2章
夢小説設定
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*二十話:初めての言葉*
翔吾さんは強引に私の腕を引き、車に乗せた。途中で促された景ちゃんの電話には意地でも出なかった。初めて乗る車に翔吾さんの匂いがして、大人だな、と思ったところまでは覚えている。
どうやら私は泣き疲れて眠ってしまったらしい。
「……ちゃん、希々ちゃん。着いたで」
肩を揺り起こされて目を開けると、何階まであるのかわからないタワーマンションが眼前に建っていた。ぼーっとする頭で、背中を押されるがままに進む。
「もう2時や。明日仕事ある?」
「あ……明日は休み、です……」
連れられて乗ったエレベーターの中で、翔吾さんは慣れたようにボタンを押す。
「ほんなら、ちょっとは寝坊できるな。秘書呼んどいたから、風呂とか使い方教わって」
私は少し躊躇ってから、彼の腕に触れた。
「…………翔吾さん、こういうの、慣れてるんですか?」
翔吾さんの目が細められる。
「こういうの、ってのは…………こういうこと?」
途端、背中がエレベーターの壁に押し付けられ、両手で逃げ道を塞がれた。
キスしてしまいそうな、呼吸を掠める近さに息を飲む。
「……っ!」
「慣れてたら、このままキスしてええの?」
その瞳に見えたのは怒りで、私は彼の気分を害してしまったのだと知る。怒られることは怖かったけれど、それよりも怒らせてしまったことの方が申し訳なかった。
「…………翔吾さん、……怒ってます、か……?」
翔吾さんは静かに言う。
「……ようやく気付いたん? 俺、めっちゃ怒っとる」
「どうして……ですか……?」
「あない遅くに一人で家飛び出してあまつさえホテル街に行こうとしたこと」
私は心配されていたのだと、ようやく理解が及んだ。
「……泣きながら俺を頼ってきた癖に、関係ない言うたこと」
翔吾さんの声が悲しげで、私はかつての自分と彼を重ねてしまった。
「…………ごめ、んなさい…………」
景ちゃんに3年前言われて私が嫌だった“関係ない”という言葉を、私が口にしてしまった。
「……ごめんなさい、私…………」
きゅ、と胸元で手を握る。
「ごめん、なさい…………!」
涙が滲んだ時、ふわりと抱きしめられた。
「……わかってくれたんならええ。でも、約束してくれへん? 何があってももう二度と、夜中に一人でホテル街をうろつこうとなんかせん、って」
私は温かい腕に身体を預けて、何度も頷いた。
「ごめん、なさい。……もう絶対、しない」
「よし。……あと、これはできたらやけど……俺に対して、関係ない、とは言わんといて欲しい」
髪を撫でる手つきはいつもと同じ優しいもので、無意識に肩に入っていた力が抜ける。
「……希々ちゃんにとって俺は、ほんまに関係ない存在なん? 友達や思ってたんは俺だけ?」
私は首を横に振る。
関係ない、なんて、深く考えて出た言葉ではなかった。関係のない人なんているわけないのに。私を助けてくれた人なのに。
私は取り乱していたとはいえ、こんなにも優しい人を傷つけてしまった。
「ごめんなさい……。翔吾さんは私のすごく大事な友達で、」
言いかけた、瞬間。
「少なくとも俺にとって希々ちゃんは……」
冷えきった耳に、触れるだけのキスが落とされた。
「――友達より大事な子や」
「……? それってどういう、」
意味を尋ねようとしたのと同時に、エレベーターが開いた。
そこに綺麗な女性がいて、私は声を飲み込む。
「早いやん。さすが有能な秘書や」
「社長は跡部さんが絡むと年中無休で動き回りますから」
少しだけ耳の赤い翔吾さんの背中を見ながら、部屋に案内される。
廊下から見えるネオン街も他のマンションの屋上も遥か下にあって、ここは最上階なのかな、と思った。
「ここが俺ん家。何もないけど、まぁゆっくりしてってや。細かいことはそこの秘書に聞いて」
カードキーで扉を開けた翔吾さんは、すたすたと奥の部屋へ歩いて行ってしまった。
「え? あ、あの……お、お邪魔します」
家主が消えた広い玄関で、私は困惑した。
隣にいた秘書さんが、私に笑いかけてくれる。
「社長は自宅に跡部さんがいらっしゃって、内心はしゃいでるんですよ。あれは照れ隠しですから、お気になさらず」
