1章
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*最終話:これを愛と呼ぶのなら*
この日私は、帰宅中に氷帝の制服を着た子たちに声をかけられた。
「あの、跡部様のお姉様ですよね?」
足をとめる。
景吾が学園で“跡部様”と呼ばれていることは知っている。大仰な呼び方だと思っていたけれど、財閥の跡取り息子で生徒会長でテニス部部長で成績学年一位なら、学生にとっては十分様付けに値するのかもしれない、と昔考えたのを思い出す。
「はい。景吾に何かご用ですか?」
女子高生達は、皆頬を染めて身を乗り出してきた。
「最近、跡部様が誰とも付き合ってないんです! ご自宅のメイドさんとかとお付き合いしてるんでしょうか!?」
「以前はわたしたちにも可能性があったのに……!」
「私はこの前、告白したら『もう遊びはしねぇ』なんて言われて……! でもその時の真剣なお顔がカッコよくて……!」
――景吾はモテる。知っていた。バレンタインに持ち帰るとんでもない量のチョコだって、誕生日の抱えきれない程のプレゼントだって、私は横で見てきた。
この子たちは景吾と歳も近くて、純粋に恋をして憧れている。それを隠す必要もなくて。
「…………ごめんね。私もよくは知らないの」
嘘をつくしかないのが、心苦しかった。
私がいなければ、この子たちの恋は実ったのかもしれない。
以前景吾が放った台詞が今になって、胸を刺す。
『俺は一時でも好きな奴を忘れられる、相手は一時でも願いが叶う。互いにメリットしかねぇこの付き合い方をやめて、俺に何のメリットがあんだよ?』
本当に、私はこのままでいいのだろうか。景吾があまりに嬉しそうに、あまりに優しく触れてくるから流されてしまっていたけれど、私は姉として景吾を拒絶するべきだったのではないだろうか。
せめて景吾だけでも、生きやすい道に戻してあげるべきではないのだろうか。
どうしたらいいのか、急にわからなくなった。
「…………ごめんね」
制服を着た彼女達にもう一度謝って、私は家に入った。
突き付けられた事実に、足元から何かが崩れ落ちるような気がした。
***
景吾が部活から帰ってきた。
わかった途端、私は逃げるように自室に入って鍵をかけた。今まで自宅で鍵をかけたことがなかったから多少の後ろめたさは生まれるが、四の五の言っていられない。
いつもならリビングで私を抱きしめる腕に、今は身体を預けるわけにはいかないから。
やがて予想通り部屋のドアノブがひねられて、私は肩を跳ねさせた。
「……希々? いるんだろ?」
ドアの向こうの弟に冷や汗をかきながら、なんとか平静を装う。
「おかえり! 今日も部活お疲れ様!」
「……なんで、鍵、かけてる?」
「私だって年頃の女として、いつも鍵を開けっ放しってよくないと思ったの!」
景吾が黙り込む。
私の雰囲気でおかしいところはなかったはずだ。このまま去ってくれることを願いつつ、息をひそめる。
「…………顔が、見たい」
「へ……っ変な景吾! 顔なんて毎日見てるでしょ? むしろもう、見飽きてるんじゃない?」
わざと明るく笑って答える。
景吾の声が、はっきりとトーンを落とした。
「…………俺のこと、嫌いになったか?」
「っ、そんなわけないじゃない。今でも大好きだよ」
わずかな時間、訪れる静寂の後。
「………………ごめん、な」
泣きそうな声が聞こえた。
「……っ!」
反射的にドアを開けてしまいそうになって、なんとか思いとどまる。
私が、姉として、拒絶してあげないと。景吾はいつまでも私を追ってしまう。
私は正しいことをしたはずだった。なのに、胸が痛くて苦しい。息が上手く吸えない。
「…………怖いと思わせたなら、悪かった。謝る。……ただ、話をさせてくれねぇか? 原因を知りたい。姉貴が俺の顔を見たくないなら、電話でいいから」
「……っ!」
原因、なんて。私にもわからない。だけど思ったの。私を追いかけなければ、景吾は――――
プルル、プルルル、
「!」
本当にかかってきた電話に、震える手を伸ばす。
「……っ」
無視、しなきゃ。
ちゃんと、拒絶しなきゃ。
そうわかっているのに、思い出すのは景吾の優しい抱擁で。嬉しそうな笑顔で。髪を撫でる手つきで。
「…………っはい…………」
私は、電話に出てしまった。
『……姉貴』
「……っ景吾…………」
もうどうしたらいいかわからなくて、涙が込み上げてきた。
「……景吾……っ!」
『……落ち着け。大丈夫だ。俺がいる』
「けい、ちゃん…………っ」
『大丈夫だ。……何があった?』
低い声。聞き慣れた声。安心できる声。
繰り返される『大丈夫』に、涙は止まらない。
「私……っ、姉として、景吾を突き放さなきゃいけないって、わかってるのに、そうしないと景ちゃんは私を追いかけちゃって、女の子達も恋が叶わなくて…………っ!」
