Ⅴ 蔵馬ルート
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✴︎105✴︎Maternal Love
「文化祭?来週あるんですか?」
シンガボール旅行から数週間が経った、十月のとある休日。
南野家にて未来は、蔵馬と彼の母の志保利と共に食卓を囲んでいた。
今日はたまたま畑中親子が不在で、寂しいから一緒にと志保利に誘われ晩御飯をご馳走になっているのだ。
「そうなのよ。あら秀一、話してなかったの?」
「ああ、そういえば」
「もう、抜けてるんだから」
思い出したような蔵馬の反応に、志保利が頬を膨らます。ごく普通の微笑ましい親子のやり取りだ。
「でね、その来週の文化祭に私も行こうと思っているから、未来ちゃんがよければ一緒に行かない?」
「わあ、嬉しいです!ぜひ!」
「まあ本当?ありがとう。私も未来ちゃんと行けるなんて嬉しいわ」
未来の返事に、志保利も顔を綻ばせて喜んだ。
「未来、本当にいいの?来ても構わないけど……うちのクラスの模擬店、フリマだし別に面白くも何ともないと思うよ」
心配そうに眉間に皺を寄せた蔵馬が、隣に座る未来に訊ねる。
自分の母親と二人で行くのは負担ではないか、断りにくかったのではという懸念もあった。
「行きたいよ!秀一くんの高校の文化祭だもん」
蔵馬の家族の前では彼を“秀一くん“と呼んでいる未来が、一点の迷いもないキラキラした瞳をして述べる。
一人で他校の文化祭へ行くのはちょっと緊張するし、気さくで優しい蔵馬の母からの誘いを断るなんて選択肢は微塵も浮かばなかった。
「安心しなさい、秀一。秀一の自由時間は未来ちゃんを解放してあげるから、二人でまわるといいわ」
「え、でもそしたら秀一くんのお母さんが……」
「私はママ友と合流するから大丈夫よ。遠慮しないで未来ちゃんは秀一と一緒にいてあげてね」
「……はい」
志保利の気遣いに、照れくさそうにはにかみ未来が頷く。
「でもせっかくのクラスの出し物がフリマだなんて、たしかに面白味ないわよね。お化け屋敷とかカフェとかもっと他になかったの?」
「受験近いし、オレのクラスやる気ないから」
「体育祭の時も同じようなこと言ってたわね……」
親子の会話の内容に、四次元屋敷戦前に“一番楽で暇そうだったから”と生物部への入部理由を語った蔵馬が思い出されて、箸の手を止めた未来がふっと口元を緩める。
「秀一くんにとってはクラスがそういう雰囲気で都合いいんじゃない?」
「まあね」
とてもじゃないが学校行事に熱を入れて取り組むタイプには見えない蔵馬へ揶揄うように未来が訊ねれば、彼も否定しなかった。
「生物部では何かしないの?」
「飼育してる魚の展示だけだよ。店番もいらない」
「じゃあけっこう秀一くん当日暇?」
「未来と一緒にまわる時間は十分取れると思うよ」
当初は自分の店番を済ませたらさっさと帰るつもりだった蔵馬だが、未来が来るなら話は別である。
「ほんと!またパンフ見せてね。どこまわるか考えなきゃ。楽しみだな〜!」
未来がここまで文化祭に興味を示すとは思わなかった。
意外な心境の蔵馬だったが、クラスの彼氏持ちの女子たちが心待ちにしていた様子を思い出すと腑に落ちる。
蔵馬にとって文化祭は特別なイベントでも何でもない、むしろ面倒な行事であり、未来へ話し誘うのをすっかり失念していた。忘れていたというより、考えにも及ばなかったといった方が正しい。
けれど、こんな風に自分の高校の文化祭を楽しみにして満面の笑顔をみせてくれる未来の姿を眺めていると、素直に嬉しいと思うし胸がぽかぽかとあたたかくなる。
はしゃぐ未来を可愛いなと思うと、蔵馬の口角も自然と上がっていった。
「オレも楽しみになったきたな。後で持ってくるよ」
そう言った通り夕食後、蔵馬は自室から文化祭のパンフレットを持ってきて。
ソファに座り仲睦まじく肩を寄せ合って一つのパンフレットを眺めている息子とその彼女を、キッチンから志保利は目を細めて見守っていたのだった。
***
「ふー。気持ちよかった」
文化祭の件で話が弾み長引いた食事を終え、蔵馬と一通りパンフレットを眺めると帰宅しようとした未来だったが、もう遅いから泊まっていきなさいと志保利に諭されお風呂を借りていた。
