2章
夢小説設定
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*六話:綻び*
風呂から上がった時だった。階段から微かに希々の声がした。
「……ろしくお願いしますね、翔吾さん」
「……っ!」
その名前を忘れるはずがない。同窓会で希々が口にした、監督の甥の名だ。
2日前、希々から次の休みの話をされた。また忍足か、と思った俺の予想を裏切って、彼女の口から告げられたのは榊翔吾の名前。
『友達として仲良くしてほしいんだって』
そんな台詞を信じるこの姉の頭はきっとお花畑だ。俺は淡々と答えた。
『却下だ。土日両方仕事詰め込む』
しかしこの時、初めて希々は異を唱えた。
『……ねぇ、おかしくない?』
『……何がだ』
『侑士くんとデートするな、って言うのはわかるよ? 侑士くんは私に好きって言ってくれた人だから。でも翔吾さんはそんなこと一言も言ってないじゃない』
『……だったら、何がおかしいってんだよ』
希々は珍しく眉をつり上げる。
『どうして私の交友関係まで景ちゃんに口出しされなくちゃいけないの?』
『、』
一瞬、言葉に詰まった。
『ちゃんと会ったこともないのに、なんで男性ってだけで頭ごなしに全部ダメって言うの? 少なくとも翔吾さんは大人だし、自分より年上の友達……私だって欲しいよ。会ってお話してみたい』
『……姉貴みたいに、世の中全員男女で友情は成立すると思ってるわけじゃねぇんだぞ? 友達、って名目で近付こうとしてる野郎だったらどうすんだよ』
『その時はちゃんと断ればいいじゃない。私と友達になりたいって言ってくれてる人を、会ったこともないのに否定しないで』
確かに俺はそいつに会ったこともない。話したこともない。ただ直感が告げている。そいつはきっと、忍足より厄介な奴だ。できるだけ希々を近付かせたくない。
『……俺は、……』
しかし滅多に怒らない希々の刺々しい声に、それ以上何も言えなくなってしまった。
『土日は仕事なのね。なら、他の日に会ってくる』
『、やめろ』
『嫌』
つーん、とそっぽを向いた希々は、梃子でも動かなそうである。
『……っ勝手にしろ』
『勝手にするよ』
半ば喧嘩別れした2日前の苦い記憶。
俺の独占欲が原因だとわかっていても、行かせたくない。俺から謝ったところで、希々は『なら行っていいよね!』と言うだけ。俺が謝らなくても、このままなら勝手に予定を立てるだろう。どちらにせよ二人が会うのを邪魔する方法が思いつかない。
――俺は、あんたのことしか考えてないのに。あんたを怖がらせないよう、ずっと耐えているのに。でも、……あんたは俺のものじゃ、ないんだよな。
俺のものではない人を、俺は束縛しているのだとようやく理解した。束縛と思われないように、不自由だと気付かせないように上手く立ち回れなかった俺が悪い。だから、どうしたらいいのか考えていた時に聞こえた声。
「……っ!」
俺は早足で階段を上り、驚いた顔の希々を見据える。
「……いつ、会うんだよ」
「…………言う必要、ないでしょ」
「秘書の予定を把握する必要がある」
「……!」
てっきりまた喧嘩腰になるかと思いきや、希々は悲しそうな表情を浮かべた。
「……景ちゃんは、私を大切に思ってくれたから…………私を秘書にしてくれたんだと、……思ってた…………」
アイスブルーの瞳が、泣きそうに歪んだ。
「私の行動を監視するため、だったの…………?」
「っ! 違う!」
咄嗟にその身体を抱き寄せた。きつく腕に力を込めて、何度も謝る。
「ごめん、俺が悪かった、……っごめん……!」
否定できないことが、苦しい。悔しい。
希々は、俺のものじゃないから。
「…………景吾の考えてることが、わからないよ………………」
「っ、」
「………………私が秘書でいる必要、ないんじゃないの…………?」
「!!」
これは、まずい流れだ。
ここで選択を誤れば、希々は俺から離れて行く。跡部の力で連れ戻すことは容易いが、そこに彼女の意志がないならただのパワハラだ。
考えろ。
俺は姉貴を大切に思っている。だから秘書にした。それは事実だ。俺は希々が俺以外の人間と関わらないように動いてきた。監視するため、と言われれば否定はできない。それも事実だ。
これらの事実をどう伝えればいい。
どうにかして頭を回転させ、俺の胸の奥に降り積もる希々の言葉を探す。
「……なぁ。前に……姉貴が、俺をとられたくない、って言ったこと、覚えてるか?」
