2章
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*二十三話:仲直り*
恋人、って何なの?
特別な人。信頼できる人。キスできる人。
定義が、わからない。
頭の中がぐちゃぐちゃで、考えが纏まらない。
『俺ならいくらでも甘えさせたるし、俺とでもキスできるんは今わかった。……俺にしとき、希々』
『……俺の恋人になって、希々さん』
これは、何?
告白?
翔吾さんは、どうして私にキスなんてしたの?
侑士くんが言ったみたいに、身体目当てとは思えない。でも、断言はできない。
景ちゃんの言葉が、嫌でも脳裏を過る。
『世の中の大半の男からすりゃあ姉貴は、綺麗で一度はヤりたい女なんだよ』
侑士くんは、私が好きだからキスをしたと言った。
好きだと、キスしたくなるものなの?
いつだって景ちゃんのキスは、愛情が沁みてくるみたいなキスだった。
他の人とキスをして、初めてわかった。流されてしまった翔吾さんのキスも、抵抗できなかった侑士くんのキスも、嫌悪感や恐怖はなかったけれど、景ちゃんのキスとは違った。
私が好きなのは、景ちゃんのキスだった。
なら、私は景ちゃんが好きなの?
わからない。教えてくれる人も、相談できる人もいない。いつだって困った時傍にいてくれたのは、景ちゃんだったのに。
「…………っ」
もう、二日も口をきいていない。明日からは仕事でどのみち顔を合わせることになるけれど、今日中に一度、話をしたかった。
「……」
景吾の部屋の前で、ドアノブを握れない。
大嫌いと言ったのは私だ。心配する景吾からの電話に出なかったのも私だ。なのに、こんな時だけ頼ろうとするなんてどれだけ図太い神経の持ち主なのかと、我ながら呆れた。
「……、」
やっぱり、やめよう。誰に相談すればいいかわからないけれど、頼りたいけれど。
私はきっと、景吾を傷付けた。私も信頼されていなかった事実に傷付いたけれど、景吾も私の言動で傷付いたはずだ。
……これを機に、離れた方がいいのかもしれない。
秘書を辞めて、跡部家と関係のない会社に転職して、景ちゃんとさよならして。
「……っ」
屈託のない笑顔。優しい両手。悪戯っぽいキス。年下の癖に色気のある流し目。ヤキモチ妬きな拗ねた顔。私を呼ぶ、温かい声。
「…………っ!」
さよなら、なんて、嫌だ。どうして私は3年前から何も成長していないのだろう。自立するどころか、私の中で景吾の存在はどんどん大きくなっていた。
『…………だから、希々もさっさと俺のもんになる覚悟を決めろ』
弟、なのに、男の人、だった。
あの台詞は、私には一人の男の人のものに聞こえてしまった。
思い出すのは景吾のいいところばかりで、ドキドキさせられたことばかりで、気付いたら涙が零れていた。
閉められたドアに向かって、小さく小さく告げる。
「嫌、だけど……っ、寂しい、けど……っ、………………大好きだけど」
震える声を握り締めた拳で支え、私は微笑んだ。
「…………さよなら、景ちゃん」
「――――ふざけんなよ」
突如として真横から聞こえた声に、私は目を見開いた。部屋の中にいると思っていた景ちゃんが、何故か廊下にいて。しかもすごく怒っている。
「え…………景ちゃ、」
景ちゃんは何も言わず、強い力で私の腕を掴み部屋に入った。後ろ手に鍵をかけながら、ソファに雪崩込むようにして私を押し倒す。
「景ちゃ、んぅ…………っ!」
食べられているんじゃないかと思うくらい激しいキスに、私は思わず足をじたばたさせた。両脚の間に景ちゃんの身体が割り込んで、両手の指ががっちり絡められて、動けない。
「け、いちゃ…………ぁ…………っ」
的確に、翔吾さんに付けられたキスマークだけを何度も舐められて、吸われて、上書きされる。ぞわぞわした感覚に、ぎゅっと目を閉じて首を左右に振る。
「ん、…………っぁ、」
舌を絡めるキスに、勝手に身体の力が抜けてしまう。執拗に上顎をなぞる熱い舌が、ちゅ、と音を立てながら咥内を吸い上げた刹那、快感に膝が力を失った。
「っは、ぁ…………っ」
滲む視界の向こうで、景吾は低く低く告げた。
「……選べ」
「な、に…………を…………?」
景吾のしなやかな指先が、ゆっくりブラウスのボタンを外す。
「……このまま何も言わず俺に抱かれて本当に“さよなら”するか、……泣いてた理由を話して“仲直り”するか。……選べ、希々」
「――――」
