Ⅴ 飛影ルート
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✴︎98✴︎氷河の涙
八月末、皿屋敷市内のとあるカフェにて。
「本当に未来ちゃんと飛影がくっつくとはなあ」
感慨深そうに言った桑原の向かいに、未来と仕方なくといった感じで連れてこられた飛影が座っている。
「迷宮城で初めて会った時はこんな展開全く予想してなかったぜ」
「ふふ、私も。まさか飛影のことこんなに好きになるとはね」
ニヤニヤ顔の桑原に、ニコニコ微笑んでいる未来。
二人の視線にさらされて、居た堪れなくなった飛影が照れ隠しにアイスティーを飲む。
別に喉は乾いていなかったが、じっとしていられなかったのだ。
飛影だって初対面時は“幽助が連れてきた女”と認識しただけでさして興味のなかった未来に、こんなに夢中になるなんて想像もしていなかった。
あの頃の未来と飛影に、この人が運命の相手なんだよと教えても二人とも信じないだろう。
「オレはキューピッド的な役割を果たしていたわけだ!飛影、協力してやったオレに感謝しろよ!」
「貴様の世話になった覚えはない」
「あ!?色々あるだろ、あれとかそれとかこれとかよ!」
たしかに桑原からは一方的に協力してやるよ!と言われた気がするが、飛影としては頼んでもいない彼の助けなど借りた覚えはなかった。
「つーか相変わらずチビだなテメーは!ちょっとは成長したかと思ってたのによ」
「貴様の顔面も一向に改善しないな。むしろ悪化したんじゃないか?」
「テメ、よくも奇跡の美男子に向かって…!」
「フン。顔の前に目の治療が必要か」
「ああ!?テメー、表出ろ!」
「上等だ」
「ちょっと二人共落ち着いて!」
一年二カ月ぶりに顔を合わせるも、やっぱりケンカを始めてしまう桑原と飛影。
立ち上がり戦闘準備万端だった二人だが、未来に止められ互いを睨んだまま渋々席につく。
「しっかし、大会優勝したのが黄泉でも軀でもなく煙鬼とかいうおっさんとはなあ」
「意外だったよね。でも煙鬼さんが優勝して良かったと思うよ!だって彼の方針は“人間界に迷惑をかけないこと”だもん」
先日終了した魔界統一トーナメントは、故・雷禅の旧友である煙鬼が優勝を飾り幕を閉じた。
親人間派の煙鬼が魔界の長となったことは、人間と妖怪の友好的な関係への発展に繋がると未来は確信している。
「もう魔界と人間界の間の結界も解かれちまったんだろ?」
「うん。もしかしたらこの店内にも私と飛影の他に妖怪がいるかもしれないね。A級以上だったりして」
「マジかよ、久々に緊張するぜ」
「あはは、大丈夫だよ。妖怪は皆、人間に歩み寄ろうとしてるみたいだし」
結界が解かれた理由は、コエンマが霊界の上層部…すなわち自分の父親であるエンマ大王と特防隊を告発したからだ。
霊界上層部は、人間界での妖怪の悪事を洗脳や報告書で偽造し水増ししていた。
魔界を悪役にしておけば人間界を守る大義名分ができ、堂々と結界を張って霊界は領土維持できるという魂胆だ。
その事実をコエンマが突き止め明るみにしたことで結界は解かれ、妖怪は人間界と魔界を自由に行き来できるようになった。
「コエンマも苦労してんなァ」
「ぼたんが言うにはやっぱりあんまり元気ないらしいよ…。落ち着いたら差し入れでも霊界へ持って行こうかな」
「おーおー、行ったれ行ったれ。あいつ見た目に反してけっこうトシくってるからよ。老人は労わらねーとな」
桑原がコエンマを老人呼ばわりし、思わず未来が吹き出した。
「霊界といえば、雪菜さんもいるんだよな…」
急に渋い男の顔になった桑原が、宙を見上げて恋焦がれる彼女へ想いを馳せる。
「……桑ちゃんは、雪菜ちゃんに会いたい?」
「そりゃもちろんよ!」
