Ⅴ 飛影ルート
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✴︎91✴︎チョコレートの行方
オーブンから焼き上がったガトーショコラを取り出しているエプロン姿の女に、男はつかつかと歩み寄った。
その荒い足取りや眉間に刻まれた皺から、彼が不機嫌であるのは誰の目から見ても明らかであろう。
「おい。オレは今日から金輪際それを口にせんからな」
「え、なんで!?」
チョコの香りが立ち込めたキッチンでの、死々若丸の唐突な宣言に未来は目を丸くする。
「口にあわなかった?実は甘いの苦手?気に入ってくれてると思ってたんだけど…」
未来が振る舞うチョコレートは蔵馬が持ってきた不味い薬草の口直しとして、死々若丸も含め皆に大人気だったのに。
今まで無理をさせてしまっていたのだろうか?
しかし、彼がそんな気遣いをするような男だとは思えない。
「とにかく、その忌々しい菓子を二度とオレの前に持ってくるなよ」
苛々した口調で言い残し、立ち去ろうと死々若丸が背を向ける寸前、未来はある違和感に気づく。
「死々若、アゴ…」
ギクリとした感じで、未来に背中を向けた死々若丸の両肩が上がる。
「あっ!いや何でもないよ!」
違和感の正体を察し、デリカシーのない発言をしてしまったと申し訳なく思う未来が誤魔化すも、すでに肩をわなわなと怒りで震えさせていた死々若丸。
文句を言わねば気が済まんと、我慢できなくなった彼は未来の方を振り返った。
「貴様が毎日毎日試作だと言ってそいつを寄越してくるからだ!!!」
美青年の面影は全くなく、般若の顔をした死々若丸が叫ぶ。
彼のアゴには、ぷっくりと赤い吹き出物が鎮座していた。
「わ、わー、アゴにできるのは想われニキビなんだよ!死々若、やっぱりモテるね~。よっ、色男!ヒューヒュー」
死々若丸の気迫に押されつつ、彼の怒りを鎮めるべく煽てる作戦に出た未来。
しかしそれは逆効果で、全く悪びれる様子のない未来の態度に、ただでさえ短い死々若丸の堪忍袋の緒が切れる。
「許さんっ」
「ちょ、ストップストップ!!」
魔哭鳴斬剣を振りかざした死々若丸に追いかけまわされ、必死で逃げる未来。
その光景を、居候中の他五人は庭先から傍観していた。
「死々若の奴、信じられねえぜ。ちょっとニキビができたくらいであんな美味いもん食べないなんてよ」
ここ最近、日替わりで未来の作ってくれる生チョコやクッキー等のチョコレート菓子に喜び舌鼓を打っている酎が呟く。
ちなみに、ブランデー入りのトリュフが特に彼のお気に召したらしい。
「人生で初めてできたニキビに大きなショックを受けているんだろう…」
ニキビの一つや二つで死々若丸の美貌は損なわれないのにと内心思いつつ、彼に同情する鈴木である。
「チョコ食べてるとニキビが出きるんか?オレにはないべ?」
「陣。今の台詞、死々若の前では言ってやるなよ」
皮肉なくらいツルツルな陣の肌を横目で見つつ、忠告する凍矢。
「あーあ、飛影が羨ましいよなー!」
溜息まじりに大声で述べたのは鈴駒だ。
未来が連日バレンタインに向けての試作だと言ってお菓子作りに奮闘している理由を、彼らは何となく勘付いている。
「昨日メレンゲ?っつーもん作るの失敗しなくなったって未来が喜んでたべ」
きっと、いや絶対、飛影のためなのだ。
より美味しく上手くできたものを贈りたいという、未来の乙女心。
バレンタインデーは未来が飛影に会うため魔界に行く日であり、人間界では想い人にチョコレートを渡す日でもあるという。
「まさか未来が飛影に惚れてたとはなァ。オレのワイルドな魅力に気づくにはちーっとまだ青かったか」
「なんで飛影なのかな~。ここにオイラみたいなイケメンがいるのに!」
酎と鈴駒のぼやきに、陣や凍矢、鈴木はクスクスと笑っている。
「そろそろ未来助けてやるべ。可哀想だっちゃ」
「いや、その必要はないようだぞ」
