Ⅴ 蔵馬ルート
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✴︎96✴︎横恋慕
「未来〜。また蔵馬のこと考えてるでしょ」
ズバリ指摘され我にかえれば、ジト目の鈴駒がこちらを見ていた。
皆で夕食を囲む中、気づけば箸が止まってしまっていたようだ。
「えっ。いや、そんなことは……あるような」
今日も蔵馬はかっこよかったなと、ぽやんと彼のことを考え惚けていたのは事実であり、しどろもどろになる未来。
無事恋人同士になってからほぼ毎日二人は会っており、今日とて例外ではなかった。
「もう未来はオイラたちのことなんかどうでもいいんだ!この前のバレンタインも明らかに蔵馬へのチョコの方が格上だったしさ!」
わっと半泣きで机に突っ伏してしまった鈴駒が喚く。
先日のバレンタインデー、蔵馬へはきちんとラッピングされた手作りガトーショコラが用意されていたが、鈴駒たちは市販の板チョコをただ溶かして固めたやつを皿にドンと置かれ渡されたのだった。
蔵馬は未来にあーんしてもらってイチャつきながら食べたのだろうなと想像すると、悲しみは一層であったと鈴駒は回想する。
「どうでもよくはないよ!?」
「まあまあ、寂しいのは分かるが拗ねるな鈴駒。オレたちの分まで作ってくれて未来は優しいじゃないか!」
「美味かったしな!」
オロオロする未来を見かね、鈴木と酎が助け船を出した。
「んだべ鈴駒。未来困らせるんじゃねーっちゃ」
「そうだぞ。贅沢言うな」
陣も凍矢も鈴駒を窘め、まるで弟を諭すお兄ちゃんの図だ。
「なんだよ皆して!オイラの味方は死々若だけかよ!」
「おい。勝手に仲間にするな」
わざわざ口には出さなかったが、死々若丸も彼氏を特別扱いするのは当然だろうという価値観でいる。
本命と義理が全く同じチョコであれば、蔵馬が気の毒というものだ。
「ごめんね鈴駒。またガトーショコラ作るから」
「ホント!?約束だよ未来!ありがとう!」
「お前、ガトーショコラが食べたかっただけか?」
コロッと態度を一転させ未来に擦り寄る鈴駒に、呆れ顔の凍矢がツッコみドッと場に笑いが起きる。
「それにしても、未来は蔵馬と付き合ってすごく幸せそうだな!」
蔵馬と恋人同士になってから、ふわふわと周りに花が舞いそうなくらい未来は幸せオーラに包まれていた。
弟子の表情が明るくなってよかったと、師匠の鈴木も嬉しそうである。
そして、こんなに一心に未来に想われている蔵馬が羨ましいなあなんて、皆がちょっと思っていたりもする。
「あたしも二人がくっついて本当によかったと思ってるよ」
「師範……!」
「これで未来の面倒は全部蔵馬に押し付けられるってものだ。どうせならチンタラせずさっさとくっついてほしかったね」
じーんと感激したのも束の間、ガクッと肩を落とした未来を気にせず幻海は続ける。
「ようやくあんたがこっちに戻ってきたと思ったら変な妖怪に寄生されて、それが解決したら今度は痴話喧嘩したっていうじゃないか。焦れったいったらありゃしなかったよ」
「すみません……」
相当な苛立ちを感じていたらしい幻海に、申し訳なくなった未来が肩身を狭そうにして謝る。
「ま、蔵馬になら安心してあんたを任せられるね」
最近の幸せそうな未来の姿は、蔵馬に大事にされているのだろうと一目で分かるものだった。
優しく見守るような微笑みを向けられて、じんわり未来の胸があたたかくなる。
「それで、あんたを偽の妃に仕立て上げたっていう黄泉はあれから何の音沙汰もないのかい?」
