2章
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*十六話:バレンタインの夜*
あのパーティーの夜、私は自分の中で何かが変わっていたことに気付かされた。
酔っていたのに眠気が途中から消えていて、記憶もはっきり残っている。むしろ鼓動が速すぎて、あの日は眠れなかった。
3年前付けられた跡よりも濃いキスマークが、今でも首や肩に残っている。まるで薔薇の花びらみたいだった。
景吾の様子はいつもと変わらないのに、私はその声に、瞳に、つい目を逸らしてしまう。髪を撫でる優しい手のひらも、私を抱きしめる温かい腕も、意識してしまえば頬を熱くする。
私は翔吾さんに、甘えていた。どうして?
――景吾に甘えてしまう自覚があったから、だ。このまま心の全てが景吾でいっぱいになるのが怖くて、他の人を探した。依存先の分割、と言い換えてもいい。
なのに、甘えて欲しい、なんて言うから。私を欲しい、なんて言うから。
「姉貴?」
「っ! な、何?」
「……どうした? その青いファイル、取ってくれ」
「う、うん」
極力肌が触れないようファイルの隅を握って渡しているのに、景吾はどさくさに紛れて私の手を掴んで引き寄せた。
「何、――――」
机越しに口づけられて、思わず身体が固まった。
「い、きなり…………何……?」
景吾は色っぽく笑って言う。
「……キスして欲しそうな顔してたから」
「!」
落ち着いて、私。
景吾は弟。頼りになる、でも可愛い、私の弟。
小さな頃は一緒にお風呂にだって入ったし、一緒にお昼寝だってしていた。いつも、隣にいた家族。
なのに。
『……全部、俺のもんだって言いたい』
『…………だから、希々もさっさと俺のもんになる覚悟を決めろ』
思い出すだけで胸が高鳴る。心臓の音が速くなる。
「……そ、そんな顔してないから!」
精一杯強がってみても、景吾は私の強がりなんて承知の上だ。
くつり、と軽く喉を鳴らして、景吾がシャツの襟を崩した。
「っ!!」
そこにある紅い跡は、酔った私が付けたもの。
「……これ、いいな。いっそ一生消えねぇようにしたい。見るたびに、俺は希々のもんだって思い出せる」
「……っ!」
これ以上、聞いていられなかった。
「……っお、お手洗いに失礼しますっ!」
恥ずかしさに耐えきれなくなった私は、執務室を出て廊下にへなへなと座り込んだ。
「……もう、何なの………………」
弟の癖に。景吾のくせに。
あんなにカッコいいなんて、反則だ。
「あぁあもうっ!」
3年前の夜と同じことを考えている自分に、悶々としてしまう。
違う、これは私が男性と関わらなさすぎた結果なのだ。もっと、景吾以外の人と関わらないと。
そういう意味では、今日は絶好の機会だった。私は時計を見て、自室に戻る。
もうすぐ定時。約束はしてある。
「…………渡しに行こう」
昨日作ったチョコを、渡す日。今日はバレンタインだ。
***
「希々さん!」
なんと、会社を出ると侑士くんが待っていた。こんなこと、3年前にもあったと思い出す。大学まで侑士くんが来てくれたあの日、私の中で侑士くんはただの後輩、ではなくなった。
「侑士くん、私大学まで行くよって言ったのに……」
「俺が早よ来たら、その分希々さんと長く居られる思て」
両手にチョコレートの入った袋を提げたまま、侑士くんは私に手を伸ばす。
「…………毎年思うけど、それだけ貰ってるなら私のなんていらないんじゃない? むしろ食べ切れるの?」
侑士くんは期待も露に頷く。
「俺は希々さんのが欲しいんです。他に貰ったのは姉貴と両親が食べるんで」
「、でも……」
そのチョコの中には本命があるはずだ。私は好きという感情がわからないから、作ったチョコを日頃の感謝とか特別なありがとうという意味でしか渡せない。義理、みたいなものだ。それなら、私の義理より誰かの本気を大切にした方がいいのではないだろうか。
「……ねぇ侑士くん、やっぱり……」
「俺、毎年この日めっちゃ楽しみにしててん」
不意に、侑士くんの眼が真剣になった。両手の袋を足元に置いて、真っ直ぐ私を見つめる。
「俺が好きなんは希々さんや。だから、義理でも何でも希々さんからチョコが欲しい。……希々さんはいつも自分のなんか要らん言いますけど、要るか要らんか判断するんは俺です」