死々若丸と鬼ごっこを続けている未来を不憫に思い提案した陣だったが、凍矢が指差す先には。
「うっるさいねえ!屋敷の中で走るんじゃないよ!」
死々若丸と未来が、幻海に雷を落とされ頭に拳をくらっている。
なんで私まで!?と不服な様子で涙目の未来だが、幻海からすれば屋敷内を走った時点で死々若丸と同罪らしい。
そんな光景に、ふっと口元が緩んでしまう五人だった。
***
バレンタインデー当日、未来はそわそわしながら軀の使い魔の到着をリビングで待っていた。
指定時刻の正午まで、まだ少し時間がある。
「未来ちゃん、お邪魔してるよ」
「静流さん!」
桑原より先に幻海邸を訪れたのは、姉の静流だった。
「その紙袋、飛影くんへの?」
「はい。何を渡すか迷ったけど、結局王道のガトーショコラにしました」
「いいね、本命っぽい!」
その通りなのだが、“本命”という言葉に照れてしまう未来。
(飛影、喜んでくれるといいな…)
お菓子作りの腕はこの二週間で以前より上がったと思うが、やはり緊張する。
「編み込みしてるし、なんか今日気合入れてない?すっごく可愛いよ!」
静流に褒められ、ヘアアレンジやメイク、服にいつもより気をつかってよかったと喜ぶ未来だったが。
「これで告白準備ばっちりだね!」
静流の次の発言に、しばらく固まった。
「こ、告白!?無理ですよ!」
飛影が自分のことを恋愛対象として見ているのかも分からないのに、再会していきなり告白だなんて芸当は未来には出来ない。
「あ、そうなの?てっきり告白する気満々なのかと思ってた。じゃあ今日なんて言ってチョコ渡すつもりだったの?」
「それは…」
飛影と再会したら、まず何を喋ったらいいのだろう。
今まで考えたことはあったが、答えが出てくることはなかった。
「実際、その場面にならないと分からないかもしれないです…胸がいっぱいで、何も言葉が出てこないかも」
未来の気持ちが分かるのか、静流はうんうんと頷いた後、一つこれだけは言っておこうと口を開く。
「飛影くんはどうせバレンタインなんて風習知らないだろうから、今日は好きな男の子にチョコを贈る日だってことはちゃんと伝えて渡さなきゃね!」
「それって告白したも同然じゃないですか!?」
「それでいいのよ。まずはアプローチして意識させなきゃ」
アドバイスにたじろぐ未来だったが、静流はしれっと言い切った。
「未来ちゃんが告るの無理なら、向こうにしてもらう必要があるしね。たしかに女としては、決定的な言葉は男側から言ってほしいしさ」
告白はするものではなくさせるもの、とは未来もよく耳にするフレーズである。
「未来ちゃんが好意匂わせてれば、飛影くんも男なんだし、そのうち気利かせて告白してくるって!大丈夫、だいぶ脈アリだと思うからさ」
「そうですかね…」
静流から太鼓判を押されるも、仲間として飛影に大事にされているとは思うが、恋愛対象としてはどうなのだろうか自信が持てない未来。
(まあ、静流さんの言う通りだよね。アピールしなきゃ何も始まらないもん)
とにかく飛影にまず意識してもらおうと、未来は決意する。
「そろそろ時間じゃない?カズも下に来る頃だし、外へ行こうか」
「はい!」
結界の中に使い魔は入れないため、待ち合わせ場所は幻海邸の外、長い石階段の下となっていた。
「ガトーショコラと…あとこれも持って行かなきゃ」
「それは?」
未来が手にしたもう一つの紙袋に、静流が視線を向ける。
「皿屋敷で美味しいって評判の羊羹です。招待してくれた軀への手土産に。妖怪の口に合うか分からないですけど」
「お、えらいね!あ、そうだ未来ちゃん」
呼び止められ、振り向いた未来。
「恋愛はタイミングだからね」
静流が告げた一言は、まるでこれから起きることを予期していたかのようだった。
***
見送りは幻海、蔵馬、静流の三人。
居候中の六人は結界の外へ出られないため留守番だ。