「それが、ついさっき癌陀羅から使い魔が来たんです。明日重要な会議があるから私に参加してほしいって」
婚約記念パーティーから一ヶ月近くも無言を貫いていた黄泉だが、今日になって使い魔を寄越したのだ。
もしかして雷禅の死が近いのだろうかと、凍矢たちはざわついている。
「へえ。こうも黄泉の動きがないってのも不気味だったけど、何か企んでんじゃないだろうね」
「不気味って……ただ単に私に用がなかっただけだと思いますよ?」
幻海は勘繰りすぎではないかと思う未来だ。
婚約記念パーティーを開き、闇撫を戦力として得たことを広めるという黄泉の目的は果たせたはずだ。
来たる軀との一騎打ちまでは、黄泉は未来の闇撫の能力を使おうと考えてはいないようだった。
「まあ、十分気をつけて行っておいで」
危なっかしいところもある孫娘へ、幻海は助言したのだった。
***
『黄泉に呼び出された?』
電話口から聞こえたやや棘のある声に、そうなの、と未来が頷く。
「蔵馬のとこへは使い魔は来てないの?」
風呂上がり、パジャマ姿の未来は子機を使い自室で蔵馬と電話していた。
『来てないよ』
「え、不思議だね。重要な会議なら私より軍事総長の蔵馬を呼ぶべきなのに」
そのよく回る頭で何か考えているのか、蔵馬はしばらく無言のままだった。
『明日何時に来いって?』
「一時から会議だからそれに間に合うようにって」
『オレも行くよ』
「蔵馬、学校は!?」
『適当な理由つけて早退する』
迷いない口調で蔵馬が言い切り、未来に申し訳なさが募る。
「別に私一人で大丈夫だよ?妖駄さんの講義のために何回も一人で行ってたし、わざわざ蔵馬が授業休まなくても」
『オレが嫌なんだよ』
どう説得しても揺るぎそうにない、固い意志を感じる言い方だった。
もう少し信頼してほしいものだが、心配するのも無理ないかとも未来は思う。
「蔵馬、ごめんね。これも王妃の役目の一つなら、行かなきゃって思うから……」
代償としてまた蔵馬の家族が脅かされるようなことがあったらと思うと、未来はとても黄泉の命令を無視する気にはなれなかった。
そんな彼女の気持ちを蔵馬もよく分かっていたから、謝る必要はないと述べる。
『未来が気にすることじゃないよ。オレが未来を一人で行かせたくないから勝手についていくだけだ』
黄泉と偽装結婚の密約を交わした一連の未来の単独行動を、喧嘩別れのようになったあの日以来蔵馬が責めたことはなかった。
『それに、もう未来に王妃のフリをさせるのはやめろと黄泉にオレは言わなきゃならないからね』
今度は妖駄に伝言を頼む形ではなく、本人に直接だ。
たとえフリであっても、未来が黄泉の妃として振る舞うなどこれ以上蔵馬は耐えられなかった。
「ありがとう。さっきはああ言ったけど、蔵馬が一緒に来てくれるのは心強いよ」
蔵馬の優しさが、じんと未来の身に染み渡る。
「明日は闇撫の能力で穴を開けて、私が蔵馬を迎えに行くよ。どこに行けばいい?」
『高校の屋上に来れるか?時間は……』
明日の計画を立てていると、ふふっと唐突に未来が笑い声を漏らした。
『どうしたの?』
「なんか、こうやって寝る前に蔵馬と電話するのいいなって思って」
蔵馬の声を聴くだけで、愛しさで心あふれ満たされていく。
抱きしめられた時の彼の体温を思い出し、未来の胸が甘く疼いた。
「でも声聴いてると、蔵馬が恋しくなっちゃうね」
『じゃあ今からうちに来る?』
思いがけない誘いに、無邪気に笑っていた未来が息を止めた。
