Ⅴ 蔵馬ルート
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✴︎97✴︎Mazy Triangle
山頂の雪はとけ、頬を撫でる風は少し生ぬるい。
近づく春の気配を感じる三月初旬、幻海邸の一室で円卓を囲んだ二人は珍しく黙々と勉強に励んでいた。あと一月もすれば彼らは受験生なのだ。
(む〜。わからん……)
何度考えてみたところでサッパリだ。
数学の問題集と睨めっこしていた未来が、チラッと向かいの恋人を盗み見る。
傍らに問題集を広げ、未来には暗号のように見える数式を蔵馬はノートに書き込んでいた。
質問しようかと思ったが、集中しているようなのでやめておこうか。
思案していると、視線に気づき顔を上げた蔵馬と目が合う。
「どうかした?」
「うん。蔵馬先生に教えてもらいたい問題があって」
どれ?と促されて未来が示せば、さらさらとノートにペンを走らせながら蔵馬は解法を教えてくれた。
相槌を打ちつつ、未来はその端正な顔立ちに見入ってしまう。
蔵馬はいついかなる場面でも、切り取って一枚の絵画になりそうなくらい美しかった。
「未来、聞いてる?」
「ご、ごめん!もう一回お願いできる?」
「不真面目な生徒にはもう教えませんよ」
「次はちゃんと聞くから!」
しょうがないなあという感じで、クスッと微笑んだ蔵馬がもう一度説明を繰り返す。
今度こそ聞き逃すまいと、一生懸命に未来は彼の解説に集中した。
「なるほど!蔵馬、ありがとう!」
さすが蔵馬の説明は分かりやすい。
解法を理解した未来が、ぱあっと表情を輝かせ礼を述べる。
「未来、疲れてるんじゃない?そろそろ休憩しようか」
「うん!」
先ほど上の空だった彼女を気遣った蔵馬の提案に、未来も同意する。
だいぶ集中力も切れてきてしまっていた。
凝り固まった身体を伸びでもしてほぐそうと思った未来だが、ほんの少し動けば触れてしまう距離に蔵馬がいて胸が跳ねる。
熱心に解説を聞こうとして無意識に身を乗り出していたせいだと思い至り、未来の頬がうっすら桃色に染まった。
「わ、私、飲み物取ってくるね!」
「未来」
そんな未来の心情なんてお見通しなのか、立ち上がろうとした彼女の手を蔵馬が柔く掴む。
「それは後でオレも一緒に行くから、もう少しここにいませんか」
未来だって、勉強の間中触れられなかった彼の温もりに飢えていた。
本当は今すぐ蔵馬に抱きつきたかったけど、恥ずかしくて。
未来の手を握った方と反対の手で、蔵馬が彼女の髪に触れ耳にかけた。
それが合図みたいに、どちらからともなく二人の唇が重なる。
ドキドキして心臓が壊れちゃいそう。
甘やかな彼とのキスに酔いしれながら、夢心地で未来は考える。
「……未来。もう一度確認するけど」
唇を離すと、思いのほか真剣な眼差しで蔵馬に見つめられた。
「やっぱり今度黄泉に呼ばれたら行くつもりなの?」
ああ。またこの話か。
合点がいった未来が頷く。
「うん。だっていざとなったら黄泉から皆を守るって決めたし」
変わる気配のない未来の意志に、蔵馬が肩を落とす。
この前の幻海や陣たちとのやり取りで、すっかりやる気になってしまった彼女は強情だった。いくら止めたところで一人で魔界へ繋がる穴を開けてしまうだろう。
「蔵馬、大丈夫だよ!今度行く時は私のピンチにいつでも駆けつけるよう、うーちゃんをスタンバイさせておくから。黄泉は人間界には来れないんだから、逃げちゃえばこっちのものだよ」