優しすぎる選択肢に、また涙が溢れてきた。どうして、景吾はこんなに優しいのだろう。どうして、景吾はこんなに私を愛してくれるんだろう。
もう、私は泣き笑いのまま目を閉じた。
「……景ちゃん、大好き。仲直りしたいけど、…………景ちゃんがしたいなら……いいよ」
景吾の指が、止まった。
「……」
痛いのは怖いし、経験なんてない。それでも私に返せるものが他に思いつかないから。
「でも、できたら…………あんまり痛くしないでほし、」
言いかけた途端、唇をふわりと塞がれた。
いつもと同じ優しい口づけに時間が止まる。腕も足ももう自由なのに、私は動けなかった。
しばらく経って、景吾はため息をついて離れた。
「……馬鹿言うな。俺が理性の塊じゃなかったら、あんたの処女はここで消えてたぞ」
「…………私、景ちゃんに何も返せないもん。喧嘩して、心配させて、……その上こんなに優しくされてるのに、何も返せない」
久しぶりに、景吾の指先が頬を撫でる。懐かしい感覚に私は身体を擦り寄せた。景吾は温かい眼差しで囁く。
「返す、って表現がまずおかしい。それは何かもらった人間が与えた人間に示す感謝だろ?」
「……? 私、景ちゃんにいっぱい愛してもらってる」
「残念だったな。俺はそれ以前に希々に……キスも告白も許して“もらって”る」
――あぁ、この人は、私に甘い。甘すぎる。こんなに甘やかされたらもう、他の愛情では満足できなくなってしまう。
「景ちゃん……ずるい」
何一つ私のせいにしない、無償の愛。
「景ちゃんは……ずるい。ひどい。ずるい」
景吾は困ったように微笑んだ。
「笑いながら言う台詞じゃねぇだろ」
「……だって景ちゃん、ずるい」
「俺は元々ずるいんだよ。希々を繋ぎ止めるためなら何だってする」
景ちゃんは私をお姫様抱っこしてベッドに連れて行った。そっと横たえられて、髪を撫でられる。
「景ちゃん、」
「二日分」
安らぐキスが降ってくる。柔らかくて、気持ちのいいキス。繊細なそれは私には真似できないから、せめて景吾の背に腕を回して口づけに応えた。
―――――――――…………。
――――――……。
――――……。
それからどれくらい経ったのだろう。もう指一本すら動かせない。文字通りキスだけで腰砕けにされた私は、ベッドの上で景吾に抱き締められていた。
「…………景ちゃん」
「……ん?」
「……ごめんね」
この香水の匂いに、数え切れないくらい守られてきた。仲直りくらいは私から切り出したい。
「私…………3年前、景ちゃんのことを手放せないって言った時…………ちゃんと、覚悟してたの。一緒に秘密を抱える覚悟」
髪を梳く手つきが心地好くて、半ば微睡みつつ、言えずにいた思いを連ねる。
「景ちゃんと一緒に笑っていられるなら、恋愛なんて知らなくてもいい。彼氏なんていなくていい。ちゃんと、その覚悟をしてたの。……なのに景ちゃんが、私にいつ見捨てられてもいいようにリボンを持ってるって言うから…………いつもさよならのことを考えてたって言うから……。……私の覚悟は、景ちゃんには信じてもらえてなかったんだ、って思ったら……すごく悲しくなったの」
「……それは、俺が悪かった。希々のことを信じてねぇと思わせるような言葉をつかっちまった。…………ごめん」
景吾の声がやけに艶っぽくて、耳元がくすぐったい。
「……希々に触れられる奇跡は当たり前なんかじゃねぇと、一回一回の触れ合いを大事にしてた。希々の笑顔を見られる幸せを、夢なんかじゃねぇと確認したかった。俺の名前を呼んでくれるだけで、いつも喜びを感じてた」
「景、吾……」
「俺を拒絶しねぇ道を選んでくれた姉貴に、覚悟がある、なんて痛い程わかってる。……前に言ったろ? 本当なら俺は、姉貴に気持ち悪いって言われて、顔さえ見せてもらえなくなっててもおかしくねぇんだ、って」
この腕の中が、世界で一番安全だと思えた。臆病な私を怖いことから守ってくれる両腕。寒がりな私に温もりをくれる両腕。
「…………俺は、俺の命より希々が大切だ。誰より、何より、愛してる。…………でも俺は、弟、だから」
「……だから?」
「…………怖い。いつか榊翔吾とか忍足とかに、希々がかっ拐われるんじゃねぇかって」
景吾の不安に、久しぶりに触れたことに気付く。
