Ⅴ 蔵馬ルート
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✴︎90✴︎謁見の火種
(蔵馬まだかな…)
微妙な味のオムライスを平らげた昼食後、蔵馬の来訪が待ちきれず未来はそわそわと落ち着かない気分でいた。
(来た!)
ピンポーンと呼び鈴が鳴り、弾けたように立ち上がった未来が玄関まで急ぐ。
「……あれ?」
玄関扉を開けるも蔵馬はおらず、全くの無人であるように見えたが。
「ここじゃ!ここ!」
低い位置から聞こえる声に目線を下げれば、未来のへそあたりまでしかない身長の年老いた妖怪が立っていた。
「幻海師範への霊相談で訪問された方ですか?」
幻海の客かという質問に答えず、長い口髭を蓄えた老妖怪はじっと未来を品定めするように眺めている。
「妖気に混じる人間の匂い…やはり闇撫の娘か」
「え?」
どうして自分が闇撫だと知っているのかと、怪訝に眉を顰めた未来。
「御挨拶が遅れましたな。ワシは癌陀羅で黄泉様の秘書を務める妖駄という者です」
「黄泉って…蔵馬の古い仲間の!?」
「黄泉“様”じゃ!」
未来が黄泉を呼び捨てにすると、目の色を変えて妖駄が怒鳴る。
「じゃあ蔵馬の知り合いで……?」
「いかにも。御主は闇撫の未来という者じゃな?蔵馬から話を聞いたことがある」
「なんだ、そうだったんですね!」
目の前の老人の素性が判明し、未来が抱いていた警戒心も緩んだ。
「今日は蔵馬が鍛えておる六人の様子を視察にな。強い妖力をお持ちの黄泉様は人間界との間の結界に阻まれてしまうからの。ワシが代理で参った」
「皆、すごく修行頑張っててどんどん強くなってるみたいですよ!」
「それはよかった。ところで、この結界を解いてはくれぬか?これ以上先に進めんのじゃ」
「ああ、それ霊界避けで…」
「未来。客かい?」
こちらへやって来た幻海の声に、未来が振り向く。
「師範!こちら、黄泉…様の秘書の方らしいんですけど」
ジロリと妖駄に睨まれ、言うこと聞かなきゃ煩そうだなと感じた未来は一応黄泉を敬う体をとった。
「黄泉の秘書だって?」
「これ、様をつけんか様を!……な、なんじゃその目は!」
敬称を省くなと憤慨する妖駄だったが、鋭い幻海の視線に晒され身が竦む。
「あんた、何企んでんだい」
「ワ、ワシはただ黄泉様のご命令で六人の修行の様子を見ようと…」
すっかり妖駄は威勢をそがれ、まさに蛇に睨まれた蛙である。
「生憎だけど、この結界内には身内以外入れることは出来ないよ。さっさと帰りな」
「な!それは出来ん!ワシには黄泉様にご報告の義務が」
「六人の進歩はすこぶる順調。稽古つけてるあたしが言うんだから間違いないよ。黄泉にもそう言っときな」
「だ、だから様をつけろて」
「じゃあね。もう来んじゃないよ」
「こら話はまだ、ぎゃ!」
気功波で妖駄の身体を吹き飛ばすと、有無を言わさずピシャッと玄関扉を閉めた幻海であった。
「師範すご……ってよかったんですか!?あんな乱暴に追い出しちゃって」
容易く妖駄をあしらい追い出した幻海の神業に、呆気にとられていた未来がオロオロして訊ねる。
「だいぶ手加減はしてやったよ。結界は解けないし部外者は入れるわけにはいかないからね。何より、あいつはな~んかいけ好かないよ」
幻海の直感が、奴を家の中に入れるべきでないと告げていたのだ。