闇撫の能力で一瞬で帰宅可能なのだが、そんなことを志保利に説明するわけにはいかず、泊まったら?と蔵馬にもすすめられ大人しく厚意に甘えたのだ。
湯船から上がると、借りた蔵馬のスウェットに袖を通した。丈の余るそれは洗剤のいい匂いがして、いつも蔵馬が来ているものだと思うと、まるで彼に包まれてるみたいで未来の目尻が下がる。
身支度を整え髪を乾かすと、リビングにいた志保利に挨拶し二階の蔵馬の自室へ向かった。
「蔵馬、お先にお風呂ありがとう」
トントンと扉をノックして部屋に入ると、勉強机に頬杖をつき本を読んでいた蔵馬が顔を上げた。
「お母さんが次蔵馬早く入っちゃってって」
「わかった。未来、こっちおいで」
ちょいちょいと手招きすれば指示通り近づいてきた未来の身体を、彼女の腹部に手を回し、椅子に座った状態のまま蔵馬が引き寄せる。
「オレの服、やっぱ大きいね」
蔵馬を見下ろしているという、普段と違うシチュエーションに未来がドキドキしていると、スウェットの下へ侵入してきた手に胸が跳ねた。
「ちょ……」
「湯上がりの未来、そそられる」
「…っ……今日はしないよ?」
ちゅ、と口付けられ直に肌を撫でられて、焦る未来が小声で忠告する。今日は蔵馬の母親が在宅なのだから。
「未来、我慢できるの?」
「もーいーから!早くお風呂入ってきて!」
あまり遅いと志保利に不審がられてしまう。
未来は蔵馬の手を引っ張り立ち上がらせると、背中を押して強引に部屋から追い出した。
「…もー……」
はいはい、と言ってクスクス笑いながら階段を降りていった蔵馬を見送り、未来はポスっと力なくベッドに腰かける。
赤くなった頬の熱が冷めるのを待っていると、前触れもなくガタガタと部屋全体が揺れ始めた。
「うーちゃん?いいよ、おいで!」
突然の怪奇現象にも未来は全く動じない。自分のペットが挨拶伺いに来たのだと分かったからだ。
未来が呼びかけると、壁一面に裏女が現れた。
「うーちゃん、どうしたの?……そっか、散歩に飽きて暇だったから来たんだ。いいよ、一緒にお喋りしてよう。お風呂から蔵馬が上がったら三人で……」
闇撫の未来には、裏女が考えていることが手に取るように分かる。
裏女との会話に夢中になっていた未来は、階段を上がってくる足音に気づかなかった。蔵馬を追い出したままドアを開け放していたことも、迂闊だったとしかいえない。
「未来ちゃん、布団敷きましょうか」
ひょこっとドアから顔を出した志保利に、未来は心臓が止まるかと思った。
裏女は“マズい!”という表情になると、フッと壁から跡形もなく姿を消した。次元の狭間へ帰っていったのだろう。
絶対にあってはならないことが起きてしまった。
「あ、あの……」
情けないほどか細い声しか出てこない。
驚いたように眉を上げ、裏女が消えた壁を見つめている志保利を前に、窮地に追い込まれた未来はフリーズしていた。
一体どうすればいい。
志保利は完全に裏女を目撃していた。誤魔化せそうにはない。
まずは蔵馬に相談だ。御手洗戦後の沢村たちへ使用した、特定の記憶を消せる魔界の植物を早急に用意してもらおうか。
けれど蔵馬が風呂から出るまで、この場をどう取り繕えばいいのか。
「……大丈夫よ、未来ちゃん。秀一には黙ってるから」
顔面蒼白となっている未来へ、そっと志保利が話しかけた。
予想外に優しく落ち着いた声色に、未来は目を瞬く。
「今のこと、未来ちゃんも秀一には内緒ね。女同士の秘密よ」
口元で人差し指を立てて、悪戯っ子のように志保利は微笑んだ。
「未来ちゃんの布団、和室に敷いてくるわね。秀一の部屋ってわけにもいかないわよね。大事な他所様のお嬢さんお預かりしてるんだし」
「はい……あ、私やります!」
「いいのよ、未来ちゃんはゆっくりしててね。おやすみなさい」
未来の申し出を断り、志保利は部屋の戸を閉める。
一人になった後も、動転する未来の心臓はしばらくバクバクと鳴り続けていた。
***
一週間後。文化祭の日を迎えた盟王高校は、多くの来客で賑わいをみせていた。