あの日、我が物顔で未来の肩を抱いてきた黄泉。
今度会う時に黄泉は肩に触れるだけで済ます気はないと……その先まで見据えていたから、蔵馬はあんなに怒ったのかもしれない。
蔵馬を安心させようと、対策は万全だと未来は力説する。
「……オレが頼んだら、絶対にすぐに黄泉の手の届かないところへ逃げると約束できる?」
「うん、約束する」
頷いた未来を、腕の中に蔵馬が抱きしめた。
未来も彼の背中に手を回して、ぎゅっと抱擁に応える。
絶対に彼女を黄泉にも誰にも渡したくない。
しかし、黄泉がそう簡単に未来を諦めるとも思えなかった。
場合によっては黄泉と闘うことも避けられないかもしれないな。
覚悟する蔵馬が、未来を抱く腕の力を強める。
大切な人たちを守るためなら昔以上に非情にも強くもなれるし、命さえ懸けられる。
もう随分前から、迷いなく蔵馬は言い切れたから。
***
「黄泉ィー!聞こえっかコラァー!今から行くからお茶用意して待ってろォー!」
魔界の大地を揺るがすような無遠慮な大声に、玉座に悠然と腰をおろす国王が低く笑う。
彼の常任離れした聴力は、癌陀羅の片隅から放たれた敵国王の叫び声をしっかりと拾っていた。
「これから浦飯がここへ来るそうだ」
「む、雷禅が死んだのですかな!?」
「おそらくな」
「浦飯は何を企んで……」
訝しげに妖駄が眉を顰める。
口元に弧を描く黄泉は、これからの幽助の言動を楽しみにしているようだ。
「まず奴の出方を見るか。妖駄、玉露と菓子を用意し、門兵に彼を案内するよう伝えろ。その時浦飯の妖力値を計れ」
「は!」
「それから使い魔を人間界に行かせ、六人の兵士と蔵馬、未来さんを呼べ。これも王妃の仕事だと告げてな」
「承知しました」
王に長く仕えている妖駄は、流れるような動作でテキパキと命令された業務をこなすべく準備にかかる。
面白くなってきた。
ほくそ笑む黄泉が立ち上がった拍子、漆黒の長髪が揺れる。
応接間に向かう道中、考えるのは主にこれからの魔界のことだ。
おそらく軀も既に雷禅の死を知っているはずだ。
闘神の息子は何を狙っているのか。やはり和睦か。
それならこちらも手を打ちやすい。軀軍との一騎打ちで、彼らの戦力は使える。
あとは修羅の成長を待つばかり。
闇撫の能力も今後必ず役に立つだろう……。
思考の先に未来が現れて、黄泉の顔から笑みが消える。
彼女の闇撫の能力を軀との戦争でどう使うか。
幾度も考えてきたことだったが、明確な結論が出ないまま月日が経ってしまった。
あまりリスクの高い任務を強いて彼女を失いたくはない。
わきあがった思いに、戸惑ったのはもうかなり前な気がする。
婚約記念パーティーの際、蔵馬の存在を忘れ無我夢中になって未来を助けに向かおうとしたあの時から自分の中で何かが変わってしまった。
およそ理知的とは言い難い行動に愕然とした当時の心情を、昨日のことのように黄泉は思い出せる。
その後の、カッと頭が瞬時に沸騰するほど熱くなる記憶も。
“ねえ、蔵馬……大好き……”
ふいに脳裏をよぎった艶めく声色に、ドンッと黄泉が廊下の壁を叩いた衝撃でガラガラとその一部が崩れ落ちた。
数秒置いて、一際大きい雷鳴が城内に轟く。
この感情は、怒りか。それとも。
蔵馬へ愛を囁く未来の姿は、黄泉の心を大きくかき乱した。
消し去りたい記憶だと忌避する一方、彼女の声は麻薬のように甘美でもあり求めてしまう自分もいる。
そんな感情に狼狽え抗い、あの日からずっと未来と会うのを避けてきたが。
