1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
*十二話:雨と涙*
わからない。わからない。何が起きたのかわからない。
いつの間にか降り出していた雨に打たれ、走る。傘なんて持ってない。
髪も服も水を吸って重くなる。
私は家に連絡するという手段すら思い浮かばず、ひたすらに走った。
あんなに優しかった侑士くんが、まるで知らない人みたいに怖かった。井上君みたいに怖かった。侑士くんを怖いと思ったのは、初めてだった。
いつだって私のことを考えてくれて、私の隣でゆっくり歩いてくれた人。
「…………っ!」
涙が止まらない。
きっと、景ちゃんの言う通りだったんだ。私は侑士くんに無理をさせていた。我慢させていた。恋愛経験のない私と一緒にいて、どれだけじれったい思いをさせてしまったのだろう。
好きという感情がわからないまま、関わるべきじゃなかった。侑士くんの想いが3年前から私に向けられていたと知って、私はデートの誘いを受けようと思った。不安だったけれど、その3年間に少しでも報いたかったから。
侑士くんは、何一つ強要しなかった。私はこのまま侑士くんと一緒にいたら侑士くんのことを好きになるのかな、なんて漠然と考えていたくらいだ。
「…………っ!」
侑士くんからのキスは、怖かった。
だけど私が逃げたのは、怖かったからだけじゃない。
“このキスじゃない”。
私は誰かとキスをしたことなんてないのに、侑士くんのキスは違うと感じた。
何故かはわからない。
自分のことがわからない。
私は混乱のままに、跡部邸に辿り着く。
「景ちゃん…………っ!」
今私を助けてくれるのは、彼しか思いつかなかった。
「姉貴?」
シャワーを浴びてきたのか、ラフなシャツにジーンズという格好で、首にタオルをかけている。景ちゃんはこちらを見て目を丸くした。
私は景ちゃんに抱きつく。
「忍足と帰るんじゃなかったのかよ? あいつはちゃんとここまで送ってきたのか?」
「……っ! …………っ、」
私はかぶりを振ることしかできない。
「……つーか、姉貴も雨に降られたんだな。そのままじゃ風邪引いちまうぜ? シャワー浴びて来いよ」
「……っ、…………っこわ、い…………っ!」
「…………」
景ちゃんは何も言わず、震える私を抱きしめてくれた。
「……っ怖い、こわ、い…………っ!」
寒くて震えているのか、怖くて震えているのか、もうわからなかった。
景ちゃんの温かい腕の中で、涙がまた溢れる。
「…………何があった?」
「……っ!」
優しい声に、堪えていた嗚咽が漏れる。
「侑士くんが…………っ、無理矢理…………っ!」
ぎゅっと安心させるよう強くなった逞しい腕に縋り付き、私は全部を吐き出していた。
「景ちゃんの言う通りだった……っ! 私、侑士くんにずっと甘えてばっかりで、我慢させてばっかりで……! あんな怖いキス、知らない!! 違うの、私キスなんてしたことないのに、違うって思っちゃうの、私の知ってるキスはもっと優しくて……!」
知らないことばかり、私を置き去りに動いていく。あんなことをしなければいけないなら、私は恋なんてしたくない。
「む、無理矢理腕、掴まれて…………! キスしかされてない、けど、……っ襲われたわけじゃないけど! もうやだよ、怖いよ…………っ私、男の人、怖いよ…………っ!」
男の人に力で敵わないことがこんなに怖いだなんて知らなかった。世の中で男性に望まず暴行された女性は、どれだけ怖かったことだろう。
「……俺も男だろ?」
「景ちゃんは怖くない!」
私はきっ、と顔を上げた。
「景ちゃんは優しくてあったかくて、頼りになる弟だよ! 今だって、私…………っ! 他に頼れる人なんて、いないのに…………っ」
景ちゃんは、私を突き放したりしなかった。今まで困ったことがあったら話を聞いてくれたのは景ちゃんだった。私が恋愛で相談できる友達なんて、思い浮かばないのだ。
だって、誰かを好きになったことがないなんて、誰に相談すればいいの?
好きの気持ちがわからないなんて、誰に打ち明ければいい?
希々はモテるね、なんて言われている私が、友達に相談できるはずがない。
「私…………っ、だれに相談すればいいのか、わからない…………っ!」
頬を流れていく涙の向こう、景ちゃんは微笑んだ。
「景ちゃ――――」
ふわ、と唇が塞がれる。
いつかと同じ、でも今はワインの香りがしない。
優しくて、怖くない。
ただ唇が触れ合うだけで、強ばった身体の力が抜けていく。
知らないはずなのに、私は“このキスだ”と思った。
「ぁ…………」
いつでも逃げられるように、ゆっくり繰り返される優しい口づけ。
「、…………」
気付けば私は目を閉じて、そのキスを受け入れていた。