Ⅴ 飛影ルート
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
✴︎after story1✴︎青いふたり
未来が無事第一志望の大学に合格し、春から二人で暮らす新居も決まり。
全てが順調に進んでいた三月下旬、久々に未来は魔界を訪れていた。
「いつ来ても殺風景な部屋だね」
軀軍の移動要塞・百足内の飛影の自室をぐるりと未来が見渡して呟く。予め備え付けられていた最低限の家具のみが置かれた、生活感のない部屋だ。
飛影は未来が魔界に滞在することを嫌うため今まで数えるほどしか彼の自室には来たことがないが、一向に物が増える様子はみられなかった。
「もしかして新居に運ぶ荷物って一つもない?」
「ああ。だから来んでいいと言っただろ」
「まあ、久しぶりに百足にも遊びに来たかったし」
荷造り手伝うよ!と半ば強引に百足へ押しかけた未来だったが、飛影は遠慮していたのではなく本当に人手を必要としていなかったのだった。
未来が確認した限り、飛影の私物は胸に下げている雪菜の涙で出来た氷泪石くらいだ。服や日用品は軍から支給されるそうなので私物と呼べるか怪しい。
「飛影って前までは家もなかったんだよね。究極のミニマリストだね!」
飛影に物欲はない。自分には未来さえいればいいと、本気でそう思っていて──けれど口に出すのは憚れたので、飛影は無言で彼女から目線を逸らした。
「飛影、少しいいか」
「時雨さんだ」
コンコンと戸を叩く音と共に時雨の声がして、はーいと未来が出迎える。
「未来さんが来ていると聞いて、二人に引っ越し祝いをやろうと思ってな。これを新居に飾るといい」
何の用だと飛影に詰問された時雨は、脇に抱えていた植木鉢を差し出した。緑色の葉が涼しげな印象を与える小さな木が生えている。
「観葉植物ですか?ありがとうございます!」
引っ越し祝いにピッタリのオシャレなチョイスだなと、未来の顔は喜色であふれる。
「ああ。ゴムの木だ」
さらりと応えた時雨に、動揺で飛影の瞳が揺れた。
「魔界にもゴムの木があるんですね。人間界の花屋にも売ってるのを見たことがあります。大切に育てますね!」
「人間界のものはどうなのか知らんが、魔界のゴムの木の世話は時折水をやるだけで簡単だ。それと、軀様が未来さんをお呼びだ。手土産の羊羹を共に食べようと」
去年初めて百足に招待された時に渡した羊羹を軀はとても気に入ったようだったので、未来はいつも彼女への手土産にそれを選択するようになっていた。
「わかりました!じゃあ行こっか飛影」
「飛影には明日のパトロールの件で少し話がある。先に行っておいてもらえるか」
時雨に促され未来が一人で軀の部屋へ向かうと、ギロリと飛影は残った男を睨みつけた。
「おい。貴様、どういうつもりだ」
未来に時雨を疑う様子は一分もなかったが、パトロールの件で話があるなんて嘘っぱちだと飛影は気づいていた。
毎度変わり映えのない退屈極まりない仕事なのだ。事前に話すことなどない。
「お前が拙者へ話がありそうだと感じたからな。飛影、何故怒っている」
「貴様がふざけた物を寄越すからだ」
「ふざけてなどいない。新婚夫婦への祝いにあの木は定番の品だ」
その慣習を以前どこかで耳にしたことはあったので、飛影は口をつぐんだ。
「しかし驚いた。あの様子、彼女はこれがどういった木か知らぬようだったな。……余計な世話だったか」
図星を突かれ表情を強張らせた飛影の額帯の下には、数年前に己が移植手術を施した邪眼が隠されていると時雨は知っている。
風の噂で未来との交際を聞いた時、あの少年も女を知るような歳になったのかと少々感慨深くなったものだ。
しかし、飛影のこの反応……それなりの期間が経ったはずだが、まだ深い関係には至っていないのか。
心底驚く時雨だったが、どこか腑に落ちた。飛影が彼女を大切にしているのは、めったに百足へ連れて来ないことからもなんとなく窺える。
もしや飛影は彼女を神聖化しているのではあるまいかとの疑念がふと浮かぶほどに。
「……彼女もただのおなごだと思うがな」
「もう用は済んだだろう。さっさと出て行け」
独り言の如く呟いた時雨の台詞に、苛立ちがピークに達した飛影が彼を追い返す。
時雨が持ってきたそれは、未来を守るために必要なものだ。
いずれ用意しなくてはならなかったと飛影も分かってはいる。
ただ、時雨が未来を“飛影とそういう行為をする女”という目で見ていることが無性に気に障ったのだった。
***
年がら年中酒臭い盗賊連中が、今日はやけに浮き足立っている。
商売女たちが来る日だと、いつからか飛影も察するようになっていた。
お前にはまだ早い。ガキはネンネしてろ。
拾った捨て子へ下卑た笑みを浮かべて彼らは言った。
従順でいる気などなくとも幼い身体は自然と眠くなる。
いつも朝まで起きない飛影だったが、その日だけは深夜喧騒に目を覚ました。
寝ぼけ眼で起き上がり好奇心のまま大人たちの部屋を覗く。
むっとした酒と精の匂い。露になった肌。
だらしのない顔で女も男も乱れている。
強烈な光景に混乱し立ち尽くす幼子に、女は言う。
ボウヤも混ざる?