わずかに眉をひそめた飛影を視界の端におさめつつ、未来が訊ねると当たり前だと桑原が胸を張った。
「飛影も、預かってる氷泪石返しに雪菜ちゃんに会いに行かないとね」
「そのうちな」
コソッと小声で未来が飛影に耳打ちすると、あまり気の進まない返事が返ってくる。
「で、未来ちゃんは絶賛受験勉強中か?」
「まあね。受験生に夏休みはほぼなかったよ」
しかし、息抜きに未来は螢子たち女性陣と海へ遊びに行ったし、最低週三日は飛影と会っている。
公園や幻海邸などで、短い時間でも飛影と会うことに未来は幸せを感じていた。
「実は私、こっちの大学受けようと思ってるんだ」
「い!?そんなことできんのかよ!?」
元々は違う世界の人間である未来がこちらの大学を受験するなど、手続き面で支障があり不可能だと思うのだが。
「うん。何とか受験資格もぎ取ったよ!温子さんのコネとか静流さんの圧とか」
「オレの邪眼を使ってな」
「……とんでもねーカップルだなオメーら」
平然と言ってのけた二人に、若干引き気味の桑原である。
「裏口入学ってやつか?」
「それは語弊あるよ!試験では平等に評価されるから」
人脈や邪眼を駆使して受験資格を得た未来だが、合格が保障されているわけではない。
「親御さん、よくこっちの大学受験すること許したな」
「未来の人生だから自由に好きにしなさいって。大学だけは行けって言われたけど」
三月下旬、裏女を連れて三ヶ月ぶりに帰宅した未来は、家族を説得していたのだ。
「大学をこっちにしたのは、私、将来はこっちで主に生きていきたいからさ」
どうして?なんて野暮な質問を、桑原はしなかった。
代わりに飛影の方を見て、ニタニタからかうような笑みを浮かべている。
「なんだ」
「別に~。で、学部はどうすんだ?」
「四谷大の経営学部を考えてるんだ。魔界と人間界の橋渡しになるようなことしたいってぼんやりと思ってて」
人間界の商品や食べ物を魔界で売ったり、その逆も然り。
人間界で暮らしたい妖怪に、常識を教える講座を開いたり、雇用口や住居を紹介したり。
妖怪と人間が歩み寄る未来を作るために出来ることは、無限に思い浮かんでくる。
「起業するってことか!すげーな!」
「いや、具体的なことはまだ全然考えてないし…」
大層なことを言ってしまったようで、恥ずかしくなった未来が首を横に振る。
「いいと思うぜ。人間でもあって妖怪でもある未来ちゃんなら、どっちの立場にもなれるし…未来ちゃんにしかできねーことだな!」
「桑ちゃん…!ありがとう!頑張るよ!」
「ところでよ、さっきからずっと気になってたんだが」
未来の脇に置いてある、パンパンに膨れた大きな登山用リュックサックを指差す桑原。
「未来ちゃん、今から山籠もりでもするのか?」
「未来、お前何をそんなに持ってきた?」
同じく不審に思っていた飛影が、訝し気に未来へ訊ねる。
「これから飛影と魔界の極寒の地に行くからさ、カイロとかー、トランプとか着替えとか、お腹がすいた時用の非常食とかいっぱい!」
「旅行にでも行く気か?」
サッサと行って帰る気満々だった飛影が、呆れて溜め息をつく。
「そんなものいらん。置いていけ」
「えー!?せっかく用意したのに!」
「荷物になるだけだ」
「じゃあお腹がすいたらどうするの?」
「その前に帰ればいい」
「そんな順風満帆にいくとは限らないじゃん!」
言い合いを続ける二人を、口を挟まず桑原は見守っていた。
「…桑ちゃん?」
しばらくして、黙りっぱなしの桑原に気づいた未来が、飛影へ反論するのをやめて小首を傾げる。
「オメーら、お似合いだと思うぜ」
やっぱり桑原はニヤニヤ笑っていたけれど、目だけはとても優しかった。
「魔界でデートなんて物騒だな。ま、気ーつけてな」
代金をテーブルに置き、ガタンと桑原は席を立つ。
“オメー、未来ちゃんのことが好きだよな?”