『……女の子達? 何の話だ?』
頭の中がぐちゃぐちゃで、支離滅裂だ。
「景ちゃんを手放してあげなきゃ、いけないのに…………っ! それが、景吾のため、なのに、わかってる、のに…………っ!」
正しいはずなのに、どうしてこんなに痛いの。苦しいの。
私は両手で顔を覆った。もう、電話を持つこともできない。スマホを取り落とし、その場に崩れ落ちた。
画面の向こうにもノイズが走る。
「できないよ…………っ」
ごめんね景ちゃん。私、話すことすらまともにできない。
ザザッ、という音の直後だった。
――――バンッ、
「――――!」
ドアではなく、外から部屋の窓をぶち破って、景ちゃんは私の部屋に入ってきた。
驚きのあまり泣いていたことも忘れ、目を見開く。
窓から入る夜風が髪を靡かせる。狭い窓から抜け出して体勢を戻し、月光を纏った王子様は、私を抱きしめた。
「……悪い。やっぱり、一人で希々を泣かせるなんてできねぇ」
「…………っ!」
そんなことを言われたら、我慢なんかできない。私は逞しい胸に必死に縋り付いた。
「…………ゆっくりでいいから、姉貴の考えてること、教えてくれ」
「わ、私…………っ、今日、家の前で氷帝の女の子達に会ったの」
「……あぁ」
彼女達はきっと、自宅まで押しかける程に景吾のことが好きで。
「景吾が、女の子と付き合ってない理由、……っ答えられなくて……!」
「……あぁ」
「私はお姉ちゃんだから、景吾が手を離せないなら、私から手を離してあげなきゃいけないって、わかってるの、」
わかっている、のに。
「だから、もう、離れようって、触れないようにして、普通の姉弟に戻ろうって、」
そう、決めたのに。
「……っその方が景吾のためで、あの子たちのためってわかってるのに…………っ!」
とめどなく溢れる涙が景吾の制服を濡らしていく。
「私…………っ、景吾が来てくれて、ほっとしてる…………!」
――私、景吾がこんな大きな存在になっているって今さら気付いたの。いつも守ってくれる頼もしい後ろ姿。誰よりも優しい両手。
泣きじゃくる私の背中をゆっくり撫でて、景吾は言う。
「……泣かせて、ごめんな」
優しい言葉にいよいよ涙腺が限界をむかえた。鼻水まで出てきて、きっと今の私はすごく不細工だ。景吾の腕の力が強くなる。
「…………俺、は。10年以上、希々のことが好きだった。何度も忘れようとした。諦めようとした。……でも、できなかった」
「……ティッシュ取って。鼻かむ」
「空気を読め馬鹿姉貴」
そうは言っても素直にティッシュ箱を取ってくれる景吾に抱きついたまま、右手でなんとか涙と鼻水を拭う。
「……俺は諦めることを諦めた。だから自分のために、姉貴に告白した」
「……自分の、ため?」
「今までは姉貴のために、言わずにいた。でも忍足が……希々と仲良くなるのが辛くて、……一人で抱え切れなくなった」
景吾も私に抱きつくように、ぎゅっと腕に力を込めた。
「言ったら言ったで、我慢なんか出来やしねぇ。好きで好きで、…………俺はもう、希々以外の誰も好きになれなくていい。死ぬまで恋愛なんかできなくていい」
「けいちゃ、」
景吾が大きく息を吸う。
「…………俺は、姉貴のもんだ。俺は、希々のために生まれた」
「――――」
この気持ちを、何に例えよう。
「俺を手放せねぇ、って言ったよな。……なら、手放すなよ」
「……でも」
「世間から幸せそうに見えなきゃいけねぇのか? 見せかけの幸せは、誰のために作るんだ? 俺は自分の幸せまで跡部家にやる気はねぇぞ」
景吾の言葉に、胸が震えた。
「……俺の幸せは、希々の隣にしかない。姉貴が誰か好きな奴を見付けてそいつと生きてくってんならまだしも、世間体のために自分を殺せるほど、俺の愛は安くない」
…………愛。
それは、ずっと景吾からもらってきたもの。
家族としてもらってきたもの。
でも今もらっている愛は、少し違う。
「……言ったろ? 誰よりも、何よりも、愛してる、って」
胸の奥から溢れてくる感情の名前を、私は知らない。景吾の愛情が染みて、後から後から心臓をぎゅっと締め付ける。
「……俺のためだか雌猫のためだか知らねぇが、俺様から逃げたいなら納得のいく理由を言え」
「、……やだ」
「アーン?」
「景ちゃんと、離れたくない」
景吾の肩が、ぴくりと動いた。
「……好き、はよくわかんない。でも私が見つけたいのは、恋じゃなくて愛だから、……わからなくてもいいの」
すん、と鼻水をすすって、私はそっと景吾の背中から腕を解いた。
景吾も私の意思を汲んで、そっと腕を離してくれる。
月光を背負ったアイスブルーの瞳を見つめた。部活終わりで疲れているはずなのに、こんなにカッコいいなんて反則だ。