彼女が欲しいと渇望している己を認めると、黄泉は楽になった。
そして未来を癌陀羅へ呼び寄せ、蔵馬に宣戦布告したわけだ。
次にオレを呼ぶのは雷禅が死んだ時にしろという蔵馬の言葉通り、あれからおよそ一週間経つが今日まで黄泉は未来らとコンタクトをとろうとはしてはいない。
別に焦ることはない。ゆくゆくは必ず奴から彼女を奪う。
魔界の大国の王に君臨し、妖狐蔵馬をも凌ぐ妖力を誇る黄泉に恐れるものはない。
彼女や蔵馬のなんと扱いやすいことか。彼らにとって大切であるらしい者の安否をちらつかせれば、容易くこちらの意のままだ。
圧倒的な力。財産。名声。
それらを持った今の黄泉が欲して手に入らないものなどこの世に存在しなかった。
未来だって既に黄泉のものであるといっても過言ではない。彼女はこの国の王妃なのだから。
昔の己であれば逸る欲求のまま彼女を手篭めにし自滅していたかもしれない。
オレも本当に辛抱強くなったものだと、俯瞰する黄泉がニヤリと口角を上げる。
もうお前に未来は会わせられないとも蔵馬は言っていたが、王妃の仕事だと伝えれば必ず彼女は来る。
蔵馬の家族の命と引き換えに受けた職務故、無視はできない命令のはずだ。
加えて浦飯が来訪するともくれば彼女は落ち着いてはいられないだろう。
「くっくっく……あっはっは……!」
魔界全土を掌握する日も近い。
長年の夢を果たした先、隣にいる彼女を想像して思わず豪快に笑ってしまう。
何から何まで己に都合良く動く情勢に、ますます口元を緩ませる黄泉だった。
***
未来との勉強会から翌日。
雷禅の死の報告を受けた蔵馬は、使い魔に連れられ癌陀羅を訪れていた。
「あ、蔵馬!」
通された和室には既に陣たち六人と共に未来の姿もあり、蔵馬が小さく息を吐く。
「未来、やっぱり来たのか」
「蔵馬、心配しすぎ!私だってそれなりに強くなったんだよ」
闇撫である未来には拘束や監禁といった類の手は無効だし、万一自分で次元の穴を開けられない状況に陥っても裏女が助けてくれる。
主人の言いつけを守り次元の狭間で待機している裏女の気配を、闇撫の未来はハッキリ感じとっていた。
「本当に頼むよ」
懇願するように告げた蔵馬の真剣な瞳に、自分たちを取り巻く緊迫した情勢を感じ未来は射すくめられた。
黄泉への警戒は緩めてはならないと、改めて気を引き締める。
「それにしても、浦飯のヤツ何を考えてるんだろうな」
鈴駒の台詞に、うーんと陣たちが首を捻る。
幽助の返答次第で一気に魔界が全面戦争に突入する今、彼は何を目的に黄泉の元へ訪れるのか。
「それはわかんねーけど、オレあいつと会うの楽しみだべ!」
「早く顔が見てぇな!」
ワクワクがおさまらない陣と酎を、凍矢や鈴木が目を細めて眺めていた。
死々若丸だけは相変わらずの仏頂面であったが。
「私もすっごく楽しみ」
最後に幽助と会ってから、もう随分時が経つ。
当時は今生の別れと思われたが、また彼との再会が叶う喜びを未来は噛み締める。
「全員揃ったな」
ガラッと開いた襖から妖駄が顔を覗かせ、ぐるりと八人を見回した。
ズンズン歩いて部屋の中央に立つと、和やかな雰囲気の彼らの間に割って入る。
「未来以外の七名は隣の部屋で待機せよ。黄泉様が出て来いと命じるまで襖を開けるでないぞ。場合によっては浦飯の処刑命令を出す」
不穏な妖駄の台詞に、ピリリと場の空気が引き締まる。
絶対に幽助を殺させはしないと、決意する未来がぎゅっと唇を真一文字に結んだ。
(幽助も、皆も絶対に守る!)