ふいに、飛影へそう問いかけた時のことが昨日のように思い出された。
「飛影。未来ちゃん大事にしろよ。泣かしたときゃ浦飯や蔵馬も黙ってねー」
「余計な世話だ。貴様に言われる筋合いはない」
「カカカ、残念ながらオレらは口出すからな!未来ちゃん悲しませたら殴りに向かうぜ!」
飛影に凄まれたところでもうちっとも恐くない桑原が、豪快に笑って一蹴する。
「浦飯チームのマドンナもってった宿命だ、飛影。じゃーな!」
カランと扉の鈴を鳴らして、桑原は店外へ出て行った。
「もう、桑ちゃんたら…」
浦飯チームのマドンナなんて称された未来は、照れてその場で小さくなってしまう。
「飛影。今日、桑ちゃんに会ってよかったね」
「さあな」
また飲み物に手を伸ばした飛影だった。
***
桑原と別れた後、飛影と未来はある人物に会うため幻海邸へ訪れていた。
「未来!これが魔界の瘴気を浄化する薬だ!一粒で半日は大丈夫だ」
「鈴木、ありがとう!わざわざ手間かけたね」
幻海邸の庭にて、カプセル型の薬が詰め込まれた小瓶を鈴木から未来は受け取る。
「これくらいさせてくれ。オレはトーナメントで倒れた未来を見て責任を感じたんだ。瘴気対策の薬を早く作っておくべきだったと」
「そんな…鈴木のせいじゃないのに」
「いや!弟子一人守れなくて師匠失格だ!」
激しく後悔した鈴木はトーナメント会場で暇な時間、薬の製作に熱中していたという。
「本当にこれで大丈夫なんだろうな」
疑いの眼差しを、飛影は鈴木と小瓶に向ける。
「自信がないならやめておけ。失敗作だったら殺すぞ」
「飛影は未来に何かあったらホントに鈴木を殺す気だよ!本気の目してるよ!」
「その小瓶、渡さない方がいいんじゃないか?」
縁側で高みの見物をしていた鈴駒と死々若丸が、鈴木へ野次を飛ばす。
「大丈夫だ!死々若と鈴駒が毒味済みだからな!」
「はあ!?」
「オイラたちそんなことした覚えないぞ!」
「知らないのも無理はない。一週間前にお前たちに配ったジュースや、なんなら昨日の夕飯にだって混入させていたからな!」
「貴様……許さん!」
「信じられない!犯罪だよ犯罪!」
何故か誇らしげに告白する鈴木に、憤慨する死々若丸と鈴駒はカンカンに怒っている。
「なっ…やめろ!暴力反対だ死々若!鈴駒!無事だったんだからいいじゃないか!」
「未来、魔界ではくれぐれも気をつけろよ。まあ飛影が一緒なら大丈夫だと思うが」
「んだ。飛影が隣にいて未来に手ー出せる奴はいねーべ」
「だっはっは!いたとしたら相当な命知らずだな!」
二人がかりでボコボコにされる鈴木を放置して、凍矢や陣、酎が未来へ話しかける。
「鈴木の薬も…まあ、大丈夫だろ。あいつ、モノ作りの腕だけは一流だからな」
「そうだね、鈴木の作品に私たち助けられてきたもん。信用してるよ」
前世の実。試しの剣。死出の羽衣。
鈴木の作った闇アイテムに、仲間たちや自分は救われてきたのだからと、未来は凍矢に頷く。
「さっさと立ちな!続けるよ!」
遠くから、幻海が若い妖怪たちへ修行をつけている声が聞こえてきた。
結界がなくなったのを機に、幻海を師と仰ぐ新しい居候がたくさん増えたのだ。
陣たち六人は居候を卒業し、トーナメント後は魔界を拠点に暮らしている。
「皆、また今日みたいにここへも遊びに来るよね?」
「ああ。絶対だ」
力強く述べた凍矢に、陣と酎も同意する。
向こうで騒いでいる三人も、きっと同じ気持ちだ。
三カ月ほどの八人暮らしで培った思い出は、皆の宝物だった。
「じゃあ、行ってくる」
気をつけて、と手を振る凍矢、陣、酎に見送られ、未来は飛影と共に庭を後にする。
「未来ー!飛影ばかりじゃなくてたまにはオイラたちもかまってね!」
「未来!またな!」
「うん!また遊ぼうね!」
鈴駒と鈴木にも笑顔で手を振る未来。
言葉は交わさなかったけれど、死々若丸ともバッチリ目が合った。
「皆ね、私の飛影への恋を見守って応援してくれたんだよ」
内緒話のように、隣を歩く飛影へ未来が伝える。
「私、いい仲間に恵まれたな。感謝しなきゃね」
「自分にか?」
「え?」
飛影の発言の意図が分からなくて、未来が小首を傾げる。
「感謝するなら自分にしとけ」
未来の人柄が、良い仲間を周りに作り築き上げていくのだと飛影は感じたのだ。
「うーん…よくわかんないけど、なんか褒めてくれてるの?」
「そう捉えたか」
「え、褒めてないの!?どっち!?どういう意味だったの!?」
混乱する未来が面白くて、カラカラと飛影が笑う。
幻海邸での自室まで来た未来は、収納していたコートやセーターを取り出し着込み、飛影にもマフラーや手袋を貸してやった。
ちなみに大きなリュックは頑として飛影がいらないと言い張り、幻海邸に置いていく運びとなった。