「あんたを値踏みするような目も気に入らないかったしね」
「値踏み…されてました?言われてみれば嫌にジロジロ見られたような」
「そんなに闇撫が珍しいのかね、まったく」
異世界から来た人間という物珍しさから未来が暗黒武術会の景品にされてしまったことを思い出し、幻海が顔をしかめる。
「でも、黄泉直属の部下らしいですよ?癌陀羅での蔵馬の立場が悪くなったりしないかなあ」
「なあに、蔵馬なら上手く立ち回るだろう」
あっけらかんと言い放つ幻海に、苦笑いの未来なのだった。
***
長い長い階段を上った先に、愛しい人が待っている。
母や義弟にまで機嫌の良さを見抜かれた蔵馬は、足取り軽く幻海邸の階段を上っていた。
しかし最上段まで上り終えたところで、覚えのある微かな妖気を感じ蔵馬の口元から笑みが消える。
「妖駄!?」
「うっ…」
幻海に吹っ飛ばされた勢いで樹木に背中を強打し、気を失っていた妖駄が蔵馬の声で目を覚ました。
「いたたた…。あの老婆め許さんぞ…」
「妖駄。どうしてお前がここにいるんだ」
恨めしそうに幻海邸を睨んでいる妖駄を見下ろし、鋭い口調で蔵馬が詰問する。
「蔵馬。黄泉様からの命令じゃ。闇撫の娘を早急に癌陀羅へ連れて来いと」
唐突に告げられた通達に、無表情のまま、わずかに蔵馬の眉間に皺が寄った。
「ふっ…白を切ろうとしても無駄じゃぞ。ワシはこの目で闇撫の娘があの屋敷内にいることを確認しておる」
蔵馬は何も言わなかった。
ただ、その冷たい瞳でじっと妖駄を見据えている。
「妖気に混じって人間の匂いをさせておったし、口ぶりからも十中八九本人じゃろう。闇撫のような稀有で上等な種族に目をつけるとは、黄泉様もさすがお目が高い」
蔵馬の視線に腹の内を探られているような居心地の悪さを感じつつ、妖駄は口を回らせた。
己が慕う主人の存在が、妖狐蔵馬を前にしても妖駄の気を大きくさせてくれるのだ。
「それはそうと御主、黄泉様のことを古い仲間だと未来に話しておったのか。黄泉様の光を奪っておきながらなんと図々しい─」
「今すぐにか?」
妖駄の糾弾に被せて蔵馬が問いかけた。
「元々、闇撫の娘が帰還すれば直ちに黄泉様へ伝えよとの命令だったはずじゃ。今回その約束を反故にしたことは咎めん代わりに、早急に癌陀羅へ連れて来いと黄泉様は仰っておる」
余裕綽綽、蔵馬の弱みを握ってやったと言わんばかりの妖駄の態度。
未来と会ったのは事実だろう。
黄泉にはきっとリアルタイムで幻海邸での会話が筒抜けになっている。
ここで妖駄を殺るのは簡単だが、口封じにならないどころか謀反の罪に問われるのがオチだ。
「黄泉様は希少な闇撫を傷つけるような真似をするおつもりは全くない。娘は丁重に扱うから心配するなとの伝言じゃ。瘴気対策も万全にするとて」
見透かしたような伝言が、また蔵馬を苛立たせる。
どうやら蔵馬の思考は黄泉に読まれていたらしい。
命を受ければ、蔵馬は未来の身を案ずるだろうと。
「拒否すればどうなるか、分かっておるな…?」
すなわち、夏と同じように黄泉は蔵馬の家族を人質にとると暗に言っているのだ。
あるいは未来の命さえも狙うつもりなのかもしれない。
「なあに、渋るようなことではない。娘の能力が黄泉様のお眼鏡に適うか確かめるだけじゃ」
「オレは未来を三竦みの争いに巻き込むつもりはない。彼女は癌陀羅とは無関係だ」
「それを判断するのは、黄泉様じゃ」