「用心して行ってきな」
「未来、桑原くん。気をつけて」
「カズ、あんたちゃんと未来ちゃんのボディーガードつとめんのよ!」
「おうよ!」
「了解です!」
参考書をつめたリュックを背負う桑原と、二つの紙袋を下げた未来が元気よく返事をする。
幻魔獣のような容姿をした軀の使い魔は、桑原が同行することに少し眉を顰めていたが、特に咎めることはなかった。
「行ってきまーす!」
使い魔が開けた魔界への穴へ、未来、そして桑原が続いて飛び込んだ。
***
時折雷鳴の光る暗く赤い空。
お世辞にも綺麗とは言えない景色なのに、どこか懐かしいと感じるのは未来に流れる闇撫の血のせいか。
仙水との戦いで来たあの日から、約九カ月ぶりに未来は魔界の地に降り立っていた。
「軀様の要塞まで案内します」
使い魔の後を、未来と桑原は並んで歩いていく。
「なんか今さらだけどすっごく緊張してきた…!」
「恐ろしい妖怪っつー話だが、言霊で呼ぶくらいだ、未来ちゃんのこと気に入ってるみてーだし大丈夫だろ!」
「じゃなくて!」
励ます桑原の勘違いを訂正する未来。
「飛影に会うのが、緊張するなって…」
俯きがちに言った未来の声と手は震えていて、頬には朱がさしていた。
初めて見る未来の顔に、桑原は拍子抜けする。
(こりゃ飛影の念願叶ったりなんじゃねーか?言霊受け取った時も飛影に会えるって嬉しそうだったし)
両想いの予感に抑えようとしてもニヤケてしまう桑原は、未来の下げた紙袋を見てピンときた。
「未来ちゃんが持ってるの、飛影へ渡すチョコか?」
「え!!?あっ…うん!はい、桑ちゃんにも!!」
ドキーッとした未来はあたふたしながら、誤魔化すようにトリュフの入った小さな包みを桑原に渡した。義理チョコ用に、飛影へのガトーショコラとは別に用意していたものだ。
「お、おう。サンキューな」
押し付けられたチョコと未来の反応に、驚きつつも受け取る桑原。
(ぜってー未来ちゃん飛影のこと好きだろ)
確信した桑原は、こっちが不安になるくらい緊張している様子の未来の背中を押そうと決意する。
「大丈夫だ!飛影のやつ、未来ちゃんのこと大好きだからよ!」
「だっ…!桑ちゃん、適当言ってない?」
「さあなー!」
飛影が悩んだように、未来もちょっとくらい悩めばいいのだと思いながら、ニンマリと笑う桑原だった。
「ん?何この音?」
ゴゴゴゴ…とこちらへ近づいてくる地響きに気づき、未来が辺りを見渡す。
「なんだありゃ!?」
「王蟲みたい…!」
現れた大きな百足型の移動式建物に圧倒される桑原と未来である。
「あれが我が軀軍の要塞、百足でございます」
百足は未来たちの前まで来ると動きを止め、腹部に取り付けられた脱出扉から妖怪を一人吐き出した。
「時雨様。連れて参りました」
「ここから先は、闇撫の娘のみ同行願う」
「ああ!?なんでだよ!?」
時雨、と使い魔から呼ばれたその妖怪に桑原は噛みつく。
「軀様の命令だからだ。人間が要塞内に入ると混乱を招く。使い魔と共にここで待機してもらう」
「でもなァ、」
「桑ちゃん。私は大丈夫だから、持ってきた参考書で勉強して待っててもらっていいよ」
ボディーガードとして来た桑原には飲めない要求だったが、勉強時間を削って受験前の彼について来てもらい、申し訳ない気持ちのあった未来はそう言った。
「…ま、中には飛影がいるし大丈夫か」
納得いかない様子の桑原だったが、しばらく思案した後、未来の言葉に甘える決断に至る。飛影がいる要塞内で、未来が危険な目にあうことはないだろう。
(二人っきりの再会邪魔しちゃ悪いしな)
実は、一番の理由はこれだ。
「心配には及ばん。希少な闇撫の娘に危害を加えるなど軀様のご意向に反する」
娘を丁重に扱うようにというのが、軀からの命令らしい。
「じゃあいってきます。桑ちゃんありがとう!」
「気ーつけてな!」
桑原に手を振り、未来は時雨と共に要塞内に足を踏み入れたのだった。