そのために未来は今日この場へ訪れたのだ。
「未来はこのままここに残って王妃として黄泉様と共に浦飯を迎えるのじゃ」
妖駄に命じられた通り、応接間に残った未来は隣の部屋へ移る蔵馬たちを見送る。
「危険を感じればすぐに逃げ出して」
去り際耳打ちされた恋人からの言葉に、こくりと未来は頷いた。
ピシャリと隣の部屋の襖が閉められ、妖駄によって七人の妖力を隠すための結界が張られる。
「む、浦飯たちが来たようじゃな」
「幽助、久しぶり!」
近づく足音を廊下から妖駄が拾って間もなく、雷禅の国の者であろうつるりとした丸頭の男を横に伴い現れた、懐かしい仲間の姿に未来が破顔した。
「未来!?黄泉と婚約したってホントだったのかよ!?すげー玉の輿じゃねーか!」
しかし、開口一番の幽助の台詞に興が削がれた。
「それ嘘だよ、あくまで偽の妃だから!」
「未来、何をたわけたことを言っておる!」
トップシークレットをあっさり敵国の長にバラしてしまう未来を、冷や汗飛ばす妖駄が叱責する。
「未来の噂を聞いた時は腰抜かしたぜ。オメーもなかなかやるな。黄泉ってそんなに色男なのかよ?それとも遺産目当てか?」
「ちょっと、人の話聞いて!?」
湿っぽい再会は二人には似合わない。
久方ぶりに顔を合わしたというのに、相変わらずの幽助と未来だ。
「これ浦飯、未来は我が国の妃じゃぞ!口の利き方を慎め!」
耳にタコができるくらい未来が聞かされてきた台詞を、今度は幽助へ妖駄が繰り返す。
状況に全くついていけていない幽助の側近・北神は何も口を挟めずオロオロとしている。
「いやー、まさか未来が三大妖怪の一人をオトすとはなあ」
「だから違うって!第一、私が好きなのは蔵馬だもん!」
必死になって否定する様子が面白くて未来をからかっていた幽助だが、予想外の名前が彼女の口から飛び出し目を瞬く。
黄泉との婚約には何か事情があるのだろうとは思っていたが、仲間内での惚れた腫れたなんて寝耳に水の話だ。
「蔵馬ぁ!?……はーん、さてはオメー、蔵馬に会いにこっち戻ってきたな?一体どうやったんだよ?」
幽助の問いに口を開きかけた未来の背後で、ガラリとまた襖が音をたてた。
「盛り上がっているところ悪いが、さっそく用件を聞きたい」
「ほれ、お喋りはそこまでじゃ!」
妖駄に叱られ、渋々未来は幽助との会話を中断して黄泉の隣に腰をおろした。机を挟んで向かいには、幽助と北神が座っている。
茶を給仕した後、ペコリとお辞儀し妖駄は退室していった。
(黄泉が私のこと好きって、ほんとに……?)