「は、はい……」
よくわからないまま、頷いた。
それからシャワーをお借りして、秘書さんに案内されたベッドに倒れ込み、泥のように眠った。夢も見ない深い眠りだった。
***
髪を撫でる手が心地好い。大事なものに触るように、壊れ物に触れるように、滑る指先。思えばいつも景ちゃんは、こうやって私に触れる。
「け……い、ちゃん……?」
心地好さに身を任せていたが、頬をなぞる指先が知らない手つきで、私は寝ぼけ眼を擦った。
泣きすぎて目が腫れぼったい、なんて思いながら視界に入った人を見て、僅か目を見開く。
「翔吾、さん……」
「……おはようさん、希々ちゃん」
此処はどこだ。私は何をしている。
数秒頭が機能しなかった。何とか記憶を辿り、私は彼と秘書さんにお世話になったのだと朧げに思い出す。
慌てて飛び起きると、自分が寝ていたベッドがやけに大きなものであることを知って、青ざめた。
もしかして、いや、もしかしなくても。
「私……っ翔吾さんのベッド、占領しちゃったんですか!?」
「そうしたかったんは俺やから、気にせんといて」
判断力が鈍っていたとしても、家主を追い出してぐうすか寝ていたなんて恥ずかしくて顔が上げられない。
「……っすみません……! 私、どうやってお詫びをすれば……!」
ふと、俯いた頬に大きな手のひらが触れた。顔を上げさせられて、翔吾さんが眼鏡姿だと気付く。
「あ、翔吾さんの眼鏡……格好良い」
「……そうか? なら嬉しいけど、な」
翔吾さんは私の頬を撫でて、悲しそうに微笑んだ。
「……なぁ、希々ちゃん。聞いてもええ?」
「はい! 何ですか?」
「…………その“大事な人”と、どこまで進んどるん?」
どこまで、とは。
私は首を傾げる。
「どこまで、って、どういう意味ですか?」
翔吾さんの指先が頬を離れて、首筋を辿る。
「キスとかセックスとかしとるん?」
「!?」
衝撃的すぎる単語に、一瞬思考回路がフリーズした。
しかし、翔吾さんが触れている場所にまだ景吾が付けたキスマークが残っていたと思い出し、急いで首を左右に振る。
「キ、ス……は、したけど、それよりすごいことなんて、私、したことないです!」
「……ほんまに? こんだけキスマーク付けられといて?」
顔が熱くなる。パーティーの夜は、私も景ちゃんに跡を付けてしまったから人のことは言えない。
「ほんと、です。私……翔吾さんに嘘なんてつかないです。キス、マークは、ふざけ合ってた、みたいな感じで、」
あの夜の出来事は、ふざけていたというにはあまりに熱を孕んでいたけれど、やはり相手が弟だという事実は後ろめたい。私の口からは、明らかなその場しのぎの言い訳しか出て来なかった。
「――なぁ、希々ちゃんの大事な人って、誰なん?」
「!」
それだけは、答えられない。
「……っ、ごめんなさい、それだけは…………言えない、です……」
「ほな、それ以外は教えてくれるん?」
「……はい」
私の話など聞いても面白くないだろうに、翔吾さんは真剣な目で私を見つめる。初めて見る眼鏡姿は景ちゃんに似ていて、少しだけ胸をきゅんとさせた。
「希々ちゃんは男が苦手、なんよね? 怖い思ってるのは、ほんま?」
「本当、です。…………男の人は、怖い」
「でもその“大事な人”だけは、怖くないんやね?」
「……はい」
唯一、怖くない人。今は唯一、会いたくない人。
「その人となら、キスはできるんやね?」
「……っその、…………はい……」
何でこんな恥ずかしい思いをしているんだろう。私は逃げ場を探すように視線をさまよわせたけれど、翔吾さんの両手が許してくれない。
私の顎を持ち上げる右手に、首筋をなぞる左手に、思わず肩が跳ねた。
「――なら、俺は?」
「、え……?」
「その大事な人と喧嘩して頼ってくれたっちゅうことは、俺、少しは希々に信頼されてるっちゅうことやろ?」
意図が読めず眉を下げる私に、翔吾さんは真剣な顔で続ける。
「俺とは…………キス、できる?」
「え……?」
「お詫びしたい、言うてたやろ? 今、してくれや。希々ちゃんにとって俺が特別になれる可能性があるか、知りたい」
翔吾さんの整った顔が近付く。
「可能性がないなら、もう関わらんよ。だから……」
可能性。