『未来の能力ならすぐにここへ来れるでしょ』
「あ……うん。たしかに」
蔵馬が腰をかけたのだろうか、電話口の向こうからギシ、とベッドが軋む音がした。
さらりと提案した蔵馬の平静さと反対に、未来の心臓はドキドキと早鐘を打つ。
たしかに未来は今すぐ蔵馬の部屋へ繋がる穴を開けて、彼に会いに行くことが可能だけれど。
「けど急に私が蔵馬の部屋に現れて、お母さんたちにバレたらびっくりさせちゃうよ?」
『気づかれないようにする方法なんていくらでもあるよ』
蔵馬なら何かしらの植物を操って簡単に出来ちゃうだろうなと思えて、未来が言葉に詰まる。
「そっか……」
『うん』
しばし無音の時間が流れる。
とても魅力的な誘いではある。
しかし風呂上がり、眠る前の時間に蔵馬の部屋へ行って果たしてただ一緒にいるだけですむのだろうか。
「で、でも、やっぱりおうちの人に内緒で夜に上がり込むのは気が引けるからやめとくよ!」
『まあ、未来は気にするだろうね』
未来の返答が読めていたのか、見透かしたみたいに蔵馬が言った。
『じゃあオレを未来の部屋に連れてきてもらおうかな』
「い、いやこっちにも陣たちいるし!師範とか絶対気づきそうだからさ!」
テンパる未来の反応が可笑しいらしく、クスクス蔵馬は笑っている。
「あー!蔵馬、からかったね!?」
『いや、オレは本気だったけど』
「〜〜また今度ねっ。おやすみ!」
どうしたらいいか分からなくなった未来が、一方的に電話を終える。
「……また今度って言っちゃった」
熱くなった頬を手でおさえながら、一人ぽつりと呟いた未来なのだった。
***
次の日、黄泉が指定した時間の少し前に蔵馬と未来は癌陀羅の地に降り立っていた。
久しぶりに味わう魔界の空気の濃さに、最初は顔をしかめた未来だったがすぐ慣れた。
ちなみに未来は鈴木が作ってくれた瘴気を浄化する薬を服用済みだ。
実は婚約記念パーティーの時も、この瘴気対策薬を未来は内服していた。
「やはりお前も来たか」
会議室に入ると、黄泉が一人席に座っていた。
予測していたのか、未来の隣にいる蔵馬の姿に驚く様子はなかった。
「黄泉。何故未来だけを呼び寄せた?」
「彼女を呼べばお前も来るだろうと考え使い魔の手間を省いてやっただけだ」
蔵馬に詰問されるも、深い意味はないというように淡々と黄泉が述べる。
「それに、この前のパーティーに不参加だった属国の重鎮が今日ここへ訪れるんだ。ぜひ王妃のお目にかかりたいとのことだからな」
「もう未来に王妃のフリをさせるのはやめろ。妖駄にも言付けを頼んでいたはずだ」
「ただ紹介するだけだ。そう目くじらを立てるな」
書類をトントンと机の上で揃えながら、片手間とばかりに黄泉は蔵馬を諌める。
「雷禅の死が刻一刻と近づいているらしい。蔵馬、今日はお前の意見を楽しみにしているぞ」
「黄泉、まだ話は終わっていない」
「悪いが後にしてくれ。そろそろ会議が始まる」
「その重鎮の人が来たら私挨拶しなきゃいけないの?」
約一か月ぶりに耳にする未来の声に、黄泉の肩がビクッと僅かに跳ねた。
「ああ。ただ顔を見せるだけでいい」
(……あれ)
部屋に入って以降、蔵馬の方へばかりでずっとこちらに顔を向けない黄泉に違和感を覚える。
意識的に黄泉は未来のことを見ないようにしているというか。
いや、盲目なのだからその表現はおかしいのだが、存在に気を留めるのを避けているような……そんな印象を受けた。
「これはこれは未来様。お元気そうで何よりです」