どうにも信じられなくて、隣の男へ探るような視線を向ける。
蔵馬への執着心が黄泉に先日のような発言をさせたと未来は思えてならなかった。
「率直に言っていただこう。バカしあいは苦手でね」
どの口が言うのだと、思わず半目になった未来が心の中でごちる。
「雷禅が死んだ。そんでオレが国王になっちまったんでその挨拶と、この目で敵の大将を見ておきたくてな」
「ほう……ではさっそくの機会だ。私の願いを聞いてもらえるかな」
本音と建前の使い分けなど知らぬ正直すぎる物言いに、戦闘体制に入った黄泉の妖気を肌で感じて未来は身構える。
隣室で待機する蔵馬たちにも緊張がはしった。
「その前に土産があるんだ。受け取ってくれや」
傍らから大きな風呂敷袋を持ち出し、ドンと机の上に置いた幽助。
黄泉から殺気が消え、張り詰めた空気が幾分柔らかくなった。
「それはありがたい。開けてみてくれないか」
「ちょっと散らかるが構わねーよな」
同盟和議に持ち込もうという算段かと、黄泉が唇の端で小さく笑う。
幽助が風呂敷の紐をといた瞬間、ジャララとけたたましい音を立てて色とりどりのビー玉大の小石があふれ出し部屋中に散らばった。
「わあ、綺麗。幽助、これ宝石なの?」
「瑠璃丸って石だ。魔界でも一部の地域でしか採掘されねーらしいぜ」
煌めく小石の美しさに魅入る未来へ、簡単に幽助が説明する。
「これはこれは高価な品をかたじけない。うむ、この手触り正真正銘の瑠璃丸」
「飛影……?」
黄泉に続いて瑠璃丸を一つ摘んだ未来が、まじまじと小石を見つめて呟いた。
目を凝らせば、座敷に散らばった他の石にも妖怪の名前らしき文字が刻まれている。中には蔵馬や陣、死々若丸といった未来の見知った仲間たちの名前もあった。
「全部の石に名前を彫ってあるの!?」
「これは抽選のクジの代わりだ」
「国宝石にキズをオォー!?あんたなんばすっとねー!」
ずっと固唾を飲んで見守っていた北神が、正気の沙汰とは思えない主君の凶行に取り乱す。
怪しくなってきた雲行きに、黄泉が眉間に皺を寄せた。
「ただのケンカしようぜ。国なんか抜きでよ」
国家解散し、皆がただの一人に戻る。
くじで組み合わせを決めてトーナメント形式で試合を行う。
最後まで勝ち残った者が大将!
幽助が黄泉に提案したのは、なんともシンプルで分かりやすい、魔界統一トーナメントの開催だった。
どこまでも真っ直ぐで型破りな彼らしい考えに、みるみる未来の口角が上がっていく。
「幽助、それ最高!」
これで三竦みの諍いから幽助や蔵馬、飛影、そして自分も解放される。
敵陣営に所属する戦士としてではなく、トーナメント出場の合意の元に一個人に戻って彼らが闘うなら大歓迎だ。
悪いようにはならないと信じた予感はやはり当たっていたと、未来の胸に熱いものが込み上げる。
「雷禅が死んで色々考えてみたがオレはバカだから国の頭なんて器じゃねぇ。だから自分のやりたいようにすることにした」
未来の言っていた三人のバカのうち、一人はこの男か。
確信した黄泉が憤る。
「そんなバカな案に応じると思うか!?」
「のった」
隣の部屋の襖が開けられて、ひょっこりと顔を出したのは酎だった。
「あー!オメーら何でェ!?」
「みんなで幻海師範のうちで修行してたんだよね!」
続いて現れた蔵馬、陣、凍矢、鈴駒、鈴木、死々若丸といった懐かしい面々の登場に目を丸くする幽助へ、目尻を下げた未来が言う。
「相変わらず突拍子もねーこと考える奴だっちゃ!」
「よォォ陣!元気かよ!?」
酎や陣と肩を組み、再会を喜び合う幽助。
親しい様子の彼らに、武術会での浦飯幽助への雪辱を果たすべく六人は鍛錬しているという蔵馬の言葉は名目上のものだったのだと黄泉は理解した。
「黄泉……悪いが今からオレはただの蔵馬だ。ただし幽助の案にお前が応じなければこの場でオレたちは幽助につく」