二ヒヒと不気味な笑みを浮かべ、癌陀羅での道理を妖駄が告げる。
蔵馬の両の拳は、真っ白になるほど強く握られていた。
鳴らされた呼び鈴に、今度こそ想い人の来訪であろうと確信した未来が玄関へ駆ける。
「よかったー!蔵馬だった!」
扉の先にいたのは紛うことなく蔵馬だったけれど、その端正な顔に落とされた影の濃さに未来は息をのむ。
「蔵馬、何かあった…?」
恐る恐る訊ねられ、ハッとした蔵馬の視界に色が戻った。
「なんか怒ってる?それとも体調悪いとか?」
「……いや、大丈夫だよ」
力なく笑ってみせた蔵馬はとても“大丈夫”には見えなくて、未来は不安気な面持ちで彼を見つめる。
「怒っているのは、自分にかな」
「え?」
そんな未来の胸中を察したのか、小さく蔵馬がこぼした。
未来の帰還は絶対に黄泉に知られてはならなかったのに。
防げなかったのは己に落ち度があったということだろう。
未来と、そして一度ならず二度までも家族を危険に晒してしまった自分に怒りを蔵馬は感じていた。
「未来。巻き込んですまない。さっき癌陀羅の妖駄という妖怪と会ったか?」
「う、うん」
「急な話で悪いが……今からオレと一緒に癌陀羅へ来てほしい」
未来を癌陀羅へ連れて行くのは避けたかったが、脅迫されている以上こうなれば腹を括り黄泉の命に従うしかない。
「未来はオレが守るから」
彼女は絶対に自分が守り抜くと誓って。
「え…」
未来はオレが守るから。
告げられた言葉の意味を飲み込めたところで、ポッと未来の頬が赤く染まる。
「わ、わかった。いいよ、どうせ暇だし!でもなんで?」
「おそらく黄泉は、未来の闇撫の能力を利用しようと考えているんだと思う」
ドギマギしてテンパる未来とは反対に、蔵馬の表情は暗く憂いを帯びている。
「え!?私役立つような能力全然持ってないからガッカリされると思うけど。聖光気も使えなくなっちゃったし」
「そう伝えたとしても、黄泉は自分の目で確かめる前に納得するような奴じゃないよ」
「行くしかないってこと?」
「本当にすまない」
過剰なほど謝罪を重ねる蔵馬に、未来は慌てる。
「そんな謝られたらこっちが恐縮しちゃうよ!……あ、もしかして癌陀羅ってすごく劣悪な環境だからそんな申し訳なさそうなの!?めちゃ汚かったり」
見当違いな心配をして青ざめる未来が可笑しくて、ふっと蔵馬が口元が緩む。
「大丈夫だよ。癌陀羅は魔界でも有数の文明都市だ」
「そうなんだ!よかった~」
癌陀羅の環境が良いと判明したことよりも、蔵馬がやっと笑ったことに未来は安堵する。
「だったらさ!蔵馬、ほんと悪いと思わなくていいよ。癌陀羅ってどんなところなのか興味あるし、危険な魔界も蔵馬と一緒なら安心できるもん。蔵馬の昔の仲間だっていう、黄泉さんにも会ってみたいしさ」
蔵馬を元気づけたくて、気にする必要ないと述べる未来。
「それにいくら魔界が物騒でも、癌陀羅は黄泉さんが統治してる場所なんだから大丈夫じゃないの?」
一国の王の客人に危害を加えるような輩がいるとは、未来はとても思えなかった。
「しかも黄泉さんってめちゃくちゃ強いんだよね?万一何かあっても黄泉さんが守ってくれるんじゃあ」
「オレが守るよ」
珍しく幾分大きな声を出し、断固として言い張った蔵馬に意表を突かれた未来。
未来を守るのは黄泉でも他の誰でもない。
自分なのだと、蔵馬はどこか意地を張っているようにも見える。