ぞろぞろと会議室にやってきた黄泉の部下たちが、未来の姿に気づき駆け寄ってきた。
「鯱殿の件もあり、心配していました」
「そろそろ瘴気にお身体は慣れましたか」
「早く黄泉様と暮らしたいでしょう」
未来は瘴気が苦手なため、王妃の身体を思い遣った黄泉が癌陀羅に居住させず人間界に滞在させているという設定になっていた。
曖昧に笑って応える未来の隣で、蔵馬はぐっと堪えるように下げた拳を握り締める。
「黄泉様、会議前に少しご相談したいことが。……黄泉様?」
二度目の声かけで、やっと己に話しかけてきた部下の存在に黄泉は気づいた。
「ああ、なんだ。言ってみろ」
「は。実は……」
黄泉に促され、口を開く部下。
最近よく上の空だった主君だが、今日は一段と気もそぞろだなと感じながら。
重要だからと参加を求められた会議だったが、三竦みの膠着状態に変わりはなく雷禅の死が近いのは以前から分かりきっていた事実であり、特に真新しい議題がのぼることなく幕を閉じた。
こんな進展のなかった会議のためにわざわざ蔵馬に授業を休ませてしまったと未来が気落ちしていると、会議室に妖駄がやって来た。
「黄泉様。例の客が到着しました。応接間に通しております」
「わかった。すぐ行こう」
部屋を出て行く黄泉をぼーっと見送っていると、キッと目尻を吊り上げた妖駄に睨まれる。
「未来、何をぼさっとしておる!御主も行くのじゃ!」
「え!?あ、そっか」
慌てて立ち上がった未来に、蔵馬も続いた。
「オレも軍事総長として挨拶したい」
「……別に構わんが」
歩みを止めぬまま黄泉が応える。
会議室に妖駄や他の部下たちを残し、三人は応接間へと足を運んだ。
「黄泉様、この度はご婚約おめでとうございます。先日のパーティーはこちらの一身上の都合で出席できず誠に申し訳ありませんでした」
一行が応接間に着くと、ソファに座って待っていた老妖怪が立ち上がり、恭しく礼をして黄泉へ手を擦り合わせた。
以前未来が通された和室とは違い、ソファと机が置かれた洋風の部屋だ。
「彼が鯱に代わり、我が国の軍事総長となった蔵馬だ」
二言三言当たり障りのない会話を客と交わした黄泉が、まず蔵馬を紹介する。
「そして彼女が我が妻の未来だ」
(え!?)
ぐいっと黄泉に引き寄せられて肩を抱かれ、未来が身体を強張らせた。
我が物顔で自分に触れる黄泉を、驚いて見上げる。
「ちょ……黄泉さん?」
当惑する未来の小声、咎める蔵馬の刺すような視線に気付いてもなお黄泉は彼女の肩から手を離さない。
それはまるで蔵馬への宣戦布告のようだった。
「貴女が闇撫のお妃様ですか。お噂はかねがね」
未来へニコニコ会釈していた老妖怪だが、おどろおどろしい殺気を放っている蔵馬に目をとめた瞬間、顔を青くして後ずさる。
老妖怪は黄泉と軽く世間話をすると、何故か蔵馬へ「どうかお許しを」と叫び逃げるように帰っていった。
「その態度はなんだ、蔵馬。お前の気に障る言動をしてしまったのではないかと彼はひどく怯えているようだったぞ」
「黄泉。お前こそ一体何のマネだ」
眼光鋭く蔵馬が黄泉を睨みつける。
「二度と未来に触るな」
未来は何も言わず、蔵馬の隣でただただ困惑していた。
指一本触れないという契約を破り、無意味に蔵馬を怒らせる行為をした黄泉を彼らしくないと感じる。
黄泉は何よりメリットの有無を重視して行動し、円滑な魔界統治のために過ぎないとはいえ契約内容を遵守しようとしているように見えたのに。
「それは約束できないな。未来さんはオレの妻なのだから」
「なんだと!?」