女の冗談にゲラゲラと周りが笑う。
背筋にゾッとした寒気を感じ、辺りを焼き尽くさんとする寸前で飛影は盗賊の一人に宥められた。
まあまあよせと、酔っ払い特有のぶれた動作で飛影の構えた右手を抑えたのは盗賊団でもトップレベルの妖力を誇る男だったか。
奴らは何をしているんだと、早口で飛影は訊ねた。
むわっと鼻につくアルコール臭。酒気を帯びた赤い顔をぐっと近づけて男は少年の問いに答える。
パリンと胸の奥で割れた音がして、飛影はそれ以上考えるのをやめた。
「ひーえい!聞いてる?」
過去へとんでいた意識が、恋人の声で戻ってくる。ハッとした飛影が俯いていた顔を上げると、キョトンとした表情で未来がこちらを見ていた。
軀と羊羹を食べてすぐ、人間界へ戻った二人は幻海邸の一室で丸机を囲んでいた。
百足では誰が聞き耳を立てているか分からないし、血生臭い物騒な場に未来が長居するのを飛影が嫌ったためだ。
「何回か呼んだのに気づかないんだから。考えごと?」
「……ああ」
心配そうに訊ねた未来に、「つまらんことだ」と飛影は言った。彼女が気に病むような事柄ではない。
「飛影聞いてなさそうだったからもう一度言うけど、鈴木がお祝いに家事マシンをプレゼントしてくれるって。私たちの妖力を燃料に動くんだってさ」
「大丈夫なんだろうな」
「大丈夫だって!鈴木の発明の腕はピカイチだもん」
突然家ごと爆発しないかとの懸念が頭に過ぎった飛影に対し、未来の方は師匠である鈴木を信頼している。
「鈴木から受け取る予定の家電や今日時雨さんから貰ったゴムの木は、うーちゃんに魔界から新居へ運んでもらおうと考えてるんだ」
「未来。お前、あれがどんな木か知らないだろ」
顔をしかめた飛影が忌々しげに吐き捨てる。時雨からの祝いの品は、とりあえず今は百足の飛影の自室に置かれていた。
「え、なんか危険な木なの?毒があるとか!?」
何の変哲もない植物に見えたが、紛うことなき魔界産なのだ。途端に警戒する未来が眉を顰める。
「魔界でも珍しいくらい無害な木だ」
「じゃあ何!?」
口を開きかけた飛影だが、喉まで出かかった言葉をどうしても声にできない。
「……さあな」
「えー、言ってよ!気になるじゃん!」
教えてよー!としつこく詰め寄られ、彼女にゴムの木が重宝される理由を匂わせたことを飛影は後悔し始めていた。
「お前は知らなくていい」
はぐらかすのに疲れた飛影が、うるさい口を己のそれで塞ぐ。
まんまと黙らされ不服な気持ちでいた未来も、次第に彼との口づけに酔いしれていく。
去年トーナメント初日に想いを通じ合わせて以来、もう何度目かわからないキス。
うっとりとした心地で未来は恋人からのそれを受け入れた。
「…っ……飛影」
髪を撫でていた手に耳を塞がれると、世界に飛影と自分しかいないみたいで……流されそうになる未来であったが、残った理性で咎めるように彼の肩を掴む。
「誰か来るかもしれないから」
昨年秋に少々度が過ぎてイチャつき、幻海にチクリと言われたことは記憶に新しい。未来に小声で囁かれ、飛影は罰が悪そうに彼女から身体を離した。
まただ。
またこいつに飲み込まれそうになった。
一度触れたら堰を切ったようにあふれ出すとわかっていたのに、また手を伸ばしていた。
幾度となく同じ過ちを繰り返し、学習しない自分にうんざりする。
「でもさ、一緒に住んだら……」
おずおずと紡がれた小さな声に、飛影がそちらを見やる。
しかし未来は飛影と目が合った途端、焦ったように俯き口を閉ざした。心なしかその頬は紅い。
「な、なんでもない!それよりさ、幽助が新作ラーメン作ったらしいんだけど」
急に話を変えた彼女を幾分訝しがりつつ、飛影は何も言わなかった。