暗くじめっとした空気の要塞内を、未来は時雨について歩いていく。
(このどこかに飛影が…うわーっ緊張と嬉しさで心臓がもたない…)
ドキンドキンと胸の音がうるさくて、心臓が破裂しそうとはこのことだ。
「ここが軀様の部屋だ」
時雨に案内されたのは、要塞の奥、主の部屋にふさわしく物々しい扉の前だった。
「あの、飛影もこの中に…?」
「いや、闘技場の方だと思うが。飛影に急ぎの用か?」
「あ…いえ、渡したいものはあるんですけど、後で大丈夫です」
紙袋に視線を落として、未来は首を振った。
(一人で軀と会うのは緊張するけど、頑張ろう!)
てっきりすぐに飛影と会えるかと思いきや、軀の部屋に案内された未来は動揺したがそう思い直す。
時雨が去り、一人残された未来は深呼吸をすると、コンコンと扉をノックした。
「入れ」
言霊で聞いたのと同じ、中性的で少年のような声に従い扉を開けた未来。
「実際に会うのは初めてだな」
部屋の真ん中に置かれた大きなソファベッドに、三大妖怪として名を連ねる軀その人が座っていた。
(言霊で見た時も緊張したけど…)
細身な容姿に似つかわぬ、生の軀の放つオーラに圧倒された未来はごくりと生唾を飲み込んだ。
「初めまして、未来です。今日は呼んで頂いてありがとうございました」
「お前は飛影の友人だ、堅苦しいのはナシだぜ。いつも通りの喋り方で構わねェ。飛影もそうしているからな」
「え、でも…」
恐れ多くも軀のような強大な妖怪相手にフレンドリーに接していいのだろうかと、躊躇する未来。
「二度言わすなよ」
砕けた話し方をするよりも、軀の命に背き敬語を使い続ける方がもっと恐ろしいことになるのかもしれないと、そこで未来は悟った。
「じゃあ…今日は呼んでくれてありがとう。軀さん」
「軀、でいいぜ。招待しといて何だが、よくお前ここまで来る気になったな」
「飛影に会いたかったから。すっごく」
飛影を想っているのがありありと伝わる未来の瞳。それを、義眼の奥の軀が捉える。
「まあ座れよ」
軀は扉の近くにぽつんと置かれた椅子を顎でしゃくった。
「これ、人間界のお菓子を持ってきたの。口に合うといいんだけど…」
「ほォ。それは楽しみだ」
椅子に腰をかける前に未来が羊羹の入った紙袋を手渡すと、物珍しそうに軀は袋の中を覗く。
(第一関門突破…?)
無事受け取ってもらえて、ひとまずホッとした未来だったが。
「黄泉軍の妖狐とは仲良くしているのか?」
単刀直入なその問いに、和らいでいた緊張感が戻った。
軀と黄泉は、敵対する妖怪なのだ。
未来が黄泉軍に精通している可能性を、軀は容易に想像しているはずだと蔵馬も述べていた。
「普通に話すし仲良くしてるよ。でも黄泉軍の詳しい内情は蔵馬から聞いてないし、軀に不利な情報をここでもし得たとしても話すつもりはない。蔵馬も欲しがらないと思う」
「そう言えと黄泉に言われたか」
「違うよ!どうしたら信じてもらえるかな…」
困り顔の未来を見て、軀は頭部に巻かれた包帯の下で低く笑い出した。
「悪ィ、いじめ過ぎたな。まあ盗聴器の類も身に付けてねェようだし、オレの前で演技ができるようなタマにも見えねェ。お前らが組んでる線は薄いか」
ギョロッとした軀の右目が丹念に、隅々まで調べ上げるように未来の身体を上下に泳ぐ。
「高いリスクを冒してまでオレがお前を招待した理由が気になるか?」
問われ、素直に頷く未来。
蔵馬のそばにいて黄泉と繋がっている可能性のある未来を招待するなど、スパイを自ら呼び込むようなもの。
加えて黄泉と未来の間には何の義理も情もなく、人質としての体もなさない。
蔵馬も未来も軀の言動に疑問を持っていたが、いくら考えても納得のいく答えが出なかった。
「単純だ。飛影を殺した女のツラを一度拝んでみたかったからだ」
告げられた言葉の意味が飲み込めない。
混乱と衝撃に、しばし未来は息も忘れていた。
殺した女?
