2章
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*十二話:違う匂い*
自分の都合で大学を休んで自分の都合で不足分の講義を埋める。大学教授というのは随分勝手なものだ、と思いながらオフィスに着いた俺は、違和感に眉をひそめた。
「あ、景ちゃん、おかえりー!」
「……あぁ。ただいま」
「これ、明日のプレゼンの資料。で、こっちが参加企業のリスト…………景ちゃん?」
何か、いつもと違う。
俺は執務室を見渡した。特に変わったところはない。なら何が、と考えてようやく気付く。
匂いが、違う。
この部屋にいつも満ちている希々の香りではない、異物感。
俺はつかつかと希々に歩み寄った。
「……今日もあいつと会ってたのか?」
「翔吾さん? うん、さっきまでお茶してたよ」
希々の近くに来るとより鮮明になる、知らない男物の香水の香り。今までも希々はあいつと会っていたが、こんなに匂いが移ることはなかった。嫌な想像に、顔を顰める。
「……本当に、ただ茶を飲んでただけか?」
「うん」
希々は後ろめたいことなど何もないように、首を傾けた。
「どうしたの?」
「…………」
余程強い香水を付けていたなら、近くにいるだけで匂いは移る。しかし希々は匂いに敏感だ。部屋でもアロマの香りにはかなりこだわっていた。そんな彼女が、近付くだけで移るほど香水の強い人間と会うとは考えづらい。
なら、密着したと考えるほか、ない。
「…………そいつと、抱き合ったのか?」
希々は目をぱちくりさせてから、笑った。
「抱き合った、って、そんな恋人みたいな感じじゃないよ! 私がじゃれて抱き着いた、みたいな感じ。言ったでしょ? 翔吾さんはお兄ちゃんみたいな人だって」
「――――……」
抱き着いた。希々が、自分から。
男が苦手な希々に、自分から行動させる手札を持っている野郎。写真でしか見たことのない榊翔吾に、一瞬殺意が湧いた。
俺はぐい、と希々を抱き寄せた。
「わっ」
バランスを崩した希々の匂いを上書きするよう、力を込めて掻き抱く。
「……っ景ちゃ、苦し、」
「――――そんな簡単に、男に抱き着くんじゃねぇよ。隙ばっか見せてんじゃねぇよ」
「男、って…………だから翔吾さんはお兄ちゃんみたいな人で、」
やや乱暴に、顎を持ち上げる。
「俺は、弟だ。でも、男だ」
「知ってるよ。……それと翔吾さんと、何の関係があるの?」
本気でわかっていない顔だった。
「……わからねぇのか?」
俺は希々をソファに押し倒した。いつものように愛情を伝えるキスではなく、無理矢理甘い咥内に舌を捩じ込む。
「……っ!?」
バニラの香りがする。スイーツにつられてこの姉は、俺以外の野郎に抱き着いた。
「待っ、」
何か言いかけたのを無視し、喉まで届くんじゃないかと思うくらい深く口づけた。
「……けほっ、」
噎せた希々を解放せず、舌を噛みながら唾液を流し込む。
「……っ!」
咳き込んだ希々の、顔中にキスを降らせた。耳にも首筋にも、痛みを感じるようわざと強く吸い付く。いつもキスマークを付ける時は、希々が痛みを感じないようにしていた。
「痛……っ景、ちゃ、」
抱き着いた、なんて、希々が甘えたくなった時の行動。俺じゃない男に甘えるなよ。俺じゃ頼りねぇのかよ。だから年上になんて、関わらせたくなかったんだ。
「景ちゃ、ん……っ!」
自覚のない希々の唇に噛み付いた。しかし、その細い肩がかすかに震えていることに気付き、そっと離れる。
「…………っけい、ちゃ、……」
「気持ち良かったか? んなわけねぇよな。怖かっただろ?」
希々は瞳を潤ませて、カタカタと震えながら何度も頷いた。
「希々はいつも、俺のキスが気持ち良いって言う。でも愛情のねぇ“怖いキス”だって、男は簡単に出来るんだよ」
希々は本能的に俺から距離を取ろうとして、自分の行動に動きを止めた。
「……キスだけじゃねぇ。男なんて二人きりの場所に行けばすぐ、姉貴の服を脱がせてその身体を好き放題いたぶるぞ」
「…………そ、んなこと、……景ちゃんは、しない……」
「俺は弟だからだ。希々のことが好きだからだ。大切だからだ。愛してるからだ。でも、世の中の大半の男からすりゃあ姉貴は、綺麗で一度はヤりたい女なんだよ」
