2章
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*二十二話:絶好のチャンス*
俺とデートの約束をしたこの日、希々さんは明らかにおかしかった。跡部が何も言わず送り出すのも、思えばおかしかった。
会った時からずっと深刻な表情の希々さんは、俺の話も耳に入っているのか疑わしいほど上の空だ。
一緒にいられるだけで嬉しいのは本当だが、もはや喜びより心配が勝っていてそれどころではない。
「……希々さん、聞いてはる?」
「……うん」
「希々さん、俺のこと好き?」
「……うん」
「希々さん、昼何食べた?」
「……うん」
希々さんの目の前で手をひらひらさせ、スマホで録音した音声を聞かせる。
と、ようやく意識がこちらに戻った希々さんが「ご、ごめんね侑士くん!」と眉を下げた。
「……希々さん、悩みがあるんやろ? 跡部にも言えへん悩み」
俺が尋ねると、希々さんは俯いた。
「…………ごめん。侑士くんとのデートなのに、……どうしても頭の中をぐるぐるしちゃって…………」
「なら、今日はデートやなくて相談会にしましょ」
「え…………?」
俺は希々さんの手を取った。
「希々さんの状況、特殊やから、他人に聞かれん場所がええと思うんよ。どっかの店の個室でもええし、希々さんが行きたい場所でもええし」
指を絡める繋ぎ方は、しない。それでも俺に許された手を繋ぐという距離は、この3年で取り戻した信頼の証のようでもあった。
「希々さん、どこがええ?」
希々さんは、躊躇っているようだった。何に迷っているのかわからず、俺は握った手に少しだけ力を込める。
「希々さん、何に迷ってるん?」
はっとしたように、希々さんは俺を見た。
「……侑士くん、今、一人暮らししてるんだよね?」
嫌な予感がした。
「そやけど……」
「じゃあ、侑士くん家がいい」
「……しっかりフラグ回収するんは流石や。もう俺も驚かんくなったわ」
何故。
何故この人はそういう一番危ない所を的確に選んでくるのか。俺としては嬉しい。むしろ喜んで連れ込みたい。だからこそ、自分の理性に確信が持てない時は困る。
希々さんは再び目を伏せた。
「……個室は、店員さんに聞かれたくない。私と景ちゃんの問題だけじゃなくて、翔吾さんも関わってるから、万が一今みたいに録音とかされたら……困るの」
跡部グループと榊グループの弱みになるかもしれない話。なら、まぁ仕方ない。それにしても、だ。
「それなら希々さん家の方がええんちゃいますか? 跡部本人も居るんやし、いざとなったらそのまま話し合いできるやないですか」
「家は嫌。私、景ちゃんとバレンタインの夜から……喧嘩? みたいになってて、一度も話してないの。顔、合わせたくない」
俺は軽く息を飲む。
あの跡部と、喧嘩?
顔を合わせたくない?
――この絶好のチャンスに乗らないほど、俺は馬鹿やない。
「……ええですよ。俺ん家狭いですけど、我慢してくださいね」
「ほんとにごめんね……侑士くんには迷惑ばっかりかけちゃってる」
「そんかわり、確認です」
俺は家の方向に足を向けながら、困り顔の希々さんを見やる。
「男の家に行きたいなんて、俺以外に言うてませんよね?」
希々さんは慌てて何度も頷いた。
「う、うん! もちろんだよ! 侑士くんじゃなきゃ言わない!」
俺じゃなきゃ言わない、なんて。
「…………ほんま、希々さんには敵わん」
どうしても諦めきれないのは、この人が無意識に放つこういう台詞も原因の一つなのではないだろうか。
***
待ち合わせに歩いた道を逆戻りして、家に入る。行きと違うのは、俺の右手に愛する人がいること。
「……お邪魔します」
「何も準備してへんし狭いとこやけど、どうぞ」
希々さんは一人暮らしの男の家など初めてだからか、どこかおっかなびっくり靴を脱いだ。
「汚くてすんません」
「うぅん! すごい綺麗な部屋で、びっくりしてる」
「そうですか?」
「うん。侑士くん、って感じの部屋」
二人でリビングのソファに座る。希々さんの前に紅茶を置くと、希々さんはどこか懐かしそうに笑った。
「侑士くんは私に謝ってくれてから、……ずっと、触れないでいてくれた。怖くなくなるまでただ横で笑ってくれた。好き、が怖くなくなるまで、言わないでいてくれた。…………そんな、真面目で誠実な……侑士くんみたいな、部屋」
「…………希々、さん……」
希々さんは膝を抱えて、ゆっくり口を開く。
「……景ちゃんは、私と笑いあってる時もぎゅってしてる時も、私とさよならする時のことを考えてたんだって」
希々さんの首には、跡部が贈ったというネックレスが今日もキラリと光っている。
「私……私なりにね。ちゃんと、景ちゃんと一緒に秘密を抱える覚悟、してたつもりだったの。そうじゃなきゃ、キスなんてしない。傍にいない。…………でも私は…………景ちゃんに、全く信用されてなかったんだよ」