飛影を?
私が?
しばらく呆然としていた未来だったが、その瞳に生気が宿るや否や椅子から立ち上がり、軀に詰め寄る。
「飛影は!?飛影は生きてるの!?」
混乱する未来が一番に確かめたかったのは、他ならぬ飛影の安否だった。
「…生きてるぜ。下の闘技場で今も暴れてるはずだ」
「なんだ…よかった…」
安心して力が抜けた未来が胸を撫で下ろす。
「殺した女って…?」
「飛影は一度死にかけたんだ。お前が原因で」
「死にかけたって、飛影は大丈夫なの!?私、飛影に何かした!?」
「さっき言ったろ。今はピンピンしてる」
何も知らない未来の顔を見ていると、ふつふつと苛立ちが腹の底から湧きあがるのを軀は感じていた。
「飛影が無様で笑えてくるぜ。散々弄んだ挙句、お前はまた奴を振り回そうとする」
だから言うつもりのなかった事も、口に出してしまうのだ。
「どういうこと、」
「魔界はこれから大きく変わる。お前、いざという時に誰をとるんだ?飛影か?それとも妖狐か浦飯か」
遮り、強い口調で問いかけた軀。
嫌に感情的になってしまっている。
そう自覚しつつも止められない。
「私は中立だよ。でも、やっぱりいざとなったら飛影を贔屓しちゃうのかもしれない」
好きだから、と聞き取れないほど小さな声で付け加えた未来の言葉を、軀の耳はしかと拾っていた。
「ずいぶん曖昧な答えだな」
ここで未来が飛影の味方をすると断言していれば、軀を納得させていただろうか。
「言い寄ってきた妖狐にお前は簡単になびきそうだ」
「なっ…」
「別れ際のあれは随分と大胆だったな。ホイホイ誘いにのって、お前もまんざらじゃなかったろ」
頬にキスしたこと、蔵馬とデートしたことを言われていると察した未来の頬がカッと赤く染まる。
恥ずかしさ。居た堪れなさ。何故蔵馬とのことを軀が知っているのかという動揺。
諸々の感情に翻弄され、未来は二の句が継げなかった。
「お前、どうして元居た世界に一度帰ったんだ?」
「家族がいるから、だけど…」
飛影と記憶を共有し、未来の答えが分かっていながら軀は訊いた。
家族。
軀や飛影にとって、あまりにも現実感のなく縁遠い単語だった。
「飛影の過去を知っていて、奴に告げた答えがそれか」
未来は飛影の出生について聞いていない。
知っていながら、また軀が問う。
「飛影の過去…?」
「知らないなら平気で口にできたのも無理ねェな」
困惑し眉間の皺を深めた未来へ、白々しく意味深な台詞を吐いた軀。
そして、独り言のようにボソッと呟く。
「お前は知らないだろうな」
飛影の気持ちも知らないで。
どれだけ傷つけたか知らないで。
一度は他の存在を選んで奴の前から消えたくせに。
今さらになってお前は奴が好きだとほざく。
なんて虫が良い話なのだろう。本気ならそれ相応の覚悟を見せろと軀は言いたかった。
「知らなきゃ浮かれたツラ下げてここへ来れねェか」
「軀。私に言いたいことがあるならハッキリ言って、ちゃんと説明してほしいよ」
「ああ。ハッキリ分かりやすく言ってやろう」
ただ一方的に訳も分からず責められている状況に未来が不平を漏らすと。
「オレはお前が信用できない」
瞬間、未来は一切の動きを封じられた。
(え…!?)