「……!」
逃げようとしていた体勢を戻し、震えつつ半身を起こそうとする希々を優しく支える。俺が触れただけでびくっと肩を跳ねさせたが、それでも希々は俺の腕に身体を預けた。
他の男に恐怖を刻まれてからでは遅いのだ。まぁ、希々を傷物にでもしてみろ。そんな野郎は地の果てまででも追い詰めて、ありとあらゆる苦痛を与えてから社会的に抹殺するが。
「……怖い思いさせて、ごめんな」
俺は今度はいつものように優しく、希々を抱きしめた。そっと髪を撫で、頬にふわりと口づける。
「俺が、希々を守る。そう決めて生きてきた。だから今まで、希々に近付く男は可能な限り排除してきた」
希々の肩から、ゆっくりと力が抜けていくのがわかった。強ばっていた身体が、ようやく落ち着きを取り戻す。
「でも希々は、年上の友達が欲しいんだろ?」
「、…………翔吾さん、も……そんな怖いこと、したがってるの…………?」
不安げに揺れるアイスブルーが、俺を映す。
「……わからねぇから、気をつけろって言ってんだ」
艶やかな髪を指で梳いてやりながら、安心させるように背中を撫でる。
「確かに俺には、希々の交友関係にまで口出しする権利はねぇ。だが、希々が傷付く可能性があるなら口を出す」
縮こまっていた希々の腕が、きゅっと背に回された。
「兄みたいな存在だって、男なんだよ。希々の隙につけ込んで、何しようとしてるか分からない。常にその危険があることはわかっててくれ」
「景、ちゃん……」
「あんたは綺麗なんだ。危機感ってもんを、もう少し持ってくれ。じゃねぇと安心して“友達”に会いに行かせられない」
希々は俺の首筋に頬を押し付けて、何度も頷いた。
「ごめん、なさい……。景ちゃん、怒ってる…………?」
「……最初は怒ってた。でも今はもう怒ってねぇよ」
「……ほんとに…………?」
いつまで経っても不安そうな希々を離し、頬を撫でる。
「……俺が、怒ってるように見えるか?」
上目がちに見上げるアイスブルーが揺らめく。
「…………見え……ないような、見えるような……?」
「なんで疑問形なんだよ」
軽く笑って、俺は希々の唇を塞いだ。
「、」
反射的に怯えた希々だったが、与えられた口づけがいつものものだと理解して目を閉じた。
触れたまま時間を止めるだけの優しいキスを、ゆっくり数回繰り返す。子供をあやすように恋人を宥めるように、唇から愛情を伝えた。
やがて完全に力の抜けた希々を抱きしめて、知らない香りが消えていることに安堵した。
「……今度ドライブ行こうって誘われたけど…………ほんとに怖くない人か、ちゃんとわかってからにするね」
……やりすぎたかと思ったが、やってよかった。車なんて動く密室だ。本当に危機感のない希々に、ため息がこぼれる。
「……百歩譲って俺も一緒ならいいが、二人きりはやめておけよ」
「……ん」
希々が身体を擦り寄せてくるものだから、やんわりと腕に力を込めた。
「…………俺が、年上だったら良かったのにな」
「なんで?」
「……そうしたら、希々を甘えさせてやれた。兄、になれた。…………血が繋がっているならせめて、兄になりたかった」
小さい頃から俺は甘えてばかりだった。甘えさせてやりたい。頼って欲しい。どうしたらそれが叶うかわからなくて、“翔吾さん”に嫉妬してきた。
「……誰かに甘えたいんだろ? 姉貴」
しばしの黙考の後返される、是の意。
「…………俺に、甘えてくれよ…………。俺、まだ頼りねぇかもしれねぇけど、希々のためなら何でもできる。何でもしてやる。だから…………他の男に頼ろうとしないでくれよ……」
素直な肯定が返って来ないのは、榊翔吾が希々の信頼を得ているから。俺の知らない間に、二人の関係は大分深いものになってしまったらしい。
それでもここで希々の言動を制限するのは得策ではない。そんなことをすれば、たちまち“監視している”と思われて俺が信頼を失ってしまう。
今は、耐えろ。できることをできる限り、伝えるんだ。
「……希々、好きだ…………。愛してる。……ずっと、これからも」
首に回された手に、きゅ、と力が込もった。言葉にしてもらえない切なさに、胸の隅が痛んだ。