未来が喋っている間も、ただ己への苛立ちと、彼女への熱を鎮めるのに精一杯だったから。
***
見なくなった夢が二つある。
一つは、この世に生を受けてすぐに氷河の国から捨てられる夢。
もう一つは、「行くな」と未来へ告げた時の夢だ。
眠りの世界へ落ちる度、繰り返されていた昔の記憶。
それらを回顧しなくなった代わりに、見るようになった夢がまた二つある。
一つは、盗賊団と商売女の目合いを目撃した夜の夢。
とうに思い出さなくなっていた幼少期のおぞましい記憶の蓋が今頃開いたきっかけに、心当たりはあった。
同時期から頻繁に見るようになっていたもう一つが、未来を抱いている夢だったから。
あくる日、飛影は未来からの預かり物を幽助へ届けるため人間界を訪れていた。急用が出来たから代わりに渡してくれと頼まれ、渋々引き受けた飛影の眉間には皺が寄っている。
“幽助から借りてた漫画今日返す約束だったの。飛影、最近全然幽助と会ってないでしょ。顔見せたら喜ぶよ!”と、半ば強引に押しつけられたのだ。
急用が出来たのは事実らしいが、久しぶりに幽助と自分を会わせようという魂胆が透けてみえ鼻についた。
目的地に到着しても飛影はしばらく高架橋の手すりの上に立ち、屋台を切り盛りしている友人を見下ろし眺めていた。
幽助は自分も酒を飲みながら酔っ払っいの中年客たちと談笑している。毎度の光景であり、これが幽助にとっての日常だ。
「幽助」
しゅたっと地面へ着地した友人の姿に気づき、幽助の目が丸くなる。
「飛影!珍しいじゃねーか、一人でか?」
「これを渡しに来ただけだ」
「ああ、未来に貸してたやつか」
飛影から渡された紙袋の中を確認し、幽助が合点する。
「じゃあな」
「飛影、新作ラーメン食べて行かねーのか?」
「いらん」
目的を果たすと、長居せず立ち去ろうとする飛影。
正直、飛影は幽助が屋台で客の相手をしている場に赴くのが好きではなかった。
酒の匂い。下品な笑い声。どれも昔の盗賊連中を想起させる。
「幽ちゃんのダチか!?」
二人のやり取りを眺めていた客の一人が、酔っ払い特有の大声で訊ねた。
「おお。コイツ、来週から彼女と同棲すんだよ」
帰ろうとした飛影の背中を、ニヤついた幽助が指さす。揶揄い半分、祝福半分の、ほんとうに軽い気持ちで。
「へえ!これから毎日ヤリまくれるってわけか!」
客の一人が叫び、ドッと場に大きな笑いが起きる。赤い顔をしたオヤジたちは「若いっていいねえ」と盛んに囃し立てた。
「な!羨ましーよなー!」
客と共にゲラゲラ笑っていた幽助だったが、氷のような目つきでこちらを睨んでいる飛影に気づいた瞬間、サーッと急速に酔いがさめていく。
「……殺されたいか」
「わ、わり、おっちゃん。その辺で勘弁してくんねーとオレらの命がやべぇ」
俺の経験則からするとなァと、聞いてもないのに同棲の心構えを語り始めていた客を慌てて幽助が制止する。
「あ、おい飛影!」
チッと舌打ちして、引き止める幽助の声を無視して飛影は跳び去った。
夜の街を駆けながら、飛影は頭の中でさっきの客たちを殺した。ついでに黒桃太郎と魔金太郎も既に故人だがもう一度殺した。百足で未来を連れ去ろうとしたという、三下妖怪たちも顔を知らないが殺しておいた。
未来を邪な目で見る男全てをこの世から消してやりたい気分だった。
実際に彼女を慰みものにしようとした奴らなど、何回殺しても足りない。
何を高尚ぶっているのだろうとも思う。自分は毎夜夢の中で彼女を汚しているくせに。
己の手によって乱れる彼女が見たいという願望がつくりだす幻想に、目覚めの度に辟易する朝が繰り返されていた。