全身の筋肉が硬直し、未来は喋ることも指一本動かすことも出来なくなった。これも軀の能力なのだろうか。
「飛影に会わせてやるよ。もうすぐここへ来るはずだ」
未来は全てを知るべきなのだ。
飛影の想いも過去も、全部。
知ってほしい。けれど自分から教えてやる気にはなれない。
「オレが外でまず話をつけてくる。せいぜい心の準備をしてろよ」
消化できない憤りを、軀は持て余している。
***
何日かぶりに飛影が闘技場の外へ出たのは、軀の部屋へ呼ばれたからだった。
百足を住処とするようになって以来の飛影の生活は、血沫と戦闘の二文字しかない。
ここ最近、以前よりもさらに、取り憑かれたように飛影は戦闘に狂い強くなろうともがいているように見えた。
「何の用だ」
主の部屋までたどり着いた飛影は、何故か扉の前で待っていた軀へ問いかける。
「未来が帰ってきたから呼んだに決まってるじゃねェか」
軀が述べた途端、飛影を纏う妖気が変わる。
「貴様、どういうつもりだ?」
飛影が放っているのは殺気だった。
「殺り合いたいなら付き合ってやるぜ」
立てた親指を肩の後ろに向けて指差し、飛影は闘技場へと降りる階段を示す。
自分の記憶を見た軀が、あろうことか未来が帰ってきたと嘘をつくなんて喧嘩を売っているとしか思えなかった。
「喜べよ、オレがお前のために未来を連れてきてやったんだぜ」
「…そんなに今ここで殺りたいか」
軀でなければかき消されていたかもしれない程の、灼熱の妖気をほとんど無意識に飛影は放出している。
対照的に、その声色は氷のようにひどく冷たい。
未来が帰ってくるはずがない。
それに、薄ら笑いを浮かべこちらをからかい面白がっているのが見て取れる軀の話を信じろという方が無理な話だった。
「悪かった、お前がそこまで怒るとは思わなかったぜ」
「くだらん用事でもうオレを呼びつけるなよ」
早々に嘘と見破られたためか、あっさり謝罪した軀を一瞥し踵を返す飛影。
「飛影。一つ聞かせろよ。お前、未来の動向が気にならないのか?」
遠ざかっていく飛影の背中へ、最後だと断り軀が訊ねる。
一連の軀の悪趣味な言動に、苛立ち無視しようかとも考えた飛影だったが。
「あいつが何をしようがオレには関係ない」
飛影の瞳は真っ直ぐで、そこに迷いはない。
残酷なくらい、キッパリ断言した彼だった。
「待たせたな」
飛影が去った後、扉を開け部屋へ戻った軀が棒立ちになっている少女へ声をかける。
「飛影を怒らせちまった。あいつはああなると手に負えねェ」
もうとっくに声も出せるし指も動かせるようになっていた。
けれど未来は動こうとしない。
いや、できないのだ。
軀の術よりもっと重いものに押しつぶされている。
「あの場で暴れられても困る。一度退いてもらったが、お前なら手なずけられるか?」
未来の白い顔をゆっくりと目でなぞり、軀は続ける。
「飛影に会いたいなら早く追いかけた方がいいぜ」
未来の手を引っぱると、扉の外へ追い出した軀。
その所作に手荒さは感じない。未来の力が抜けていたため、人形のように扱うことが出来ただけだった。
それから未来は立ち尽くしていたのか、歩いていたのか自分でも覚えていない。たったの数分が何十時間のように感じられた。
「なんでここに女がいるんだ!?」
「人間か?妖怪か?どっちの臭いもするぜ」
「どっから迷い込んだんだ?」
気づけば未来をぐるりと数人の妖怪が囲み、彼女の行く手を阻んでいる。
「こいつ目が死んでるよ」
「軀様に報告するか?」
「いや、とりあえずあっちにこいつ連れてって…」
百足にいると縁のない女の存在に、高揚する妖怪の一人が未来の手首をぐいっと掴んだ。