何の話なのかまったくわからず混乱する私の吐息が、翔吾さんの吐息と混ざり合う。
「……希々、教えて。俺は脈アリなん? 完全に無しなん…………?」
景ちゃん以外の人とのキスなんて、侑士くんに無理矢理されたあの時しか経験がない。
翔吾さんなら怖くないのか、そんなこと、試してみなければわからない。
信頼できる人だから、嫌、ではない。でも。
「翔吾さ――――」
私が迷っている間に、翔吾さんは私の唇を奪った。触れるだけのようでいて情欲の滲むキスが、苦しくなるくらい長く続けられる。
当然景吾とは違うキスに、反射で身体が逃げようとする。でも翔吾さんは私を強く抱きすくめながらキスを続けた。
「……っ、」
乱暴では決してない。ただ、角度を変えず刻み込まれるような口づけに、だんだん頭が痺れてくる。
「……っは…………」
触れ合っていた時間が長すぎて、離れた唇に感覚がなかった。
「…………俺とは、キス、できる?」
「わ、……からな…………」
また唇が重なる。
触れているのかすらわからなくなる程の長いキスに、正常な判断力が失われていく。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだった。
景ちゃん以外の人のキスをきちんと受け止めたのは初めてだ。違う、という思いと、いけない、という思いと、これがむしろ普通のことなのではないか、という思いが交錯した。
翔吾さんは唇を離すと、また問いかける。
「俺とはキス、できる?」
「わ、からな……、」
わからない、と言うたびに口づけられて、YES以外の返答が残されていないとぼんやり理解した。
何回目かの確認に、私は頷いていた。
「…………俺とはキス、できる?」
「……で、きる…………」
「……言質、取ったで?」
角度を変えて、唇が塞がれる。
景吾のキスとは違う。優しいのに抵抗を許してくれない両腕。深くはないのに心拍数を上げる口づけ。
何故こんなことになったのかわからないまま、私は熱い空気に流されていく。
「……俺も、1個だけ付けてええ?」
「……ぇ…………?」
私の答えなんて待ってくれない。右側の首筋に、ぴりっとした痛みが走った。
「!」
“痛み”という刺激に、私の脳はようやく動き出した。
景ちゃんはキスマークを付ける時、どうやっているのかわからないけれど私に痛みを感じさせない。だから翌日お風呂で知ることになるし、私が気づけないものも多い。
だけど、それは景ちゃんだから嫌じゃなかった。愛をくれる景ちゃんだから怖くなかった。誰に付けられてもいいものじゃない。私は翔吾さんの肩を押し返した。
「……っやだ、翔吾さん……っ!」
「すまん! もうせんから……!!」
拒絶した腕諸共きつく抱き締められて、
「…………すまん。もう少しだけ、このままで居って……」
「……、」
掠れた声に、私は小さく息を吐いた。
私を抱きしめたまま動かない翔吾さんに対し、嫌悪感や恐怖は湧いてこない。むしろ甘えられているようで、若干絆されてしまう。
「……翔吾さん、どうしてキスなんてしたの?」
翔吾さんはぽつりと言う。
「…………言いたない。言うたらもう希々ちゃん、俺と会ってくれんくなる」
言いたくないのにキスをするって何だろう。でも翔吾さんは私を友達と言ってくれていたし、告白されたわけでもない。というか私でこの人に釣り合うのか疑問なくらい、大人だ。
「…………言いたくないことがあるのはお互い様、ですね」
私はゆっくり彼の拘束を解いて、短い茶髪を撫でた。
「……嫌、じゃなかったですよ。怖くも、なかった。私、それくらい翔吾さんのこと特別に思ってるみたいです」
私からの信頼を確かめたかったのだろうか。
「……ちゃんと、信頼してます。だから…………これからは恋人以外にキスなんてしちゃダメですよ」
「恋人、ならええん?」
低い声が、耳元を掠める。
「いいんじゃないですか?」
「なら、……俺の恋人になって」
翔吾さんは眼鏡を外した。
「……希々、俺の恋人になって」
「…………?」
真意を図りかねて首を傾げる私に、熱い視線が向けられる。
「俺、希々の恋人になりたい」
好きだ、と言われることはあった。
付き合ってくれ、と言われることもあった。
恋人になりたい、と言われたのは初めてだった。