思い出そうとしても内容は朧げだ。未来の身体の顔から下は白く靄がかかったようにぼやけていて、ただ、自分の名前を何度も呼ばれたことだけは覚えている。
求めるように、“飛影”と。
夢で終わればまだいい。
何度も実際に彼女へ手を伸ばしかけている。
頭を占めていたはずの葛藤なんか都合良く忘れ、溺れる無様な姿を何回晒したか。
今はまだ踏み止まれているが、いつか未来に咎められても止まれなくなる日がきっとくる。
その瞬間、自分は本当にあの盗賊連中や商売女たちと同じ場所に堕ちるだろう。いや、もうとっくに同じ穴のムジナなのか。
嫌悪する記憶の中の彼らとも自分とも、彼女はあまりにも不釣り合いに思えて。
頬を切る夜風の冷たさは、いっそう飛影の思考から暖を奪っていった。
***
迎えた引っ越し当日。
二人の新居は、幻海のツテで借りた2LDKのマンションの中層階の一室だ。
飛影の持ち物が皆無なことに加え、実家から未来が持ってきた私物も少なかったため、荷解きはすぐに終わると思われたが。
「おい、なんだこの気味の悪いモノは」
飛影だけでなく、リビングの壁で裏女も思いっきり顔をしかめていた。
彼らの不機嫌の原因は、部屋の真ん中に置かれた鈴木からの祝いの品にある。
「す、鈴木が作ってくれた例の家事マシンだよ」
衝撃的なマシンのビジュアルに、未来もかなり狼狽している様子だ。
「さっさとコイツをあのピエロへ返すか捨ててこい」
「ええ、せめて起動させてみてからに」
「こんなふざけたガラクタを置いておけるか!」
なんと鈴木自作の家事マシンは、彼そっくりの容姿をした等身大のロボットなのだった。ナルシストもここまでくると天晴れだ。
「うん……私もコレはないなーって正直思ったんだけど鈴木が超大作だ!誠心誠意を込めて作ったぞ!って言うからツッコめなくてさ……」
自信満々な鈴木を前に断ることなどできず、「ありがとう」と引き攣った笑顔で未来はマシンを受け取ってしまったのだった。
「名付けて家事ロボットヒロシ一号だって」
飛影の眉間の皺がさらに深く刻まれた。ツッコむ気力さえ勿体ないという心境だ。
「ま、まあとりあえず動かしてみよ!まずこのスイッチを押すんだって」
未来が胸部のスイッチを押すと、キュイーンというけたたましい音と共に瞼を開けヒロシ一号が起動した。
「ナンノゴヨウデショウカ」
「えーと、じゃあ冷蔵庫とか洗濯機とか、家電の設置してもらえる?」
「カシコマリマシタ」
マシンの口からは幸いなことに鈴木の声ではなく機械音が発せられた。
手際よく家電を取り付け片手間に掃除までするヒロシ一号に、よく出来た家事ロボットだと未来は感嘆する。
「すごーい!めちゃくちゃ便利だね!でもデザイン違うのと交換してほしいって鈴木に頼もうかな」
「そうしろ」と間髪入れず飛影が命じる。あんなのと同居だなんて耐えられない。
「今すぐオレが突っ返しに行ってもいいくらいだ」
「ま、まあ今日くらいこのまま働いてもらおうよ!」
気を取り直し、二人は荷解きに取り掛かる。裏女は次元の狭間へ昼寝をしに帰っていった。
「飛影、この写真はどこに飾る?」
未来が手に持っているのは、魔界の穴事件の打ち上げで撮影した五人の集合写真だ。
「好きにしろ」
「うーん、じゃあ玄関にしようかな?」
飛影から雪菜へ、雪菜から自分へと渡ったそれを二人の帰る場所に置いておこうと、未来は彼からプロポーズを受けた時に決めていたのだった。
今度は飛影と雪菜の兄妹ツーショットを撮ってあげたいなと、密やかに未来は思う。
「雪菜ちゃん、桑ちゃんちにホームステイして楽しそうだよ。今度一緒に遊びに行こうよ」
「行きたいなら一人で行け」
つれない返事に、やれやれと未来は肩をすくめる。