「…………希々さん」
跡部は彼女を信じていないわけではないだろう。しかしそれは、俺から言うべきことではない。
「大っ嫌い、なんて……初めて言ったかも。…………大人気ないね、私」
苦笑いを浮かべて、希々さんは紅茶のカップを見つめた。
「彼氏なんてできなくて、いい。景ちゃんと一緒に笑っていられるなら、恋愛なんて知らなくてもいい。……そう思ってたのに、……その覚悟を、ちゃんとしてたのに。…………信じてもらえてないって知ったら、自分がすごく滑稽に思えて。…………気付いたら泣きながら、翔吾さんに連絡してたの」
その名前に、ぴく、と身体が反応する。
「翔吾さん、優しいよね。すぐ会いに来てくれた。……だけどどうしても家に帰りたくないって言ってるのに、無理矢理景ちゃんに連絡しようとしたから…………私、ホテルを探そうと思って」
帰りたくない、というほどの時刻なら、日付は変わっていたに違いない。そんな時間に一人ホテル街を歩く気だったのか。俺も呆れたが、希々さんもその危険は理解しているらしい。申し訳なさそうに肩をすくめた。
「……初めて翔吾さんに怒られちゃった」
「そりゃそうや。俺かて怒りますよ」
希々さんは、ごめんね、と呟いて紅茶に口を付けた。
「それから翔吾さんのお家に泊めてもらったんだけどね」
「……は?」
俺は、脳がスルーしかけた単語に目を剥く。
「ちょい待ち、希々さん。今何て言うた? そいつん家泊めてもろた言うたん?」
「うん。秘書さんが女の人で、お風呂とかいろいろお世話してくれた」
「……なるほどな。何となくこの先が読めたわ」
夜は無事に越えた。
しかしその後、希々さんが目覚めた後に榊翔吾は何か言ったのだ。この人が悩むような“何か”を。
容易に想像がついて、俺は無意識のうちに顔を顰めていた。
「…………今まで、景ちゃんのキスしか知らなかった。でも、翔吾さんは怖い人じゃなくてお兄ちゃんみたいな人だから、嫌、ではなくて…………どうしたらいいのかわからなくて混乱してるうちに、……キス、されて」
「っなんで!」
気付いたら声が出ていた。キス、という単語に嫉妬が燃え上がる。視線を落とした希々さんは、動かなかった。俺は必死に冷静になろうと努めた。
「……なんで、翔吾さんは希々さんにキスしたんですか? 告白されたんですか?」
希々さんは首を横に振る。
「……わからない。理由は言いたくない、って……教えてもらえなかった。告白なんてされてないよ」
「おかしいです。理由も言わずにキスするなんて、ただのセクハラや。希々さん、怖くなかったん?」
希々さんは顔を上げない。
「……最初は怖かった。景ちゃん以外とキスなんてしたことなかったから、怖かった。でも……すごくゆっくりキスされてるうちに、だんだん怖くなくなって…………」
ぽつり、と言葉が零れた。
「私……流されちゃった」
「――――……」
俺の頭を支配していく、どす黒い感情。
「……好き、じゃなくていいから俺にしとけって言われて。……恋人になりたい、って言われて。………………もう、恋人って何なのかとか、私は景ちゃんのことどう思ってるのかとか、みんなとどう接したらいいのかとか、……全部ぐちゃぐちゃになっちゃった」
「……」
俺はずっと、勘違いをしていた。
この人はキスが怖いんじゃない。知らないものが怖いんだ。榊翔吾はそれを理解していたから、先手を打った。彼女が知らないもの、怖がるものを減らしていけばいいのだ、と。知らないキスも知っているキスにしてしまえば、怖いと思われない。跡部が3年前取ったのも、恐らくこの手段だ。
俺はここで出遅れたら最後、二度と彼女の隣に立つ機会を得られなくなるだろう。なら、賭けるのは今この時しかない。
「…………希々さん」
「たぶん翔吾さんは、私に信頼されてるか試したくてキスなんてしたんだと思うけど……」
「希々さん」
「あ……まとまってないことをつらつら話しちゃってごめんね」
3年で取り戻した信頼を、信じろ。
俺は腹を決めた。
「――俺にも流されて、希々さん」
「え、――――」
3年前とは違い、ふわりと唇を重ねた。
「……っ!?」
もう怖がらせないから。俺にも貴女の恋人になる資格があるか、確かめたい。
「……っ」
ゆっくりのキスなら、怖くないんですか。
信頼してる相手からのキスなら、怖くないんですか。
このキスも拒絶されたなら、俺には資格がないということになる。でも、もし拒絶されないなら。
「っん……っ」
希々さん。
一緒に居られるだけで幸せです。
手を繋げるだけで幸せです。
また話してくれるようになって幸せです。
デートできるようになって幸せです。
でも、俺のキスの理由は“好き”やからって、わかりますよね……――――?