その衝撃で、持っていた紙袋が床に落ちるのを未来がうつろな目で追った時。
「その手を離せ」
「し、時雨様!」
軀の筆頭戦士の登場に、下っ端妖怪たちは肩を飛び上がらせる。
正確にいえばその座は飛影に譲られたため元筆頭戦士だが、確かな実力の保持者であることに変わりはない。
「時雨様への貢ぎ物でしたか!?失礼しました!」
時雨が訂正する間もなく、妖怪たちは我先にと蜘蛛の子を散らしていった。
「闇撫の娘?」
時雨に何度か呼びけられると、未来が今気づいたという感じで弾けるように彼の方を見上げた。
「やっと正気を取り戻したか。帰還の時間だと知らせに参った。この廊下を真っ直ぐ行った先が出入り口だからそこへ、」
時雨が言い終わる前に、助けてもらった礼を述べるのも忘れ未来は駆け出す。
聞き間違えるはずがない。
あれは全部、確かに飛影の声だった。
軀に呼ばれた理由がやっと分かった。
“あいつが何をしようがオレには関係ない”
あの言葉を、私に聞かせるためだったんだ。
何やら様子のおかしかった未来に首を捻る時雨だっだが、床に倒れている紙袋に気づく。
「これは…」
時雨の記憶が正しければ、飛影に渡すものがあると言って、未来が持っていた紙袋だった。
これがここに落ちているということは、未来は飛影と会えていないということだろうか。
飛影と会わすつもりがなかったのならば、闇撫の娘を呼びつけて軀は何がしたかったのか。
やはり、さっぱり主の考えが時雨には読めない。
(底の知れないお方だ)
もう何十回も思ったことを、時雨はまた腹の中で繰り返す。
後で処分しておこうと、紙袋を拾った時雨が百足内を歩いていると、一か月半前に自分を負かした邪眼師の少年とすれ違う。
(何か気に食わんことでもあったのか?)
飛影の放つ殺気に、時雨は眉を顰める。
「……飛影」
迷った末に時雨が呼ぶと、大儀そうに飛影が振り向く。
「何か用か」
その口調は用があるなら早く済ませろと急かしていた。
「これをやる」
明らかに機嫌が悪い飛影に怯まず、時雨が紙袋を押し付ける。
未来の訪問は、時雨と使い魔、軀だけの機密事項だ。飛影に伝えるのは軀の役目となっている。
「何だこれは?」
「自分で開けて確かめてみるがいい」
時雨には、軀の許可なしに未来の来訪を飛影に伝えてやる理由も義理もない。
けれどほんとうに気まぐれに、紙袋を受け取るはずだった本人に渡してやってもいいんじゃないかと思った。
己の気が変わる前に立ち去るべく、時雨は足早にその場を後にする。
不審な時雨の言動に眉を寄せた飛影だったが、とりあえず紙袋を下げたまま自室へ戻ることにした。
連日の戦闘で疲れており、早く眠りにつきたかったのだ。
自室に帰った飛影が紙袋を開けると、食べ物だろうか?中には茶色く甘いにおいのする円形のものが入っていた。
ぐ~っと腹の音が鳴る。
甘いにおいはひどく飛影の食欲を誘った。
野生育ちの飛影は何を食っても腹を下さない自信があり、欲するままにそれを食せば、口中にほろ苦い甘さが広がる。
疲弊した身体が癒され、溶かされていくような感覚だ。
しかし飲み込んでしまえば、何故か深い虚無感に襲われる。抗うようにまた一口、口に入れた。
どんなに求めても、もう絶対に手に入らない物を一時だけつかませて。
溶けるような幸せを味わわせたあと、あっけなく消えていく。
誰かのような食べ物だと飛影は思った。
胸に下げられた三つの氷泪石を見つめる。
もう氷泪石は飛影を満たしてはくれない。
けれど、こんな気分になった時に不意に飛影がしてしまうのは、長年染みついたこの仕草だった。