いけしゃあしゃあと吐いた黄泉に、蔵馬は憤り未来は唖然とする。
「でも黄泉さん、私に指一本触れないって約束だったよね?」
「さあな……忘れてしまった」
とぼける黄泉に、未来は開いた口が塞がらなかった。
本当に目の前にいる黄泉は今まで自分が接してきた彼と同一人物なのだろうか。信じ難い言動に、頭が混乱する。
「未来さんには今日からこの城に住んでもらう。いつまでも別居していては周りに不審がられるだろう」
「黄泉……いい加減にしろ」
目が眩むような怒りで、蔵馬がわなわなと身体を震わせる。
「未来、帰ろう」
こんなふざけた要求をきけるものか。
一分一秒でも早く未来を黄泉の前から連れ出したいと、蔵馬が彼女の手を引いた。
「蔵馬、ちょっと待って」
未来はその場を動かず、まっすぐ黄泉に向き直る。
「黄泉さん。私はたしかに偽の王妃をやり遂げるって決めたよ。金輪際もう蔵馬の家族を脅かさないことを条件に」
鯱に手を出される心配がなくなる、蔵馬の家族が人質から解放されるという二点の理由から、未来は黄泉と偽装結婚の契約を交わしていた。
「けど王妃のフリをするのにここに住むことが必要だとは思えない。今まで通り、瘴気を言い訳にすればすむ話だもの」
偽の王妃の役目はきっちり果たそう。
だが、不必要な命令まで未来はきくつもりはなかった。
「私はここに住まない。だからって、あなたが蔵馬の家族をまた脅かすのは通りに反するからね」
キッパリ黄泉の命令を断った未来が念押しする。
これ以上黄泉は約束を反故にしないと信じたくて。
「……わかった」
意外とあっさり黄泉が諾と言い、未来はホッと安堵のため息をつく。
しかし、続く彼の台詞に絶句した。
「それに従えば未来さんはオレのものになるのか?」
「なるわけないだろ!?」
大真面目な顔をして訊ねた黄泉に、怒り心頭の蔵馬の語勢が強くなる。
「やはり今お前は冷静じゃないな。お前が感情的に反抗すればするほどオレに火をつけるだけだと分からないか」
「感情的なのはお互い様だろ。黄泉、もうお前に未来は会わせられない。次にオレを呼ぶのは雷禅が死んだ時にしろ」
「ではそれまでじっくりお前から彼女を奪う算段を立てようか。……いや、違うな」
フフッと低く不敵な笑みをこぼす黄泉。
「未来さんは既にオレのものだ。少なくともお前たち以外の魔界中の者全員がそう認識している」
さあっと未来の血の気が引いていく。
たしかにそれは分かっていたことだけれど、蔵馬の前で絶対に言葉にしてほしくない台詞だった。
「やめてよ!」
聞いていられなくて、未来が叫んだ。
「蔵馬、帰ろう。もう私ここにいたくない」
「未来!」
即座に次元の穴を開け飛び込んだ未来を蔵馬が追う。
黄泉は特に引き止めることなく、二人の背中を見送った。
黄泉自身も一連の己の言動の所以を完全に理解できているわけではない。
ただ、絶対に未来を心身ともに自分のものにしたいという強い欲求に突き動かされていた。
***
黄泉は何故あんなことを。
心も頭もぐちゃぐちゃな未来が開けた穴の先は、蔵馬の家の玄関へと繋がっていた。
高校を途中で抜けてきて、学生カバンを持ったままの彼を慮ったのだ。
「おじゃまします」
しんと静まり返った玄関には、誰の靴も置かれていなかった。
平日の昼下がり、時折鳥の囀りと自動車のエンジン音が聞こえるくらいで家の外も穏やかな静けさを保っている。
「お母さんたちは?」
「この時間はいつも誰もいないよ」
階段をのぼる蔵馬は、未来の問いに振り向かぬまま答えた。