無情にも黄泉を切り捨てた蔵馬。
それでこそ己が認めた妖狐蔵馬だと、平時の黄泉なら不敵に笑えていただろうか。
しかし、今の彼にそんな余裕は残されていなかった。
「蔵馬、貴様ッ……」
「黄泉さんやめて!」
この場で全員殺してやろうか。
みなぎる妖力を爆発させんと立ち上がった黄泉だったが、必死な未来の声に動きを止める。
今ここで戦闘を始めれば十中八九彼女を巻き込み傷つけてしまうだろう。
「よ、黄泉様!軀の本隊接近中との報告が!」
黄泉の表情に迷いが浮かんだ最中、ドタドタと廊下から足音を鳴らし息を切らした妖駄が部屋へ飛び込んできた。
「しかもたった今、浦飯の案に同意し国家解散するという声明を奴は発表しました!」
「何!?確かか妖駄!」
「は、はい……」
「大丈夫?」
想定外の伝達に、黄泉の声が裏返る。
ゼーハー肩で息をして今にもポックリ逝ってしまいそうな妖駄に、未来が机にあった手付かずの湯呑みを渡してやる。
「高速で城へ近づく軀軍の要塞を偵察隊が発見し、黄泉様へ急いでご報告した次第です!」
「しばらく休んでた方がいいよ」
ぐいっと未来から受け取った冷めた茶を飲み干し、妖駄が一気に述べる。
何千年ぶりかの全力疾走にフラフラな妖駄を未来は気遣い、座布団に横になるよう促した。
城内に忍び込んだ軀の盗聴虫の存在に気づきつつ泳がしていたが、まさか本人もお出ましとは。
しかもあのバカげた浦飯の提案に賛成だという。
この場で蔵馬たち八人を皆殺しにすることも可能だが、著しい妖力の消費は必至。
その状態で軀に攻め込まれては終わりだと、黄泉は苦虫を噛み潰したような顔でギリリと奥歯を噛んだ。
「……分かった。トーナメント開催の案に従おう。我が軍も今をもって解散とする」
「黄泉様……!」
この状況で黄泉に他の選択肢は残されていなかった。
軀に並んで国家解散を決断した主君の苦々しげな顔をぼやける視界でとらえながら、ガックリと妖駄が項垂れる。
「ってことは、王妃のフリもこれで終わりだよね!?」
「国がなくなるのだからそうじゃな……」
すっかり気落ちしている妖駄は思わず未来に頷いてしまい、ハッとして恐る恐る主君の顔色を窺った。
「……くそ」
「あ、ちょっと!」
未来の発言に返事をすることなく、黄泉は一人足取り荒く部屋を出て行ってしまう。
己の失言を猛烈に後悔する妖駄は、さらに機嫌を損ねた様子の黄泉の姿に追い討ちをかけられパタリと座布団に倒れた。
「未来、黄泉を追いかけるのか?」
黄泉に続いて部屋を出ようとした未来の腕をすかさず蔵馬が掴み、引き止めた。
「王妃のフリは終わりって言質をちゃんと黄泉からとっておきたいし……」
言いながら、久々の再会にわいている幽助たちを未来は横目で見やる。
黄泉の不機嫌などどこ吹く風で、何やらゲラゲラ笑って彼らは盛り上がっていた。
「黄泉、相当怒ってるよ。このまま放置したらマズい気がする。失うものがなくなった人って、何し出すか分からなくて怖いよ」
黄泉の鬱憤を晴らす手助けをここでしないと、あとあと自分たちにとって悪い方に転ぶ気がする。
そんな予感に駆られた未来は、彼と対話する道を選ぼうとしていた。
「そんな状態の黄泉に近づくのか」
「ちょっと話すだけ。ヤバそうだったらすぐに逃げる!蔵馬はここで待ってて」
「未来!」
危険な状態の黄泉に自ら接近するなど言語道断だと、咎める蔵馬の制止を振り切り未来は駆け出した。
彼女の真摯な思いを感じ取った蔵馬は、複雑げな表情で唇を噛む。
先ほど正面きって反旗を翻した蔵馬を伴えば、怒りに燃える黄泉を刺激し火に油を注いでしまうだろう。
未来が単身縁側へ降りると、中庭の片隅にある池のそばで佇んでいる黄泉を見つけた。
近づいてくる未来の妖気を感じ、呼ぶ手間が省けたと黄泉は思う。