喫茶店をやっている教室の前で足を止めた四十歳くらいの女性が、並んで歩いているセーラー服の少女の肩をちょいちょいと突く。
「未来ちゃん、ちょっと休憩しない?」
「そうですね、ここ入りましょうか!」
約束通り、志保利と共に文化祭へ訪れていた未来が同意し、喫茶へ入店する。
二人とも、先週のあの事件はなかったことのように互いに振る舞っていた。
(蔵馬のお母さん、うーちゃん見たことほんとはどう思ってるんだろう)
席に案内され、ホッと一息つくと未来は考える。
あの日、明らかにこの世のものではない奇怪な生物と会話していた息子の恋人の姿を目撃したというのに、あまりに肝の据わった志保利の対応に未来は意表を突かれ大きく動揺した。
今日まで志保利は裏女を目撃した摩訶不思議な体験について、未来へ言及することはなかった。
泊まった翌朝も、今日顔を合わせてからもあの件には一切触れず志保利は今までと変わらぬ態度を貫いており、かえって未来は困惑した。
自分から裏女の話を蒸し返す勇気がなかった未来も、志保利に合わせ普通の態度で接するよう努めている。
このまま有耶無耶にせず、志保利に真意を聞いたり蔵馬に相談なりしてちゃんと対処しなければならないと思ってはいるのだけれど。
結局、自分でもまだ信じられないあの一件を未来は蔵馬にも誰にも打ち明けられずにいる。蔵馬に動揺を悟られぬよう振る舞い、女同士の秘密と、志保利に言われたことを忠実に守っていた。
まさか蔵馬も、裏女と仲良さげにしている未来の姿を母親が目撃したとは夢にも思っていないだろう。
「それにしても、何度見ても未来ちゃんの制服姿は可愛いわね。もう半年もしないうちに見られなくなるなんて、今のうちに目に焼き付けておかないと」
「そうですか?……ありがとうございます」
セーラー服姿を志保利に褒められて、照れ隠しのように未来は給仕されたカップに口をつける。
蔵馬と互いに制服姿で校内を歩きたいと思い、この服を選んだのだ。
未来は世間に大々的に公表されていない通信制の高校に通っていると、以前蔵馬は志保利に説明したらしい。
本当のことを洗いざらい話すわけにはいかないので、そんな風に嘘を盛り込んで未来の経歴をざっくりと話したそうだ。
山奥の老婆の家に居候していたことといい訳アリ感満載だが、今まで一度たりとも未来の素性について志保利が根掘り葉掘り詮索してくることはなかった。
それは志保利が大らかな性格で、息子のことを信頼しているからだと未来は思っていた。
けれど裏女の一件を考えると、それだけではないのかもしれない。
「秀一の店番が終わるまでまだ時間あるわね。未来ちゃん、どこか行きたいとこある?」
「秀一くんのクラスには行かないんですか?」
「店番中に母親がのこのこ現れたら嫌だろうしね。未来ちゃんだけで後で行くといいわ」
秀一がクラスにいない時にこっそり行ってもいいけど、フリマだしあんまり興味わかないわよねえと志保利がごちる。
「じゃあ、この吹奏楽部の公演に行きたいです」
「いいわね、行きましょうか」
パンフレットを開いた未来が指したのは、吹奏楽部が体育館で行う二十分間ほどの小公演だった。
お茶を飲み終わると、二人は連れ立って喫茶店を出る。
(……私、蔵馬のお母さん好きだなあ)
体育館に向かう道中、志保利と他愛ない話をしながらしみじみと未来は思う。今日短い時間だけれど二人きりで過ごして、改めてそう感じた。
蔵馬の母親は、蔵馬と同じで優しくて。笑った顔が特に似ていて。
未来のことをすごく大切にしてくれているのだなというのが、ひしひしと彼女が紡ぐ言葉や行動の一つ一つから伝わるのだ。
志保利といると、その人柄が伝染していくみたいに、未来はいつもあたたかな気持ちになる。
(こんなお母さんだから蔵馬も変わったんだよね……)
極悪非道で残忍な性格だった昔の蔵馬を変えたのは、他ならぬ志保利の愛だ。
かつて蔵馬が彼女を救うためその命さえ投げ出そうとしたほどに、深い母子の絆が二人にはある。
蔵馬が慎重に守ってきたものを、自分が壊すようなことはあってはならない。
裏女の一件が頭を掠めて、未来はいっそう猛省し、志保利の真意を聞き出さなければならないと腹を括るのだった。
