がやけにうるさい。
翔吾さんのしなやかな指が頤に触れて、端正な顔が僅か傾いて。
キスされるとわかっているのに、身体が動かない。
「……逃げへんの?」
「……っ、今から、」
今から逃げます、その台詞は最後まで言わせてもらえなかった。熱いキスに飲み込まれて、私はぎゅっと目を閉じた。
何が正しいか、どうすべきか、何一つわからない中、この人の提案は私の心を動かしてしまった。一度動いた心は、引き寄せられる。
「……っ、は…………」
景吾と似ているけれどどこか違うキスに、思考が惑わされる。強引なのに心地好くて、吐息が漏れた。
景吾はどこまでも私に合わせてキスをする。むしろ私が、いつの間にか景吾のキスに慣れていたのかもしれない。ゆっくりと愛情が伝わる、安心できるキス。それでいて、私も知らない奥深くの快感を引きずり出すキス。
翔吾さんは違う。私の望む慣れたキスがどんなものかわかった上で、自分のキスを上から刻む。まるで、私の認識を書き換えようとするかのように。
「…………っ」
この腕の中で心地好さを感じてしまうことは何故か景吾への裏切りのように感じられて、無意識のうちに身を半歩退いていた。同時にすぐさま解放される。
「……今は外やからコンタクトやけど、伊達でよければ眼鏡も毎日持ち歩くで? こうやってな」
冗談めいた声なのに、眼鏡の奥の瞳は鋭い。
向けられる欲望を怖いと思わないのは、景吾の目を見慣れているから?
「わざ、わざ、……伊達眼鏡、用意したんですか…………?」
「あの日眼鏡カッコええ言われたの、ほんまに嬉しかったんや。それから持つようになってしもた。……阿呆やろ?」
「そ、んなこと、ない……」
「……希々ちゃんのしたいこと、してほしいこと、何でも教えて。全部教えて。全部俺が叶えたる」
優しい声なのに、眼差しには獰猛な欲が見え隠れする。それを怖いと思わない理由が、やっとわかった。
「ぁ…………」
今まで、男子から向けられる恋愛感情には恐怖しかなかった。でも、翔吾さんは言ってくれた。恋愛でもそうでなくてもいいから、まずは自分のことを考えてほしい、と。一旦景吾と距離を置いて自分のことだけを考えてほしい、と。私に何を求めているのか言葉で教えてくれるなら、その好意は怖いものじゃない。
「お試しでええから…………恋人に、なってくれへん? …………なぁ、……ええ、やろ? 希々…………」
息苦しいほどの緊張に、蕩けそうな甘い選択肢。気付けば私は、流されるようにこくりと頷いていた。