希々は小さく頷く。
「……それと、同じだ。俺だって……姉貴をとられたくない」
腕の中の希々が、僅かに顔を上げる。
「…………ヤキモチ? 景ちゃんが?」
不思議そうな声色に、とりあえず最大の危機が去ったことだけはわかった。抱きしめたまま指先で希々の目元に触れる。
「……俺を何だと思ってるんだよ」
「いつも余裕で一人で何でもできる跡部グループ副代表」
「馬鹿姉貴」
デコピンの代わりに額に口づけて。
「……余裕なんか、ない。俺はどうやったって姉貴の年上にはなれねぇから、頼りないと思われねぇよう毎日必死だ」
「……嘘、」
「一人で何でもできる? そんなの姉貴がいるからできるだけだ。姉貴がいなくなったら、俺は跡部グループも大学もどっちも駄目になる」
「……そんなわけ、」
隙をついて唇を塞ぐ。しばらく動かずその温もりを確かめてから、そっと離れた。
希々の肩に額を押し当てて、呟く。
「……俺より頼りになる年上の男と知り合って、そいつに心を預ける希々を見たくねぇ」
「景ちゃん……」
「俺にそばにいてほしいって言った姉貴が、いつか俺じゃない奴にそう言うのも嫌だ」
いつも本音を言う時、格好悪くて希々の顔を見られない。だが、彼女の心を一番動かすのが俺の飾らない本音だということも、嫌という程よく知っている。
『言ったでしょ……? 私は景ちゃんと、離れたくない。ぎゅってしたい。一緒にいたい。愛とか恋とかわかってないし、まだこの気持ちしかわからないけど…………私の願いは、景ちゃんがいなきゃどれも叶えられないんだよ……』
俺の、宝物。あの夜確かに希々の口から放たれた言葉。俺はこの言葉を支えに生きてきた。この言葉がなければ、仕事も学業もこなそうなどという考えはまず浮かばなかっただろう。
俺が、仕事で頼れる男になりたかった。
俺が、しっかり大学まで卒業した大人になりたかった。
笑う希々の隣に立つのに、相応しい人間になりたかったから。
俺は赤くなっている自分の頬を自覚しながら、希々と視線を合わせた。
「……っ俺と! ……離れたく、ないんじゃないのかよ。ぎゅっとしたくて、一緒にいたいんじゃ、ないのかよ……。もう、姉貴の中でそんな気持ち、なくなっちまったのか……?」
不安で心臓が縮む。
ここで『そんな気持ちなくなったよ』なんて言われたら、俺はどうすればいい。
無理だ。生きていけない。誇張表現ではない。きっと俺は息さえ上手く吸えなくなる。俺の、命よりも大切な人。
行かないでくれ。頼むよ。俺の持つ何でもやるから、だから。
「……景吾…………」
「……嫌だ。俺はあの言葉があったからこれまでやってこれたんだ。今更反故にするなんて、…………っ嫌だ…………」
……だから、嫌なんだ。本音を口にすると、涙が滲むから。
声が震えた。瞼の裏が熱くなる。それでも言葉を繋げようとする俺の唇が、今度は希々によって塞がれた。
「――――」
ゆっくり離れた希々は、背伸びして俺の頭を撫でた。
「……ごめんね。……好き、がわからない私のことを好きな景ちゃんが、不安にならないわけ、ないのに。気付かなくて、ごめんね」
頭を撫でてくれる優しさと、慈愛に満ちた微笑みにまた喉の奥が熱くなる。
「私の気持ち、変わってないよ。景ちゃんと一緒にいたい。ぎゅってしたい。景ちゃんのこと、大好きだよ」
「……っ」
つま先立ちしている姉を思い切り抱き締めた。愛しすぎて、苦しい。
「……だから、信じて。私が新しい人間関係を築くこと、不安に思わないで。私が誰かと知り合うたびに不安になってたら、辛いのは景ちゃんだよ」
希々は、もう怒ってはいなかった。
「翔吾さんとは、明日会ってくる。景ちゃん大学の試験でしょ?」
「、」
「景ちゃんが仕事じゃない時に会おうって決めてたよ。景ちゃんが仕事の時、秘書の私がいないんじゃ困るでしょ?」
「……困る」
頼りない声しか出ない俺に、希々は笑顔を向けてくれた。
「ふふ。明日だって、早めに帰ってくるよ。帰る時は連絡する。それより景ちゃん、試験が終われば大学の方は落ち着くんでしょ? 久しぶりに何処か出かける?」
いつも大学の試験が終わると、希々はご褒美だ、と言って甘えさせてくれる。この時だけは俺も気を張らず、素直に甘えられる。そこは弟の特権ということにしておきたい。
「……外は、希々といちゃつけねぇから……別荘がいい」
くすくす笑って、「はーい!」なんて言うこの人のことを、どうしようもなく好きだと思った。