「前さ、氷河の国に行った時に飛影のお母さんは何を思ってたんだろうねって話したじゃない?」
唐突にそんな話題を持ち出した未来に、飛影は訝しげに眉を寄せた。
母はどういう経緯と意図があって自分を生んだのかと、幼少期に飛影も考えた。
妊娠が計画的だったことは明白だ。百年の分裂周期に合わせて男と交わり、周りに男児を身籠っていると出産までバレないようにしたのだから。
「考えても仕方ないと言っただろ」
「うん。そうなんだけどね」
もう彼女と言葉を交わすことは叶わないのだから、永遠に答えの出ない謎ではある。
だけど。
「当時何を考えてたかはわからないよ。けど今の元気に毎日過ごしてる飛影と雪菜ちゃんの姿を見たら、絶対お母さん喜ぶだろうなってふと思ってさ」
飛影は雷に打たれたような心境だった。そんな考え方、今まで一度たりともしたことがなかったのだ。
飛影にとって母はどこまでも無言の存在だったから。まるで彼女が零した氷泪石のように。
「自分の命と引き換えに飛影のこと生んだんだもん……」
母親の愛情が込められているから、飛影は氷泪石に癒され救われたのだと未来は考える。
「もしかしたら今も上から見守ってくれてるかもしれないね!」
「……くだらん」
そっぽを向いてそれだけ小さく呟いた飛影だったけれど、未来は穏やかに目を細めて彼の背中を見つめていたのだった。
***
飛影が洗面所の方を片付けにいき、一人リビングに残った未来は黙々と荷解きをしていた。
あらかた引っ越しが完了し、ふと部屋の隅に無造作に置かれたゴムの木が目に止まる。
「うーん……」
ぐるりと部屋を見渡して熟考した末、ベランダ近くの窓際にゴムの木を移動させる。
観葉植物が一つあるだけでリビングが落ち着いた雰囲気になり、改めて未来は時雨へ感謝した。
(あ、落ちそう)
しなしなになった一枚の葉が柳のように垂れ下がっていて、もう取っちゃった方がいいかな?と考えて。
プチっと切り取った途端、うごうごとスライムのように形態を変化させていった葉に未来は目を疑った。
「きゃあっ!」
ぬるっとした気色悪い感触もして、仰天した未来は葉から手を離しその場に尻もちをつく。
「な、何これ……」
変化を終えて動かなくなったそれを、おそるおそる窺う未来。
四角いビニールに包まれた、薄く小さな円形のものが床に落ちていた。色こそは緑だが、元々は葉であったなんて信じられない形態変化だ。
保健体育の教科書でしか見たことがないが……もしかして……。
「未来、どうした!?」
彼女の悲鳴に、何事かと廊下から飛影がとんでくる。
「何があった」
「え!えっと……その…」
歯切れの悪い未来の返事に眉を寄せる飛影だったが、彼女の足元に落ちていたそれに気づき表情を強張らせた。窓辺ではゴムの木が揺れていて、全てを悟る。
「び、びっくりした、急に葉っぱが動き出すから……」
顔を真っ赤にして動転する未来は、そう述べたきり口をつぐんだ。
飛影は気まずそうにソレから目線を逸らすと、観念したように小さくため息をつく。
後腐れのない関係を好み、病気や望まぬ妊娠を警戒する妖怪に愛用されている品だった。
しかしそこまで未来に説明するべきなのか。いや、その前に彼女へ伝えなくてはならないことがあるはずだ。
「……未来、」
「カデンノセッチ、カンリョウイタシマシタ」
意を決して話しかけた矢先、間が悪く現れたヒロシをギロリと飛影は睨みつけた。本当に忌々しいロボットだ。
「あ、ありがとう」
「ドウイタシマシテ」
未来へお辞儀をしたヒロシは、シュン…という音と共に目を閉じ動かなくなった。スリープモードに入ったらしい。
「未来、まず立て」