(蔵馬、すごく怒ってるよね……)
殺気立つ蔵馬にそれ以上何も話しかけられなくて、黙って未来は彼に続く。
そうして蔵馬の自室に入るやいなや、未来は彼にきつく抱きしめられた。
「くらっ……」
名前を呼ぶ前に、唇を塞がれる。
こんなに性急なキスはあの婚約記念パーティーの日以来だった。
憤り、嫉妬、独占欲、焦燥感。
荒れ狂う波のような思いを、蔵馬は未来に全てぶつけていく。
雪崩れ込むように二人の身体がベッドに沈んだ。
乱暴的ともいっていい蔵馬の行為に、翻弄される未来は彼のなすがままだ。
「……あっ…」
漏れた艶のある吐息も。別人みたいな蔵馬に驚きつつ、彼に触られても全然嫌じゃないことも。
たまらなく恥ずかしくて、未来はギュッと目を瞑った。
以前温室でそうしたように、蔵馬は未来の額や瞼、こめかみ、頬、首筋から鎖骨へと唇でなぞっていく。
あの時は愛おしいところ全てに印をつけるようなキスだったが、今日は違う。
彼女は自分のものだと主張する、彼の征服欲を満たすための行為だった。
「…っ……」
右肩にチクッとした微かな痛みを感じた未来。
はだけたブラウスからのぞいた肌に、蔵馬が口づけたのだ。
紅く咲いた所有印を満足そうに眺める、自分を組み敷く蔵馬の妖艶な微笑みに未来は息をのんだ。
数秒経って、そこは黄泉に触られた場所だと合点がいく。
固まっている未来に気づいた蔵馬が、ハッとして普段通りの顔に戻った。
瞬く間に彼から妖狐の影が消え失せる。
「ごめん。頭冷やしてくる」
押し倒した状態だった未来から身体を離し、蔵馬が部屋から出ようとする。
「蔵馬。行かないで」
入りきらない力を振り絞り、上半身をベッドから起こして未来が蔵馬を呼び止めた。
「昨日、また今度ねって言ったでしょ?あれ、今じゃダメかな」
未来の言わんとすることを察した蔵馬が、彼女に背を向け俯いたまま翡翠色の瞳を見開く。
未来は複雑な心境だった。
黄泉と偽装結婚の密約を交わしたことで蔵馬の家族が人質から解放されて本当によかったと思っている一方、別の形で彼を苦しめてしまっており後悔の念にも苛まれている。
「蔵馬、本当にごめんね……」
もし未来が逆の立場だったらと思うと、すごく辛い。
蔵馬が表向きは他の人の夫として振る舞うのを傍で眺めているなんて。
彼の気持ちを思うと、心苦しくて未来は胸が押し潰されそうだった。
「全部受け止めたいって前に言ったの、本当だから」
昨日は急な誘いで心の準備が出来ていなかったが、未来は蔵馬と先に進むことが嫌なわけじゃない。
未知の行為に対する不安はあるけれど、いつか経験する時の相手は絶対に蔵馬がいい。
というか、蔵馬じゃなきゃ嫌だ。
そして蔵馬が望むのなら、嫉妬心が少しでも和らぐなら。
その時は、今でもいいと思っている。
「未来のこと、抱きたいよ」
ずっと黙って聞いていた蔵馬が、おもむろに口を開いた。
ストレートな台詞に、かあっと未来の頬が熱くなる。
「でも今は駄目だ」
「っ……どうして?」
「今これ以上未来に触れたら、絶対に傷つける」
嫉妬や独占欲でドロドロの感情のまま未来を抱いて、蔵馬は優しくできる自信がなかった。
壊れるまでオレのものだと分からせてやりたいと以前言ったのも、紛れもない蔵馬の本音だった。
一方で、未来のことを大切にしたいと心から思ってもいるのだ。
誰よりも大事にしたいのに、滅茶苦茶にしてやりたい。
相反する感情が共存しうることを、未来を好きになって蔵馬は初めて知った。
「蔵馬……」
傷つけられてもいいよ?