「未来。黄泉は─」
勢いのままに続けようとした蔵馬だったが、その表情に迷いが浮かび、口をつぐむ。
「蔵馬?」
「……魔界で楽観的な考えは命取りになる。くれぐれも用心して」
「うん…。分かった」
一連の蔵馬の態度に戸惑いながらも頷いた未来。
蔵馬が言いかけたのは、本当に伝えたかったのは、他のもっと別なことなんじゃないか。
そう思えてならなかったけれど、口にするのは憚れた未来だった。
***
程なくして、使い魔の案内で妖駄と蔵馬、未来は癌陀羅の地に足を踏み入れていた。
「すごい、魔界にもこんなに発展してる都市があるんだ」
「黄泉様のご尽力の賜物じゃ」
立ち並ぶ近代的な高層建築物の数々に未来が感嘆の声を漏らせば、妖駄が得意気に胸を張る。
「ここが応接間じゃ」
御殿の中の和室に通され、敷かれた座布団に未来と蔵馬は並んで腰をおろす。
「しばし待たれよ」
妖駄が黄泉を呼びに行き、部屋には蔵馬と未来の二人だけが残された。
「トントン拍子でここまで来れちゃったね」
突然訪れた二人きりというシチュエーションにドキドキしつつ、蔵馬へ話をふった未来。
一体どんな危険が待ち受けているのかと警戒していたが、妖怪に襲われるようなこともなく無事にたどり着いた。心配は杞憂に終わったようだ。
「ところで黄泉さんってどんな人なの?なんか緊張してきちゃった」
「目的のためなら手段を選ばない奴だよ。ちなみに、ここでの会話は黄泉が聞いているはずだ」
「え!?嘘!」
黄泉には劣るが、蔵馬の聴力だって並みじゃない。
未来には聞こえなかったが、蔵馬はその人並外れた聴力で妖駄たちの会話を拾っていた。
「申し訳ございません黄泉様。六人の様子は偵察することが出来ませんでした」
「構わん。六人云々は建前だ。闇撫の娘と対顔できればそれでいい」
秘書を引き連れ廊下を歩いていた癌陀羅国王は、応接間まで来るとガラッと襖を開けて。
「待たせたね」
未来の前へ、初めて姿を現したのだった。
(この人が黄泉…!)
とても背の高い男、というのが未来が黄泉に抱いた第一印象だった。
一国の王たる風格を漂わせ、漆黒の長い髪の間からは妖怪らしく何本も角が生えている。
「君が未来さんか。会いに来てくれて嬉しいよ」
「それではごゆっくり」
蔵馬と未来の向かいに腰をおろした黄泉へ茶を給仕し、妖駄が退室する。
「初めまして。永瀬未来です」
些か緊張しつつ、未来はペコリとお辞儀した。
「会いに来てくれて嬉しいだと?ここへ来たのは未来の意志じゃないと分かっていてよく言うな」
志保利らの命を盾にし、半ば強制的に未来を訪問させたのではないかと蔵馬が皮肉る。
「ああでも言わないとお前は彼女をここへ連れてきてくれなかっただろう?」
蔵馬の声色の冷たさにギョッとした未来だったが、当の黄泉には別段動揺する様子はない。
「黄泉。何故未来が戻ってきたと分かった?」
「優秀な使い魔を人間界へ派遣したんだ。昨日、お前と未来さんの目撃情報を得てね」
苛立つ蔵馬の眉間に皺が寄る。
昨日、買い出しのために未来と外出したところを見られていたというのか。
普段なら見張りの使い魔の存在に気づけただろうに、完全に浮かれていた自分のミスだ。
「仕事の早いお前が未来さんを隠してしまう前に、癌陀羅へ招いたわけだ」
思い立ったが吉日と、黄泉は早急に妖駄を人間界へおくったのである。
(え、なにこの険悪な感じ…?)