ヒロシが黙ると、床へ尻もちをついている未来へ飛影が手を差し伸べる。
しかし近づいてきた彼の手に、未来はビクッと大きく肩を跳ねさせた。
「あ……」
眉を顰めた飛影の表情に、すぐさま未来は己の失態に気づく。
「……自分で立てるならさっさとしろ」
「あ、飛影、違うの!」
ただ意識してしまって緊張しただけで。
けれど結果的に、飛影に怯えたような態度をとってしまった。
「どうもー!突撃隣の新婚さーん!」
ガチャリと玄関扉が開く音と共に、よく知る友人の大声が耳に飛び込んできた。
そういえば引っ越し手伝いに行くよとか何とか言ってたなと未来は思い出す。
「ぼたん!?」
「鍵開いてたからお邪魔させてもらうよ〜!無用心だねまったく」
廊下を歩いてくる足音から察するに、ぼたんの他に数人はいるようだ。
今部屋に入られたらマズいと、焦る未来は冷や汗をかく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
示し合わせたかのように飛影がサッと落ちていたソレをポケットに入れ、未来はゴムの木を隣の和室へ押し込みピシャッと襖を閉めた。見事な連携プレーである。
「なに、お取り込み中だったのかい?」
「ち、違うし!」
間一髪、ぼたんら一行がリビングへたどり着く前に証拠隠蔽に成功した。
「ワシらが手伝う必要もなく引っ越しは完了したようだな」
「綺麗な部屋ですね〜」
「じゃ、さっそく宴会始めよっか」
「和真さんは今日は用事があって来れないんですが、お二人によろしくとのことです」
キョロキョロと新居を見渡すコエンマとジョルジュ早乙女。
両手に酒の袋を下げた静流の隣で、桑原からの伝言を雪菜が告げる。
「引っ越し祝いに宅配寿司を注文しておいたぞ!」
「わあ、ありがとうございますコエンマ様!」
喜ぶ未来だったが、あろうことか窓を開けベランダに出た飛影に目を疑う。
「飛影、どこ行くの!?」
「夜までには戻る」
ベランダの桟に立った飛影は、そう言って未来が止める間もなく姿を消してしまったのだった。
***
未来と離れて頭を冷やす時間がほしかった。
雪菜やコエンマたちと騒ぐ気がなかったのもあるが、部屋を出た一番の理由はそれだ。
裏女を呼び出し魔界へ向かった飛影は、要塞内の闘技場で妖怪相手に戦闘に明け暮れた。
ひたすら身体を動かしていると、葛藤も雑念も、何もかも己の身から削げ落ちていくような錯覚に陥る。
夜には戻るとの発言通り、飛影がまた人間界に帰ってきた時には既に日はどっぷり暮れていた。
闇夜を駆け、新居のベランダに降りる。漏れ聞こえる皆の笑い声の中には未来のものも混じっていて、元気そうだと密やかに飛影は安堵した。
「あ、飛影さん。おかえりなさい」
カラカラと窓を開け部屋へ入ってきた飛影に、まず気づいたのは雪菜だった。
彼らが囲むローテーブルには空になった寿司桶やスナック菓子の袋、缶ビールや酒瓶が散乱している。
むっとした酒の匂いにまた厭悪する記憶を想起させられて、飛影の神経を逆撫でする。
開け放した窓から涼しい夜風が吹き込み徐々に空気が入れ替えられれば、覚えた苛立ちも和らいでいった。
「飛影、おかえり。トレーニング行ってたの?」
「ああ。百足へな」
勝手に出て行ってしまった飛影の行動を、未来は特に咎めはしなかった。彼が大勢で騒ぐのが好きなタイプでないことは知っているし、強制したいとは思わない。
そんな未来の対応に、健気だねぇ…とぼたんはハンカチで涙を拭う仕草をした。
「そろそろおいとましましょうかね」
「うむ、飛影も帰ってきたことだしな」
立ち上がったジョルジュ早乙女に、コエンマたちも同意し帰り支度を始める。