ちょうど彼女に話したいことがあった。
「王妃のフリはこれで終了ってことでいいんだよね?」
黄泉を警戒する未来は彼と一定の距離を置いたところで歩みを止め、おもむろにその背中へ話しかけた。
「妖駄の言う通りそうなるな」
振り向かぬまま応えた黄泉の顔が、うっすら池の水面に映っている。
自嘲的な笑みを携えた表情に、自暴自棄になる寸前の危うさが垣間見えて未来は生唾を飲み込んだ。
事実、気を抜くと怒りに身が支配されそうになる衝動を黄泉はぐっと堪えている。
未来が来なかったら、周りの物も人も手当たり次第破壊していたかもしれない。
「……幽助の案、気に入らなかった?」
「ああ。実にバカな案だ」
何百年もかけて黄泉が築いてきた大国を手放せと言われたのだ。思案する間もなく賛同した軀の方がどうかしている。
加えて、未来を見守るようにこちらを窺う蔵馬の妖気がまた黄泉を苛立たせた。
黄泉は蔵馬の謀反にあった形だが、千年前とは状況が違う。
裏切られたと感じるほど、はなから蔵馬を信用していなかったじゃないかと黄泉の頭の冷静な部分が告げる。
蔵馬との主従関係は彼の家族を盾にし脅迫することで成り立っていたのだから。
しかし、王妃として繋ぎ止めていた未来が今後は名実ともに完全に蔵馬のものになるのだと思うと、黄泉の眼前を赤で染めた。
「黄泉さん。幽助は、」
「未来さん。もう蔵馬とは一切会うな」
油断すると聞き逃してしまいそうな早口で告げた黄泉。
会話の流れから不自然な、唐突な発言に未来は息を止めた。
「オレのものになると誓え」
カッと光った雷が、こちらを振り返った黄泉の不気味なくらい感情のない顔を照らし出す。
遅れてゴロゴロとなった大きな雷鳴音が、二人の間にしばしの沈黙を作った。
「この前からなんなの?そんな命令きけるわけないでしょ。もう私は王妃でもなんでもないし」
「これは国王命令ではない。ただの黄泉として言っている」
努めて冷静に返した未来の台詞を遮り黄泉が述べる。
先日のようにまた黄泉が無理な命令を突きつけてくるのではないかとは危惧していた。
想定内の展開とはいえ、未来は手にじとりと嫌な汗をかく。
「どうしてそんなこと……」
「国を失ったオレに妻まで失えと言うのか?」
莫大な労力と大金をかけ築いた国を手放す羽目になり、二度目の蔵馬の裏切りにあった黄泉。
未来とて同情の気持ちがわかないわけではないが、到底諾と言える要求ではなかった。
「断れば蔵馬を殺すぞ」
未来が最も恐れていた台詞を、残酷にも黄泉は言い放つ。
妖気にも表情にも変化がない。
黄泉は本気だ。
「闇撫の能力を使って蔵馬と二人で逃げるか。ならば今度は妖駄でも人質にするか」
だいぶ奴への情がわいてきた頃だろう、と初めて黄泉が薄く笑う。
妖駄がダメなら浦飯でも六人の兵の誰かでも、人質にする人材は豊富に揃っていた。
バクバクと早鐘を打つ心音が、きっと黄泉にも伝わってしまっている。
けれど未来は自分を脅迫し従わせようとする大妖怪を、目線を逸らし怯むことなくじっと見つめていた。
「未来さんが今後一切蔵馬との交流を断ちオレの元へくるなら、オレはもう蔵馬を含め君の大切な者を誰も傷つけないと約束しよう」
未来が欲しい。
蔵馬から奪ってやりたい。
国も地位も失い、蔵馬の謀反にあった黄泉はそんな性急な思いに駆られていた。
「本当は今すぐにでも蔵馬を殺してやりたい気分だが、未来さんがオレのものになるなら見逃すと言っているんだ。悪い話じゃないだろう」
「……私が黄泉さんのものになったら、それであなたの気が晴れるの?」
「ああ」
頷いた黄泉の背後で、ピカッとまた雷が光る。
“いざという時は、私が蔵馬や幽助や、飛影や皆を黄泉から守ってみせるよ!”
轟く雷鳴音に身を竦ませながら、未来は先日の己の発言を反芻していた。