そう伝えようとして開いた口をつぐむ。
蔵馬が未来を傷つけることを望んでいないとわかったからだ。
無理やりみたいな先ほどの蔵馬の行為が怖くなかったのは、本当に未来が嫌がることは彼はしないと心の奥で信頼していたから。
いつも未来を一番に考え大切にしてくれる、彼の優しさに胸が締め付けられる。
「……わかった」
やや乱れていた着衣を直すと、未来はギュッと後ろから蔵馬の背中に抱きついた。
柄にもなく驚いた蔵馬の身体が緊張したのが伝わる。
「未来、オレに襲われたいの?」
「え!?えーと、あのさ、今から一緒に師範の家に行かない?」
せっかく理性をフル動員して我慢してやったのにと、詰るように蔵馬が背後を見遣る。
欲をのせた眼差しにドギマギしつつ、未来が提案した。
「あそこなら空気が綺麗だし、きっと心が落ち着くよ」
ね!と未来に微笑まれ、これ以上密室に二人きりでいてもマズいと判断したのか蔵馬は了承した。
そうして次元の穴を開けた先、のどかな山林の景色が広がる幻海邸の縁側に二人腰掛ける。
「前に“オレは繰り返す”って言ってたのって、黄泉をまた裏切るつもりだってことだよね?」
あの衝撃的な台詞の真意を、未来はかなり前から推測していた。
今の今まで口に出さなかったのは、蔵馬と両想いになれた喜びで黄泉のことが頭から抜けていたのと、幸せムードに水を差すようで彼の話題を無意識に避けていたからだろう。
「もしもの時、陣たちが幽助より黄泉を選んで戦うとは思えないもの」
「ああ。……咎めないのか?」
「まさか。蔵馬の優先順位がハッキリしてて助かるよ。私だって、幽助や飛影より黄泉をとるなんてありえない」
肯定し訊ねた蔵馬に、未来は首を横に振る。
悪いようにはならないと、四人の絆を信じて疑わなかった未来の言葉を、想いを叶えてやりたい。
その一心で、いざという時に幽助側に寝返るであろう者たちを選び蔵馬は育てた。
「ありがとう。蔵馬、色々たくさん考えてくれたんだよね」
未来がそう言ってくれて、蔵馬は報われた気持ちになった。
「それにしても、どうしてさっき黄泉はあんなこと言ったんだろ。やっぱり蔵馬への嫌がらせ目的だよね!?」
「黄泉が未来に惚れてるからだろ」
豹変した黄泉の態度に未来が首を捻っていると、口に出すのも忌々しいという顔をして蔵馬が言った。
「ええ!?いやいや、惚れてるって……そんな感情持ってる黄泉なんて想像できないよ!」
「黄泉も夏に再会するまでオレのことをそう認識していただろうね」
蔵馬だって恋心を抱く黄泉などピンとこない。
しかし蔵馬が母・志保利の元に生まれ愛を知ったように、未来との出会いが黄泉に変化をもたらしていても不思議ではないと考える。
また、鯱に襲われそうになった未来を助けに向かおうとした黄泉の姿が蔵馬の中でずっと引っかかっていた。
「ていうか黄泉が好きなのは、私よりむしろ蔵馬でしょ!」
驚愕の台詞を吐いた未来に、全身に悪寒がはしるような衝撃が蔵馬を襲った。
「未来……ふざけるのも大概に……」
「好きっていってもラブじゃなくてね!?」
怒り爆発寸前の蔵馬に気づき、恋愛感情とは異なると未来が慌てて弁解する。
「鯱は憎しみから蔵馬へ嫌がらせしてたじゃない?……けど黄泉のそれは、好意の裏返しなんじゃないかと思うよ」
蔵馬のことを恨んでいないと言った黄泉。
百%本心からの言葉とは思えないが、きっと百%嘘でもないと未来は考える。
「千年も前に別れた蔵馬のことが忘れられなくて、人間界からわざわざ呼び寄せたんだよ。捕えた刺客も生かしておいて蔵馬の前で殺したんでしょ。すごい執着を感じた」
凄まじい出世欲。
城の外れに作られた温室。
黄泉は絶対に、蔵馬のことを嫌ってはいないと思う。
美術品のように整った蔵馬の顔を眺めながら、未来の中に黄泉への憐憫の情めいたものが生まれてくる。
「ほんと罪な男っていうか……」
しみじみ呟いた未来へ、はあ?と蔵馬が眉を顰めた。
「罪な女なのは未来だろ」
「うーん、黄泉は蔵馬への対抗心からあんなこと言ったんじゃないの?」
好かれるような素振りもした覚えはないし、同意しかねる未来である。
「とにかく、少しは自覚して警戒してもらわないと困る」