体育館に到着すると、周りに誰もいない後ろの方のポツンとした席に二人は腰をおろした。
まだ公演まで少し時間がある。意を決した未来は、あの、と震える声で志保利へ切り出した。
「話したいことがあるんです。この公演の後、時間もらえますか?」
裏女を目撃してもあんなにさっぱりとした反応だった志保利の真意を聞き出し、今後の対応を考えなければならない。
ごくりと生唾を飲み込み深刻な顔の未来とは対照的に、のんびりとした動作で志保利は首を傾げた。
「話って、この前秀一の部屋の壁にいた未来ちゃんの友達らしき子のこと?」
「は、はい」
あまりにあっけらかんと直球で問われて、未来は思わず素直に頷いていた。
「いいのよ、無理に話さなくて。大したことないんだから。もうこの話は終わりね」
「えっ……」
「代わりに私の話を聞いてくれる?」
強引に終了させられて、狼狽える未来だが志保利は気にせず自分の話を続けていく。
「秀一ってね、小さい頃から本当に手がかからなくて。子供らしいワガママの一つも聞いたことがなかったの」
ポツリポツリと、幼き日の息子を思い浮かべて志保利がこぼし始める。
駄々を捏ねて親を困らせたことなんか一度もないのよと、志保利が紡ぐ昔話に次第に未来も引き込まれ、黙って耳を傾けていた。
「親としては逆に心配でね。学校で特に仲の良い友達の話も聞いたことがなかったし。だから幽助くんと未来ちゃんがうちに遊びに来てくれた時、本当に嬉しかったのよ」
柔らかく細められる志保利の瞳。
未来と幽助が計り知れないくらい、志保利は二人に深く感謝しているのだ。
「未来ちゃんや幽助くんといる時の秀一、すごく肩の力が抜けてるっていうか、他のお友達といる時には見たことのない姿だったの」
未来と幽助は息子にとって、素を出し気を許せる特別な存在なのだと志保利は気づいていた。
「実はね、秀一がいつか私たちの前からフラッと消えてしまうんじゃないかと思ったことが何度かあって……けれど未来ちゃんと付き合ってからの秀一見てると、杞憂だなって思うようになったのよね」
だから今は心配してないわ、と気丈な笑みを浮かべて志保利は言った。
蔵馬が消えてしまいそうだと感じていたなんて。さりげなく吐露された志保利の隠されていた本音に、未来は息をのむ。
真相の全貌は掴めていないにしても、蔵馬が普通ではない世界に足を踏み入れていることに、彼女は薄々気づいているのかもしれない。
不治の病が一晩で全快したり、夏休みに一ヶ月の海外旅行をプレゼントしたり、急に何度か家を不在にしたり、蔵馬が上手いこと説明しているとはいえ違和感をおぼえていない方がおかしい。
それに、蔵馬がお腹にいた時から今までずっと志保利は彼と一緒にいるのだ。母の勘を侮ってはいけない。
「未来ちゃんさえよければ、これからもずっと秀一のそばにいてあげてね」
未来がただの人間ではないと気づいていながらも、志保利はそんなことを言ってくれる。
あたたかな眼差しを向けられて、未来の胸がキュウっと切ないくらい締め付けられた。
震えるほど嬉しくて、感極まった未来はしばらく返事ができなかったけれど……ゆっくりと、一言一言相手にしかと届けるように言葉を紡ぎ始める。
「そんな、私の方が頼みたいくらいで……!秀一くんさえよければ、ずっとそばにいさせてほしいと思っています。秀一くんが、大好きだから……」
しっかりと志保利の目を見て未来が言った。
秀一ったら幸せ者ね、と志保利が目尻を下げて笑う。
「これからもよろしくね、未来ちゃん」
「はい、こちらこそ」
ちょうど開演のブザーが鳴って、演奏が始まる。
くすぐったい幸せに浸りながら、瞼を閉じて心地よいクラシックやポップス曲のアレンジに未来は聴き入る。
もしもこの先、蔵馬が自分の全てを家族に明かす日がきたとしても、きっと志保利はそのままの蔵馬を受け入れて、蔵馬も変わらず彼女のそばで寄り添い続けるんだと思う。
確信する未来の心は雨上がりの雲ひとつない空みたいな晴れやかさで満ちていた。
女同士の秘密と約束した通り、訪れるかもしれないその時がくるまで蔵馬に一連のことは内緒にしていよう。
母の愛より偉大なものはないと感じたその日、未来は密やかに誓ったのだった。