友好的とは言い難い蔵馬の黄泉に対する態度に面食らい、緊迫した空気におろおろする未来。
(ていうか黄泉さん、なんでずっと目を瞑ってるんだろう)
「オレは千年前に視力を失って以来、目が見えないんだ」
未来が閉じっぱなしの黄泉の瞼を不審に思えば、彼女の目線の動きを感じ取ったのか応えるように黄泉が己が盲目であると述べた。
「だが体温や血圧の変化、筋肉の緊張具合、空気の流れ全て分かる」
視覚情報がない分、黄泉の他の感覚器は研ぎ澄まされたのだ。
「オレは光を失って強くなった。はは、蔵馬のおかげというわけだ」
「…?」
「蔵馬、心拍数が上がっているぞ。そう怒るな。癌陀羅での未来さんの安全は確約する。妖駄にも伝言を頼んでいただろう」
どういう意味?と首を傾げた未来だったが、黄泉が話を変えたため訊ねるタイミングを失う。
「オレは取引の条件は守るよ。誓って未来さんの安全は保障しよう」
「……それで、未来を呼んだ目的はなんだ」
「ぜひ未来さんに力をかしてもらえないかと思ってね」
目の前の男の口調や心音には、必死で堪えようとしているのだろう悔しさと怒りが滲み出でいる。
珍しくそのポーカーフェイスを崩した蔵馬に、黄泉は口角が上がる思いだった。
「あ……そのことなんですけど、闇撫の能力を私まだ全然使いこなせなくて」
「これから能力を磨いてもらえばいいさ。未来さんには我が軍のスパイとして活動してもらいたいからね」
黄泉から命じられた想定外のミッションに、目が点になる未来。
(スパイて……そんなトムクルーズみたいなアクションできないよ!?)
絶対無理だ。
失敗の先に待ち受ける死を予感し、サーッと未来の顔は青ざめる。
「私には不可能です!インポッシブルです!」
「御謙遜を。使い魔の調べによると、未来さんは暗黒武術会でスパイとして活躍されたとか」
「も、もしかして裏御伽チームへ潜入した話ですか?」
「その経験を生かして、未来さんには雷禅や軀の国に闇撫の能力でワープし諜報員として活動してほしい」
大きな誤解だと訂正する間もなく、黄泉は話を進めてしまう。
「浦飯や飛影と親しい未来さんにはぴったりの仕事だと思うんだがね。彼らも君なら警戒せず受け入れるだろう」
(え?)
何やら不穏な匂いを漂わせ始めた話に、未来は二、三度瞬きを繰り返す。
聞き間違いじゃなければ。
黄泉は今。
「幽助や飛影を騙して情報を流せってことですか……?」
「物分かりが良くて助かるよ」
ニッコリと貼りつけたような笑みを浮かべ、黄泉は肯定したのだった。
「黄泉。お前と未来を会わせた。もう気は済んだだろう」
雷禅と軀の国へスパイとして潜入?