「ちょっと飛影!」
起動したヒロシを筆頭に皆が片付けをしている傍ら、突然ぼたんと静流に囲まれ飛影はギョッとした。こちらを見下ろす二人の目つきは鋭く、物申したいというオーラが漂う。
リビングに背を向けキッチンを片付けている未来は、そんな三人に全く気づいていない。
「未来ちゃん、ぼやいてたよ。同棲始めるの、自分はすごく楽しみにしてたのに飛影くんは全然嬉しそうじゃないって」
腕を胸の前で組み一気に捲し立てた静流の台詞に、飛影は意表を突かれた。
「自分から提案しといてひどいじゃないか!」
「照れてるんだよって諭しといたけど、ちゃんとフォローしてあげてよね」
腰に手を当て責め立てたぼたんに続き、ビシッと飛影の顔の前で指を立てて静流が忠告する。
言いたいことを言って満足したのか二人は飛影の返答を待たず、いやー今日は楽しかったねーと談笑しながら千鳥足で部屋を出て行った。相当酔っているらしく、ふらつく彼女らを慌てて雪菜やコエンマが支えている。
「また遊びに来てくださいね!」
ニコリと笑って手を振る未来の隣で、飛影も玄関先で仲間たちを見送った。
「飛影、先お風呂入ってきたら?トレーニングして汗かいたでしょ」
仲間たちが去ると、間髪入れず未来が勧める。沈黙が流れるのを恐れ避けるように。
「……ああ」
百足でも軽くシャワーを浴びてきていたのだが、飛影はバスルームへ向かった。
冷蔵庫に残り物があるから食べるかとも訊かれたが、腹は減っていないので断る。
一人になって自然と反芻するのは、先ほどの静流の発言だ。パラパラとシャワーノズルから髪を濡らし床に降る水滴を眺めながら、飛影は考える。
嬉しくなかったはずがない。そもそも一緒に暮らしたいと言い出したのは自分だ。
けれどあの二つの夢をよく見るようになった境に、盗賊たちと同じ地に堕ちる日のカウントダウンのように感じていたのも事実だった。
そんな葛藤が、無意識にでも態度に現れ未来を不安にさせていたとは完全な自分の落ち度だ。今日彼女を置いて魔界へ行ったことも相まって、罪悪感とあまりの不甲斐なさに反吐が出る。
本当に最近は、こうして自分へ苛立つ場面が多い。
「さっぱりした〜」
風呂から出て、スウェットに着替えていた飛影がソファで悶々としていると、同じく湯上がりの未来がリビングへやって来た。彼と入れ違いにバスルームを使っていたのだ。
「未来」
蒸気した頬を薄桃色に染め、パジャマ姿の未来は飛影に名前を呼ばれドキッと身構えるような表情になる。
「今日は悪かった。明日は家にいる」
短くとも、真摯な気持ちが伝わる言葉だった。
未来の瞳が、驚きで丸くなり……ほっと安堵の色が浮かんだかと思えば、柔らかく細められる。
「ほんと?……すごく嬉しい」
明日はずっと二人でいようね、約束だよ。
そんな可愛いことを言う未来に、飛影の胸はギュッと痛いくらいに締め付けられた。
傷つけたくない。絶対に。
そう、誓うように強く思う。
***
和室には布団が二枚並べられていた。落ち着いたら寝具を新調してもいいと話してはいるが、とりあえず幻海邸で居候時に使っていたものを運んできたのだ。
時計は日付が変わっていることを告げていて、どちらともなく二人褥に向かう。
「消すぞ」
「うん」
消灯すれば、ぎゅっと全身に力を込め。
布擦れの音に、小さく息をのむ。
こちらの一挙一動に、哀れなほど未来が緊張しているのが暗闇でも伝わった。昼に手を差し伸べた際、怯えたようだった彼女の姿が嫌でも脳裏に浮かぶ。
「おい」
やや尖った声に、ピクリと肩を震わせる未来。
飛影は何としても証明しなくてはならない気分に駆られていた。
「安心しろ。警戒しなくても何もせん」