「……景ちゃんと、離れたくない。ぎゅってしたい。一緒にいたい」
私の本音に、景吾は目を細める。
「……何だその答えになってない答えは」
「だって考えてることゆっくり言えって、景ちゃんが言った……」
景吾が無言になった。
「……景ちゃんが私を追いかけても、報われないよ。結婚できないよ? みんなに祝福なんてされないよ…………」
私にとっては切実な問題だったが、この件に関して景ちゃんは淡々としたものだった。私の目から零れ続ける涙を、飽きもせず指先で拭う。
「報われないことは、諦める理由にならねぇ。そもそも姉貴が何年か後でもいい……俺を選んでくれたなら、その時報われんだよ」
ひどい。報われるかどうか、私に委ねるなんて。景吾の想いの行く末を握っているのは私、なのだ。
それでも湧き上がる不安に、目を伏せる。
「……跡部の家だから、私も景ちゃんもきっと結婚させられちゃうよ」
「希々の婚約も見合いも、可能な限り事前に破棄する。俺はしねぇし、何を言われても適当にあしらう」
私は上目遣いで小さく尋ねる。
「……でも、景ちゃんは、お見合い相手のこと好きになるかもしれないでしょ……?」
景吾は僅かに目を見張ってから、嬉しそうに破顔した。
「……なんだ。ヤキモチか?」
一途な想いをもらえるのはうれしいけれど、信じて後で傷付くのは嫌だ。いつ変わってしまうかわからない。いつ代わりが見つかるかわからない。
「…………うん。景ちゃんをとられるの、やだ」
素直に俯くと、再び強く抱きしめられた。髪を撫でる手つきが優しくて、景吾の腕の中が温かくて、私も身体を擦り寄せた。
「……俺の愛が信じられねぇなら、一生かけて信じさせてやる」
一生かけて、なんて、まるでプロポーズだ。
「、でも、政略結婚とか、お金が絡むと人は変わる、んでしょ……?」
景ちゃんは一つずつ、私の心の蟠りを溶かしてくれた。
「……何のために、中学から家に関わってきたと思ってる。親父の後なら今すぐにでも継げるぜ? まぁいずれ俺が跡部グループをまとめるわけだが……当然、跡部財閥に金銭的な援助ができるような会社は、そう多くはねぇ」
「知ってる、けど……」
「俺はどれだけ資金繰りに困ろうが、俺と姉貴を売るような真似は死んでもしねぇ」
とくん、胸が音を立てる。
「…………死ぬほど、考えた。正しいことも、すべきことも、周りの目のことも」
景吾の心臓の音が、押し付けた頬から伝わる。
「……希々を忘れることが正しいなら、俺は正しくなくていい」
「……!」
「絶対的な正義なんてものは、この世に存在しねぇ。人を殺すことすら時に正しいんだ。常識なんざどれも曖昧な価値基準のもんでしかねぇ。……なら俺は、俺と希々の幸せに繋がるものを正しいと認識する」
私は目を見開いた。
私は、何をもって“正しい”と考えていた?
世間から見て。
常識で考えて。
そこに、私の意思も景吾の意思もなかったけれど、じゃあ、誰の意思があったの?
「誰に正しくねぇと言われても、俺は希々より大事なものなんてねぇんだ。忘れるべきでも、諦めるべきでも、そうすれば周りに祝福されるとしても、それで世界が救われるとしても、…………俺は希々のためなら、喜んで世界全部を敵に回してやる」
景吾は私の顔を覗き込んで、目尻に残る滴を拭った。
「俺は正しくなくてもいいから、幸せになりたい。それには姉貴がいねぇと駄目なんだ」
「わた、し…………は、」
「…………すぐ答えが出なくていい。姉貴が幸せになるのに俺が邪魔なら、」
「邪魔になんかならないよっ!」
大きな声が出た。びっくりする景吾を前に、何とか拙い思いを口にする。
「言ったでしょ……? 私は景ちゃんと、離れたくない。ぎゅってしたい。一緒にいたい。愛とか恋とかわかってないし、まだこの気持ちしかわからないけど…………私の願いは、景ちゃんがいなきゃどれも叶えられないんだよ……」
「希々……」
「だから…………そばに、いてほしい」
景吾がふ、と悲しそうな微笑みを口の端に浮かべる。
「…………俺が傍にいたら、またキスするぜ?」
「…………景ちゃんなら、嫌じゃない」
「……彼氏作るの邪魔するかもな」
「……出来そうにないことわかって言ってるでしょ」
泣きすぎて真っ赤になった鼻の頭に、柔らかな口づけが落とされる。
「……好きだ。俺の全部をやる。だから…………いつか姉貴も、俺のものになる覚悟を決めろ」
私はふにゃりと笑った。
「もう返してあげないよ。……私をあげる確約もできないよ。そんな私でいいの?」
景吾は不敵に笑った。
「そんなあんたがいいんだよ、馬鹿希々」
月の光に照らされて、私は優しいキスを受けとめた。十字架を背負う覚悟と共に。
*学生編終*
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