それはつまり、幽助や飛影を……
未来が困惑する中、口を開いたのは蔵馬だ。
「彼女を三竦みの争いに巻き込むのはやめろ。未来は癌陀羅とも、魔界とも無関係だ」
「癌陀羅の地に足を踏み入れオレと対面した時点で客観的にはそう判断されないと思うがな」
ピシャリと言い放った蔵馬だったが、黄泉の意見も的を得ている。
「もう未来さんは我が軍の一員同然だ。報酬は弾むぞ」
「黄泉。いい加減にしろ。第一、諜報員なんて危険なマネ未来にさせられるか」
「言ったはずだ。“癌陀羅での”安全は保障すると。癌陀羅軍員だと悟られないよう敵地で立ち回るのもスパイの仕事だ」
「何だと?」
「黄泉さん!」
二人の会話へ割って入った未来の顔は、緊張からか強ばっている。
「ごめんなさい。……私、できません」
ギュッと膝の上で手を握りしめ、静かだがハッキリとした声で未来は言った。
「遂行する自信がないのか?なら技を磨くまでだ」
黄泉の前で出来ないなどという言い訳は通用しない。
出来るようになればいい話だからである。
しかし、未来がスパイ任務を断った一番の理由は他にあった。
「幽助や飛影を裏切るようなことできません」
「どうしてだ?」
「仲間だからです」
そう言い切った未来の瞳には、一点の迷いも曇りもなかった。
仲間。
これほど曖昧で不確かな関係性はない。
妖狐蔵馬の隣で大真面目にそんな単語を口にした女が可笑しくて、黄泉はクククと低く笑いだす。
(魔界の一国の王の命を断るとは、肝が据わっているというか)
それとも、ただのバカか。
「それぞれ敵陣営に在籍してなお仲間か。面白いことを言うね。蔵馬は仲間じゃないのかい?君なら喜んで蔵馬の役に立とうとすると考えていたんだがな」
「もちろん蔵馬も仲間です!でも、こういった形の協力はできません」
「蔵馬の家族の命がかかっていてもか?」
もう一度断り頭を下げた未来だったが、黄泉の台詞に凍りつく。
「黄泉……!」
「そうだな、一カ月だ」
立ち上がった蔵馬に目もくれず、黄泉は非情なタイムリミットを設けた。
「一ヶ月以内に闇撫の技を磨きワープ能力を身に付けろ。一ヶ月後の今日、また使者を迎えに行かせる」
先程までの柔らかい物腰とは一転、頑とした口調で命令を下した黄泉を信じられないという目で未来が見つめる。
「もしかして、こうやって蔵馬のことも脅したんですか!?」
不思議だった蔵馬の態度。表情。
だとすれば、すべて合点がいく。
蔵馬はきっと本心から黄泉に協力しているのではない。
幻海邸で六人を鍛えているのは、家族の命と引き換えに黄泉に脅された故だろう。
(なんか胡散臭い笑い方する人だなと思ったら!!)
蔵馬に続き立ち上がった未来が、怒りにまかせ黄泉を問いただす。
「気に入らなかったかね。蔵馬から学んだやり方だったんだが」
予想外の返答に怯んだ未来の隣で、蔵馬は否定も肯定もせず、ただ鋭い目付きで黄泉を見据えている。
「実際には人質をとらないやり方……蔵馬ならそうするだろう」
「だ、誰から学んだとか関係ないでしょう!」
「これは取引だ。蔵馬が仕事を全うすれば必ずオレは条件を守り報酬を与える」
苦し紛れに絞り出した未来の反論を無視し、淡々と黄泉は述べる。
「それにオレは実際に彼らに手を下す結果にはならないと確信しているんだ。蔵馬は必ず期待以上の成果を上げる男だからな」
千年前、蔵馬が率いる盗賊団の副将を務めていた黄泉。
蔵馬の実力、知略の傾向は誰よりも知っているつもりだ。
少なくとも、目の前のぽっと出の女よりは。
「未来さんの活躍も信じているよ」
信じるなどと聞こえの良い言葉を使ってはいるが、黄泉の言動は歴とした脅迫だ。
未来が命令をきかなければ、蔵馬の家族を殺めると暗に黄泉は脅している。
もう未来に、黄泉の命令を拒否するという選択肢は残されていなかった。