「そっちを選ぶ方が普通で、当然で、安全で、俺だけが異質だ。今は俺を受け入れてくれてる希々が、他の奴のキスを知ったら俺は拒絶されるんじゃねぇか、とか。今は俺を頼ってくれる姉貴が、他に頼りになる奴を見付けたら……俺は要らねぇどころか、希々にとって邪魔な存在になるんじゃねぇか、とか。…………ずっと、怖かった」
「…………ごめん、ね」
守られてばかりで見えなかったもの。
どんなに大人びていても仕事ができても、景吾はまだ20歳だ。成人したばかりで、まだ大学も卒業していない。不安がないはず、ないのに。
「……ごめんね、気付いてあげられなくて」
私は動かない身体の代わりに、目の前にある景吾の首筋にそっとキスをした。
「……捨てないよ。私は景吾を捨てない」
「……今はそうでも、3年後はわからねぇ。10年後はわからねぇ。俺の気持ちが死ぬまで変わらねぇことは、俺がわかる。……でも、希々の気持ちはいつ変わってもおかしくねぇし、俺じゃない誰かに惚れるのはむしろ自然なんだよ」
「景吾…………」
どうしたら、伝えられるだろう。どうしたら、伝わるだろう。
愛をもらうたびに震えるこの胸の高鳴りを。
「…………“お兄ちゃん”にキスマークなんか付けられやがって」
景吾の拗ねた声に微かに笑ってしまった。
「あんなにいっぱい付けても、自分が付けたのじゃないのはすぐわかるの?」
「当たり前だ。俺の印なんだから」
「……なんで侑士くんじゃないってわかるの?」
「あいつは一回失敗してるから、そこまで短絡的な行動には出ない」
私は、そっと目を閉じた。
「…………ねぇ、景ちゃん」
「……どうした?」
「…………景ちゃんは、私が好きだからキスしたくなるの?」
景吾は優しく髪を撫でたまま、私の額にキスを落とした。
「……俺は、な。…………どうした? ……他の奴とキスしたら…………俺とはしたくなくなった、とかか?」
景吾は、私が誰かとキスをしたことを前提にしていた。私は首を横に振ってから、尋ねる。
「………………誰とキスしたか、とか、……訊かないの?」
「……予想はついてるし、いつかこんな日が来ることはわかってた。……警戒心の薄い姉貴は、どうせそうなる。俺にとって重要なのは、その後だ」
「その後?」
景吾の手つきは変わらず慈愛に満ちていて、温もりが胸の奥に積もっていく。
「……俺とキスしたくなくなったら、どうするか。何なら許されるのか。……俺はそれを希々に訊かなきゃならねぇからな」
「…………」
違う。
違うの、景ちゃん。
「景ちゃん…………好きなら、キスしたくなるの? それとも、キスしたくなるなら好きなの?」
「……? どういう意味だ?」
「私…………他の人にキスされて、景ちゃんのキスが一番好きって思ったの。景ちゃんにキスしたく、なったの。でも、景ちゃんのことが“好き”かは、わからないの」
それに。
「キスしたい人が好きな人なら、私は景ちゃんのこと好きってことになるの」
侑士くんは私のことが好きだからキスしたくなると言った。景吾もだと言う。
「……“好き”って…………“キスしたい”ってことなの…………?」
「――――……」
景吾は息を吐いた。髪を撫でる手が止まる。私は景吾を見上げた。
「けい、ちゃ……」
「――――ここで、そうだって言ったら…………希々は俺のことが好き、って言ってくれるのか。…………乗りてぇ話だが…………やっぱり俺は、姉貴を騙して選ばれても嬉しくねぇ」
ぎゅ、と抱きしめられる。
「……どのみちあんたのことだ。俺への感情が世間一般の恋愛と違うと気付けば、一人で悩み出すだろうしな」
景吾は少し残念そうに、呟いた。
「……キスしたい、と、好き、は、別物だ。……希々は俺とずっとキスしてきたから、俺とのキスが一番しっくりくるんだろ」
「……そう、なの?」
耳朶にそっと口づけが落とされる。
「世の中、好きじゃなくてもキスしたいと考える人間もいるし、好きでもキスしたくない人間もいる。キスと恋愛感情は、必ずしも結び付くものじゃねぇ」
「……そう、なんだ」
キスの理由は“好き”と同じくらい複雑らしい。私は自分が置かれている状況が判然としないながらも、とりあえず景吾と仲直りできたことに安堵した。自分の気持ちがわからないのも恋愛感情を理解できないのも、今に始まったことではない。
「…………希々が、俺のキスを嫌いになったわけじゃなくて、よかった」
景吾は腕に力を込めて、もう一度繰り返した。
「…………よかった」
その声音が弱々しくて、私はそれ以上何も言えなかった。恋人にしてくれ、という言葉の意味を相談することが、できなかった。