「……でもやっぱり、本命の重さに比べたら、私申し訳ないよ……」
一つため息をついて、侑士くんは私の肩を優しく抱き寄せた。
「……俺はチョコくれた子に、嘘ついて俺も好きや言えばええんですか? 世間から見た一つのハッピーエンドを、俺が作らなあかんの?」
世間から見た、という言葉に知らず肩が跳ねる。
「……希々さんが、一番知ってはるやろ? 大事なのは世間から見た自分やなくて、自分に正直な自分やって」
景ちゃんのことを知っている侑士くんに言われて、反論なんてできない。
確かにそうだ。侑士くんが本命チョコを貰って嬉しいかどうかは、侑士くんにしかわからない。その子と付き合えば幸せかなんて、侑士くんにしかわからない。
私は優しい腕の中で小さくなった。
「…………ごめんね。侑士くんの言う通りだよ」
「せやろ? 俺が欲しいんは世界でたった一つ、希々さんからのだけです」
侑士くんが欲しいと思うのなら、あげるべきだ。私は彼に渡すつもりでいたし、渡したいと思っているのだから。
腕を解いてくれた侑士くんに、ラッピングした箱を差し出す。
「……ハッピーバレンタイン、侑士くん!」
「おおきに!」
満面の笑みで、侑士くんは受け取ってくれた。
「今年は誰にあげるんですか?」
「今年もお父さんと景ちゃんと侑士くん。と、あと翔吾さん」
翔吾さんの名前に、ぴくりと侑士くんが反応する。
「…………希々さんは義理チョコ、跡部に止められとるんですよね?」
「うん。どうせ作るんだから会社の人にも配ろうかと思ったんだけど、気を持たせるようなことはやめろって。恋愛沙汰になってもいいなら渡せ、って」
恋愛沙汰になってもいいなら渡せ、は、かなり私を納得させた。なりたくない身からすれば、蒔かぬ種は生えぬのだから蒔かなければいい、という意見に賛同してしまう。
侑士くんは既に恋愛沙汰になっている上、景ちゃんとの関係を知っている唯一の存在だ。私の欠落を知ってなお、私を好きだと言ってくれる人。侑士くんにはどういう種類であれ特別な信頼があるから、その気持ちを目に見える形で伝えたい。それは景ちゃんにも言ってある。
「でもね、翔吾さんは会社の人じゃないし、個人的にいつもお世話になってるお礼をしたくて」
侑士くんは片方の眉を僅か持ち上げた。
「いつもお世話になっとるお礼? ……そんなによう会っとるんですか?」
「うん。本当にお兄ちゃんみたいな人なの。景吾が大学に行ってて空いた時間とかに、私の相談に乗ってくれてて」
「…………ふーん。俺とはあんまりデートもしてくれへんのに、翔吾さんとはそない頻繁に会ってはるんですか」
侑士くんの声のトーンが下がる。私は慌てて両手を左右に振った。
「翔吾さん、社長さんだから時間の融通が利くってだけで……」
「……俺はまだ学生やし、時間の融通利かへんことも多いです。けど、希々さんへの気持ちなら誰にも負けへん」
「――……」
侑士くんは切ない微笑みを浮かべた。
「……今年もチョコ、ありがとうございました」
「……っあの!」
私は思わず声を上げていた。
「私……っ、景ちゃんとかお父さんには、……家に帰ってからあげるの!」
「……? そうなんですか」
「だから、その…………っ、い、一番最初にあげたのが、侑士くんだよ……!」
侑士くんが目を丸くした。
「最初に、あげようって、思ってたから…………」
上手く言葉にならない。ただ、特別に思っているということを伝えたかった。
「ちゃんと、侑士くんのこと、……大事に思ってる、から」
何やら恥ずかしくなってきたが、私が空回りしても侑士くんが喜んでくれるなら、それでいい。
「……翔吾さんにもあげる、けど、私にとっての特別は、やっぱり侑士くん、だから……。初めて、……その、…………好きになるかもしれないって、思った人、だから。だから、」
最後まで言わせてもらえなかった。きつく抱き締められて、驚きに息を飲む。
「…………っ好きに、なってくれたらええのに……なんて、思ってまう。…………思わせぶりやな。ほんま、……希々さんは鈍いまんまや」
「に、鈍いっていつも何なの! 私は鋭いよ!」
「鋭い奴は自分で鋭い言わんでしょ」
「…………」
年下にやり込められたのは多少不本意だったけれど。
「……そんな希々さんが、大好きや」