「わかりました。……やります」
「よかった。どれだけ腕を上げるか一ヶ月後を楽しみにしているよ」
顔面蒼白で項垂れる未来の返事と、先程から跳ね上がり乱れる蔵馬の心拍数に黄泉は微笑む。
「黄泉様。仰せの通り、洗浄機をお持ち致しました」
「妖駄か。入れ」
襖の外から嗄れた声がしたかと思えば、妖駄がハンドバッグ程の大きさの機械を抱えて現れた。
「癌陀羅は瘴気が濃い。死にたくなければ未来さんは肺の洗浄をするといい」
「黄泉。何を企んでいる」
「蔵馬、心配するな。貴重な戦力を傷つけるようなバカはしない。癌陀羅での安全は確約するというのが取引の条件だからな」
「このマスクで鼻と口を覆い、スイッチを押すのじゃ」
疑いの目を向ける蔵馬を黄泉が諭す傍で、妖駄から洗浄機の使用法の説明を受けた未来がマスクを取り付ける。
(瘴気は人間にとって毒らしいし、まあここは言うこと聞いてた方がいいよね…)
加えて蔵馬の家族が人質にとられている今、未来に黄泉の指示を断る勇気はなく言われるまま黙って洗浄機を稼働させた。
(あ、気持ちいい)
スイッチを押すと喉から胸にかけて清涼感が広がり、未来の気道を潤していく。
「たった一分で肺の洗浄ができる、未来さんのために技術班に作らせた特注の品だ」
癌陀羅の技術力を総動員して作らせた品からは、黄泉の未来に対する期待度の高さが窺える。
未来の人脈。未来の能力。
その両方を癌陀羅の反映のため黄泉は最大限利用するつもりなのである。
「それはそうと、かなり彼女に熱心な様子じゃないか蔵馬。たしかに闇撫は貴重種族だが」
オレにはただの命知らずなお嬢さんにしか見えなかったがな。
続く言葉は声に出さずとも嘲笑する表情で告げて、黄泉が蔵馬へ語りかける。
「お前こそえらく未来に執心しているな」
「お前はオレとは違う類の気の入れようだと感じたが」
ひんやりと緊迫した両者の間を割くように、治療終了のブザーが鳴った。
「未来、行こう」
「う、うん」
こんな場所から一刻も早く未来を連れ去りたいと、マスクを外した彼女の手をとって蔵馬は退室する。
対する黄泉は、自分たちは仲間だと澄んだ瞳で言い切った未来の言葉を反芻していた。
極悪非道の盗賊・妖狐蔵馬とは、あまりにも相容れない台詞を。
「蔵馬。せいぜい夢を壊さないようにしてやれ」
背後からかけられた不躾な助言に、蔵馬が振り返ることはなかった。
「ごめん」
幻海邸の庭先に戻ってきた蔵馬の開口一番は、やはり謝罪の言葉だった。
よりによって一番守りたかった未来を三竦みの争いに巻き込む嵌めになってしまった事実に、頭を下げる蔵馬の表情は険しい。
「蔵馬が謝ることないよ…!悪いのは全部黄泉でしょ!」
もう黄泉にさん付けすることさえやめた未来が熱を込めて主張する。
蔵馬だって黄泉の被害者なのだ。
「蔵馬の家族の命を盾にするなんて……」
余計な心配をかけたくなかったため、黄泉から脅迫されていることを蔵馬は未来に黙っておくつもりだった。
黄泉が同様の手を使って未来に迫る可能性を考えてはいた。
だから絶対に未来の帰還は黄泉に知られてはならなかったのに、結果はこのザマだ。
……“蔵馬から学んだやり方”という黄泉の台詞を、未来はどう受け止めたのだろう。
「未来。黄泉には借りがあると前に話したね」
“昔率いていた盗賊団の部下”との説明を額縁通りに受け取っていた未来も、黄泉と蔵馬が円満な関係ではないとさすがに気づいているはずだ。
過去に己が黄泉にした仕打ちを正直に未来に話そうと蔵馬は決めた。
「黄泉はオレの率いる盗賊団の副将だったんだが……未来?」
まさに打ち明けようとしたところで、蔵馬は微かに肩を震わせて俯いている未来に気づいた。
「大丈夫かな……私、スパイなんて出来ないよ……」
俯いており顔こそ見えないが、涙ぐんだ未来の声に蔵馬はハッとする。