「うん……わかってる」
蔵馬に言われずとも未来は黄泉への警戒心を強めていた。
今日あっさり約束を破り強引に肩を抱いてきた黄泉が、未来は怖かったのだ。
もし蔵馬の家族を脅かさないという約束も破られたらどうしよう。
そして最も厄介で恐ろしいことに、黄泉は蔵馬や幽助たちが何人束になっても敵わないくらいの妖力を秘めている。
改めて考えると身がすくむような恐怖を感じ、未来はゾッとした。
「帰ってたのかい」
「師範!」
「で、誰が罪な女だって?」
ひょっこり現れたのは、屋敷の主である幻海だった。
相変わらずの地獄耳を持つ幻海に、未来は苦笑いする。
「未来に黄泉が惚れてるんですよ」
「ちょ、蔵馬、まだそうと決まったわけじゃ」
「へえ。あんたたちも苦労が絶えないね」
気が立っている様子の蔵馬と沈んだ表情の未来を見て、しょうがないねえという感じで幻海は小さく息を吐いた。
「ま、ものは考えようだよ。黄泉が未来に惚れてるなら、それを逆手にとればいい」
「逆手にとる?」
「一理あるな」
幻海の台詞に呼応するように登場し、こちらへやってきたのは死々若丸だ。後ろには陣たち五人も控えている。
「黄泉を手玉にとれとその婆さんは言ってるんだろ。奴を言いなりにしてお前が癌陀羅を牛耳ってやれ。その時はまずオレを黄泉以上の役職につけろ」
「へえ、あんたにしちゃ良いこと言うじゃないか」
まだ名を上げることにこだわっていたらしい死々若丸の発言に、幻海がニヤリと口角を上げる。
「黄泉以上の役職など、そんな地位があるのか?」
「ないなら作ればいいべ」
「大国王……は安直すぎるか。死々若には帝王や魔王なんて呼称が合うんじゃねえか!?」
「未来、オイラも何かの大臣に任命してね!もちろん給料は弾んでよ!」
「オレは研究用のラボを用意してもらいたい!」
鈴木たちは死々若丸がトップに君臨する新・癌陀羅帝国の構想をふざけ半分で練り始めている。
「無理だよ、冗談きついってば。そもそもほんとに黄泉が私のこと好きなのかも分かんないし」
「甘えたこと言ってんじゃないよ。要はそれくらいの気概を持て!とあたしは言いたいんだよ」
消極的な未来へ、甘ったれるなと幻海が喝をいれる。
「惚れた弱み握って、黄泉を意のままに動かしてやるくらい言ってみせな!」
「え、ええ〜!?」
「あんたも腹括るんだよ!」
自分にそんな技量はないと狼狽える未来だが、たしかに落ち込んで怯えているだけではダメだとは思う。
これだけ黄泉と関わってしまった時点で、三竦みの争いにもう未来は無関係ではないのだ。
もうすぐ魔界は大きく変わる。
悪いようにはならないと信じた言葉を、その時に自分で実現するのだ。
「よ、よし!」
決意した未来が、ぐっと拳を握り締め熱く宣言する。
「いざという時は、私が蔵馬や幽助や、飛影や皆を黄泉から守ってみせるよ!」
その意気だ未来!とわーわー周りは盛り上がっている。
頼りにしてるべ!なんて陣が囃し立てるから、ますます彼女はその気になってしまっているようだ。
「未来の色仕掛けで黄泉をイチコロだな!」
「絶対駄目だ。許さない」
どこまでも能天気な彼らに毒気を抜かれ呆気にとられる蔵馬だが、到底聞き捨てならない酎の発言を突っぱねることは忘れない。
「蔵馬も元気だせ。多少の障壁は二人の愛を燃え上がらせるものだ!」
「分かっていると思うが、あの子の心はあんたでいっぱいで黄泉の入る隙なんか一分もないしね」
鈴木の励ましに、幻海もさらっと付け加える。
その奥には、まだぎゃーぎゃー騒いでいる未来たちが見えて。
「そうですね」
ふ、とようやく蔵馬は小さく笑えたのだった。
鈴駒たちと何やら喋っている今の未来には、先ほど二人きりでいた際の扇情的な雰囲気はどこにも見当たらない。
自分の下でされるがままキスを受け入れていた未来。
なめらかな肌。紅潮する頬。
普段ではまずありえない彼女からの誘い。
思い出すと、もったいないことをしたなという気持ちが、むくむくと蔵馬の内にわきあがってくる。
──ちょっとカッコつけすぎたかな。
未来を傷つけたくなかったのは本心であれ、なんて胸の内で呟いた蔵馬なのだった。