切なくない笑顔を見せてくれたから、それだけでもう十分、空回った甲斐があった気がした。
***
「翔吾さん!」
私は侑士くんと別れてからすぐ、いつもの甘味処に向かった。既に待っていてくれた翔吾さんに抱きつく。
「こんばんは、希々ちゃん」
大人の笑みに、ときん、と胸が鳴る。
私を抱き返し、翔吾さんは頭を撫でてくれた。いつもの手つきに、心が温まる。
「……ハッピーバレンタインです、翔吾さん!」
ラッピングした箱を渡すと、翔吾さんは嬉しそうに笑った。
「おおきに。今開けてもええ?」
「え!? あの、……目の前だと恥ずかしい、ですけど…………ど、どうぞ」
無難なトリュフは、ガナッシュをコーヒー風味にして甘みを抑えた。これなら翔吾さんも食べられる、と思う。さすがに食べて目の前で不味いと言われたら、いくら鈍い私でも凹んでしまう。
感想が怖くて、私は目を閉じた。
その途端、シャッター音がして目を開ける。
翔吾さんは、私のチョコを写真に撮っていた。
「…………え? え、何してるんですか……?」
「見てわからん? 記念に撮っとるんや」
私のチョコに、写真に残すほどの価値はない。いよいよもって、不安になってきた。
「やっぱり、食べないでください! 家に帰ってから……!」
今日の翔吾さんはことごとく私の予想の斜め上を行く。スマホで角度を変え数枚撮ったかと思いきや、私の手を引いた。
「えっ?」
「はい、ピース」
チョコと一緒に、私と翔吾さんが写る。フラッシュが眩しい。
写真に写るためとは言え、すぐ横に翔吾さんの顔があって鼓動が飛び跳ねた。
「……っ」
翔吾さんは満足したのか、私から手を離すとチョコをぽいっと口に入れてしまった。
「えぇ!?」
「んまい!」
「あ、の、……なら、よかった、です……」
ドキドキしたりハラハラしたりで、もはや私はどうリアクションすればいいのかわからなかった。翔吾さんは目を白黒させる私に悪戯っぽく笑む。
「……ほんま、ありがとな。これ、俺のために味考えてくれたんやろ?」
「! はい! ここに来るとよく翔吾さんコーヒー飲んでるから、好きなのかなって。甘さもちょっと控えめにしてみたんですけど、お口に合ったならうれしいです!」
食べてすぐ気付いてくれる翔吾さんは、やっぱり色んなものを食べ慣れているんだろう。
「一人一人に味変えとるん?」
「はい!」
お父さんは、甘いものと紅茶が好きだからミルクティー風味に。景ちゃんは毎年味を変えて。侑士くんは少しキャラメル風味に。
「みんなの好みとかを考えて作るの、楽しいです。喜んでもらえたらな、って思いながら作ると……その人の笑顔が浮かんで」
昨夜の調理を思い出して一人笑ってしまう。
と、翔吾さんが私の手を握った。
「こないだパーティーで会うた、侑士くんにもあげたんやろ?」
「はい」
あのパーティーは楽しくなかったけれど、翔吾さんには何の責任もない。
「侑士くんも同じ関西圏出身ですから、お話合うかもしれないですよ」
「……好みは合うかもしれんけど、話は合わんやろなぁ」
「え?」
翔吾さんは苦笑した。
「俺に対して敵愾心剥き出しやったからな」
確かにただならぬ雰囲気ではあった。
「……希々ちゃん」
翔吾さんが、私の目を見つめる。
「今度、夜一緒に食事せん? 二人で」
「、……」
景吾の言葉と怖いキスを思い出して、私は目を逸らした。考え無しに頷くことはできない。脳裏を過る、景吾の忠告。
『兄みたいな存在だって、男なんだよ。希々の隙につけ込んで、何しようとしてるか分からない。常にその危険があることはわかっててくれ』
お兄ちゃんみたいだけれど、この人も男の人なのだと思うと、少し怖かった。
「……俺のこと、怖い?」
「あ……」
私の手を離して、翔吾さんは困ったように微笑んだ。
「……ごめんな。いきなりこんなこと言われても困るわな」
「……っ翔吾さんが、じゃないんです! 私…………っ、昔から、……男の子が、怖くて……」
上手く言えなくて、俯いて視線をさまよわせる。そんな私の髪を優しく撫でて、翔吾さんは言う。
「ほんま、ごめんな。……いつか俺のこと信頼できたら、どっか一緒に食事付き合うてくれたら嬉しい」
「、…………はい。……すみま、せん……」
すぐに頷けないことがもどかしくて申し訳なくて、少しだけ胸が痛かった。