雷禅や躯といった大妖怪が統治する敵国に単身で潜入しなければならないのだ。
未来の恐怖は、並々ならないものだろう。
「ごめ、ちょっとこわくなって……」
泣き顔を見られたくないのか、蔵馬に背を向けてしまった未来。
「大丈夫だよ、心配しないで……」
「未来」
震える肩が不敏で意地らしく、半ば衝動的に蔵馬はその背を抱きしめた。
「蔵馬……!?」
「未来。ごめん」
突然後ろから抱きしめられて驚く未来の耳元で、掠れた声で蔵馬が告げる。
未来を魔界の争いに巻き込んでしまったことは、何回頭を下げても謝り足りないくらいだ。
「蔵馬のせいじゃないよ……?」
「オレが守る」
蔵馬の腕の中で、未来が息をのんだのが分かった。
「未来はオレが守るから」
癌陀羅へ向かう前にも誓った台詞を、未来の前で繰り返す。
「蔵馬……」
肩の前に回された蔵馬の腕に、未来はそっと両手を添えて応えた。
「未来を絶対に危ない目にあわせないよう、オレが尽力する」
どういった策をとれば未来を守れるか、黄泉がスパイ任務を命じられた瞬間から蔵馬は考えを巡らせていた。
未来を抱きしめていると、絶対に守らなくてはという気分に改めてさせられる。
「……ふっ……くくくく……」
しばらく大人しく蔵馬に抱きしめられていた未来だが、次第に堪えきれない笑い声を漏らし始めた。
「やっぱり蔵馬。お前のアキレス腱はこの女だったか」
ガツンと鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が蔵馬にはしる。
声は本人そのものだが、まるで別人のような喋り方。
義弟で身に覚えのある体験だった。
嘲るような微笑をして未来が顔だけこちらへ振り返り、全てを察した蔵馬が彼女に回していた腕を解く。
「…………空か」
「御名答。思ってたより気づくのが遅かったな」
「あの洗浄機だな」
「ピンポーン。さすがだな」
完全に妖気を消して洗浄機に潜むとは、上手く考えたものだ。
空ほどの非力で小さな妖気ならば、隠すのは容易いだろう。
「黄泉はこのことを知っているのか?」
「さあな~」
鯱と黄泉、どちらの命令なのか。
探ろうとする蔵馬だが、空は答えるつもりはないらしい。
「何が狙いだ?」
「アンタの反応を楽しみたいからだよ」
単純に蔵馬への嫌がらせが目的とすれば、鯱の命令の可能性が高いか。
激しい悔しさと怒りに燃える中、辛うじて残る冷静な頭の部分をめまぐるしく蔵馬は働かせる。
「今すぐ未来の身体から離れろ」
「それは無理な願いってもんだ。こっちも仕事でやってんだからな」
ニタニタと普段の未来ならしないような嫌な笑みを浮かべ、空は首を横に振る。
「……いつからお前が喋っていた」
「分かんなかったのかぁ?」
洗浄機を使ったすぐ後からだろうか。それとも幻海邸に帰ってからしばらくは本物の未来の意識があったのか?
問いただそうとした蔵馬へ、小馬鹿にした言い方をして質問を返す空。
(たしかに、今考えてみれば違和感はあった)
未来ならスパイ任務がこわいと泣き言を述べるより、幽助や飛影の元なら大丈夫だろうと楽観的に構えているくらいがしっくりくる。
まんまと空の演技に騙されてしまったわけだ。
守ると誓った約束を、全く守れていない。
黄泉に帰還がバレた挙げ句、未来の身体を空に乗っ取られるとは。
今日ほど蔵馬は自分の失態を呪った日はなかった。
画魔の血で妖力を封じられた時も、裏浦島に騙された時も、ここまでの悔しさと憤りには襲われていない。
「……その反応、こっちに身体を移して正解だったな」
未来の瞳を使い、蔵馬の表情を視界におさめた空が愉快気に呟いた。
「まあ仲良くしようぜ」
未来の声に空の声がだぶる。
黄泉。
鯱。
そして蔵馬。
未来を中心にそれぞれの思惑が交錯し、しのぎを削る水面下の争いが火蓋を切ったのだった。