そう言って、くるりと未来に背を向け横になった飛影は眠くもない瞼を閉じた。
二人きりの空間に、しんとした静寂が訪れる。
下心が一切ないと言ったら嘘になる。
けれど、あの日プロポーズしたのは……
目が覚めて一番に見る顔も。
眠る時に隣にいるのも。
未来がいいと、心から飛影が願ったからで。
「…飛影のばか……」
しばらくの無音の後、聞こえてきた言葉に飛影は目を瞬いた。絞り出されたようにか細い未来の声が、今にも泣きそうな色を帯びていたからだ。
「未来?」
慌てて身体を起こし、どうしたと呼びかけても未来はうんともすんとも言わなかった。それは拗ねているようでも、涙を堪えているようでもあって。
「……何でもない。おやすみ」
ようやく発せられた未来の台詞に、寝られるかと飛影は心の中でごちる。
保安灯を付けると現れた彼女は、こちらに背を向け布団の中で丸まり小さくなっていた。その姿は、橙色の下だといっそう儚く脆く見えて。
たまらず、飛影は未来に手をのばしていた。壊れ物を扱うようにそっと、けれど決して逃さないように強く。
背後から包まれた温もりに、歓喜で未来の胸が戦慄く。しかし厄介なことに、胸に巣くった小さな矜持が複雑な女心を刺激して、素直になる邪魔をする。
「同情でされても、惨めなだけだから」
同情?
なけなしの未来の強がりは、飛影の大きな不興をかった。彼女を抱きしめる腕に自然と力がこもる。
「そんなわけあるか」
自分が自分でなくなって……狂いそうになるほど、焦がれて欲しくてたまらないというのに。
思いのほか怒気を孕んだ声色に、未来は虚を突かれる。
飛影の声が、切ないくらい苦しげでもあったからだ。
「未来。こっちを向け」
どうしても彼女の顔が見たくなって、半ば懇願する思いで飛影は言った。
しばらく動かなかった未来だが、躊躇いがちにゆっくりと彼の腕の中で身じろぎする。
暗がりの中、真正面から受け止めることになった眼差しに揺さぶられる鼓動。ばくばくとみっともなく脈打っているのが、自分でもわかる。
薄く涙で彩られ、濡れた瞳でこちらを見つめる彼女は、収穫を心待ちにしている果実みたいで。
触れてほしいと請うているように見えるのは、とんだ自惚れなのだろうか。
「飛影……」
まるで夢の中みたいに、求めるように名を呼ばれさらに飛影は掻き乱された。
今己が抱いている激情も葛藤も、全部を肯定し受け止めるような声色であり眼差しだった。
今まで飛影にとって、それは黒桃太郎たちのように一方的に相手を嬲らんとする行為で。盗賊連中たちのように欲をぶつける行為で、そして。
母の命を奪う起因となった行為だった。
けれど……ああ、そうか。
これまで分からなかったのが嘘みたいに、ストンと飛影は腑に落ちる。
こんなに愛しい彼女の命が生み出された行為が、穢れたものなわけがないのだ。
そして思い出す。
“飛影。生まれてきてくれてありがとう”
氷河の国を訪れた際、未来から告げられた言葉を。
「未来。お前に触れたい」
飛影の骨ばった手が、そっと未来のなめらかな頬を撫でる。
「……その時は、祝いに貰った木を使う」
本当はもっと前から伝えておかなければならなかった、大事なことだった。
「うん……」
頷いた未来の唇に、我慢できないとばかりに飛影は口づけた。
いっそ以前経験があればもっと優しく余裕をもって出来るかもしれないのになんて、愚かな考えが頭を掠める。
けれどこんな風に触れたいと思うのは未来が初めてで、未来だけで。
自分に触れるのも後にも先にも未来だけがいいと、彼女の温もりに満たされながら飛影は思う。
痛みさえ幸せに変わる夜、二人はいっそう互いへの想いを募らせ通わせるのだった。