「…………、」
逃げようとしていた希々さんの身体から、徐々に抵抗が消えていく。
唇から想いが伝わるように、そっと角度を変えて何度もキスをした。怖がらせないように細心の注意を払って、綿菓子のような口づけを繰り返す。彼女の唇の形を覚えるキス。俺の唇を覚えさせるキス。上書きする意図のそれは、性急にではなくむしろ緩慢なほどに時間をかけた。
「ふ…………」
吐息を漏らして、希々さんは力の抜けた身体を俺に預ける。僅かに染まった頬に、拒絶の意図は見えない。
俺はそっと唇を離して問いかけた。
「…………俺のこと、怖くなりました?」
希々さんは僅かに、首を横に動かした。
「俺のこと、嫌いになりました?」
先刻よりしっかりと、否の意が伝えられた。
「……なら、翔吾さんとかいうぽっと出の男にふらつかんといて」
「……ぇ……?」
「恋人なら、俺を選んで」
そんなわけわからん奴やなくて、俺を選んで。もう、俺のキスが怖くないなら。
「俺は中学の頃から、ずっと希々さんのことが好きでした。高校になっても、大学になっても、……今も。好きで好きで仕方ない」
希々さんの瞳が、揺らめいた。抱き寄せて、柔らかな唇に酔いしれる。
「……跡部に負けたと思ったことはありました。でも、知り合ったばっかの男に希々さんがふらついてるなら、俺はもう遠慮なんかせえへん。跡部からも翔吾さんからも、奪ったる」
「ゆ……し、く……」
俺の名前を呼びながら真っ赤な頬を見せる希々さんに、我慢なんかできるわけがなかった。
桜色の唇の、端から端まで唇で辿る。食むようにゆっくり啄んで、軽くリップノイズを立てる。
「ん…………っ」
鼻にかかった声だけで理性が崩れそうになるのを、何とか堪えた。
「……俺がキスする理由は、わかりますよね? ……俺は希々さんのこと好きやからや、って」
「……う、ん…………」
榊翔吾。年上という優位にあぐらをかいて、俺という相談相手がいることを知らなかった己を後で悔やめばいい。俺の方が、希々さんと過ごした時間は長いのだから。
どうせ榊翔吾は、好きだと告げたら彼女が遠ざかるとわかっていたから告白しなかったんだろう。しかし事情を知らず端から見たら、そんなもの理由もなくキスをするセクハラ男だ。
こういう時だけ俺は、“常識”を使う。この人が手に入るならもう、狡くていい。
「理由も言わんとキスする男なんて、信じんといてください。好きやからキスしたい、それならわかりますけど、理由を言わんのは常識で考えておかしいですよ。ほんまは希々さんの身体目当てだったんとちゃいますか? 絶対にそれはないって、言い切れますか?」
「……、」
戸惑って潤むアイスブルーが、照明に照らされて水晶のようにきらめく。
「俺…………希々さんの恋人に、なりたい。希々さんの恋愛感情が一生わからんままでも、構へん」
柔らかな髪を掻き乱すように後頭部に手のひらを回し、口づける。
いつもいる部屋で好きな人の匂いに包まれて、夢見心地だった。この感覚を跡部が先に独り占めしていたのかと思うと腹が立つが、今は俺も同じ条件まで漕ぎ着けた。
「…………俺のキス、嫌ですか? 怖いですか?」
「、…………嫌じゃ、ない、けど……」
希々さんは誰に後ろめたいのか、視線を泳がせた。その隙に再び唇を重ねる。吐息を感じながら、決定的な言葉を投げかけた。
「翔吾さんは……跡部とのことを相談できるほど、信頼できる人なんですか?」
「……!」
目を見開いた希々さんに、明らかな動揺が走った。
跡部以外も怖くないなら、俺を選んで。跡部以外ともキスできるなら、俺として。他の奴になんて、触れないで。触れさせないで。
跡部がいても、所詮は姉弟だ。恋人、夫婦、それになれるのは、俺だ。
「……俺の恋人になって、希々さん」