「じゃあ行こっか」
鈴木からもらった薬を飲むと未来が次元の穴を開け、二人は魔界へと旅立ったのだった。
***
魔界を訪れて間もなく、氷河の国は邪眼で見つかった。
厚い雲で覆われ隠された流浪の城へ、未来と飛影は降り立つ。
「未来、離れるなよ」
天空の街はごうごうと吹雪に荒れていて、視界一面が真っ白だ。
右も左も分からないような状況で、はぐれないよう未来の手を握り飛影は進む。
「つらくなったらすぐ言え」
「うん…」
雪が頬を叩きつけて痛い。
指先やつま先の感覚もなくなった。
しっかりと防寒してきたのに、それでもなお氷河の国は冷たかった。
凍えてしまうくらいの寒さを堪える未来は、飛影に腕を絡ませてしがみついている。
(ここが飛影の生まれた場所なんだ…)
皆、城の中に籠りきっているのだろう。
人っ子一人いない道を見渡しながら、飛影にくっつき未来は歩く。
未来の想像以上に氷河の国は暗くて、寒くて、冷たくて、そして寂しい場所だった。
(雪菜ちゃんも、本当ならここに一生いたんだね)
氷女が異種族と交わると、その子供は全て雄性側の性質のみを受け継ぐ男児が生まれ、しかも凶悪で残忍な性格を有する例が極めて多かった。
そして男児を生んだ氷女は例外なくその直後死に至るのだ。
種の存続の観点から考えれば、氷女が外界との交流を遮断するのも頷ける。
「未来、帰るか」
「ううん、まだ大丈夫」
墓参りに行きたいという熱意に負けてここまで来たが、元から飛影は未来に寒い思いをさせてまで氷河の国を訪れるつもりはなかった。
もう二度と足を踏み入れる気はなかった故郷へ、こうして未来を連れて帰ってきているなんて飛影は不思議な気分だった。
一度目の帰郷の時と、何ら変わらない白銀の景色。
まるでほんの少しの変化でも恐れているように、氷河の国は、氷女たちは昔も今も変わらないままそこにいる。
「このあたりのはずだ」
最初に来た時の記憶を追って、飛影は目的地にたどり着く。
城の裏角。
早桶の上に朽ちた墓標。
飛影と雪菜の母親・氷菜が眠る場所だった。
「ここが…」
隠されるように、追いやられるようにして氷河の国の隅に氷菜は弔われていた。
しかし、違和感を覚えるくらいにその一帯だけ城に遮られて、吹雪は止んでいる。
もしかしたら、雪風に曝されない場所を選んで誰かが氷菜を埋葬したのかもしれないと、期待に似た感情を未来が抱いてしまうほどには。
未来は墓へ花を手向けると、静かに手を合わせ黙とうを捧げた。
墓の裏は断崖となっており、未来が少し身を乗り出して覗けば、奈落の底に足がすくむ。
「未来、気をつけろよ」
あまり端に行くなと、飛影が未来の身体を引き寄せた。
(こんな高いところから落とされたなんて…)
産まれたばかりの赤子に、なんてひどい仕打ちだろう。
じわりと涙がこみ上げてきて、未来はすがるように飛影の胸のあたりの服を掴む。
「未来?どうした?」
未来は答える代わりに、ぎゅっと飛影に抱きついた。
トクトクと、飛影の心音が聴こえて安心する。
凍てつくような寒さでも、飛影に触れるとあたたかい。
飛影もそのまま未来を抱きしめ、落ち着かせるように頭を優しく撫でてやった。
「飛影のお母さん、何を思ってたんだろうね」
「さあな。考えても仕方ないぜ」
氷菜はどういう経緯と意図があって飛影を産んだのだろう。
愛した男との子供が欲しかったのか。
それともただ男と交わった結果だったのか。
考えたところで永遠に答えの出ない謎だった。
氷菜の妊娠が計画的だったことは明白だ。
百年の分裂周期に合わせて男と交わり、周りに男児を身籠っていると出産までバレないようにしたのだから。
心まで凍てつかせてなければ長らえない国ならいっそ滅んでしまえばいい。
雪菜と同じような感情を、氷菜も抱いていたのだろうか。
「私ね、飛影が生まれた時の話聞いてから、氷女や飛影のお母さんのこと考えるとモヤモヤしてたの」
飛影と墓標を交互に見つめて、未来は打ち明けた。
(氷女の雪菜ちゃんのためかもしれないけど、飛影が捨てられると分かっていて氷河の国に残って子供を産んだことが理解できなかった。守れないのになんでって…)
氷河の国で男児を産めば、他の氷女たちに息子が天空の断崖から投げ捨てられるか、あるいは殺されると氷菜は予測できていたはずだ。
雪菜だって、氷菜が男児を産む選択をしたことで本来なら奪われるはずのなかった母親を失ったのだ。
「でも今日ここに来たらね…飛影のお母さんが飛影のこと産んでくれてよかったって、ありがとうってそればっかり感じたんだ」
氷菜の墓の前に立っても、腹はたたなかった。
自分の命に代えても飛影を産んだ氷菜の意志と愛を、ひしひしと未来は感じた。
きっと氷菜は苦しんだ。
氷女の悲しき性質と運命に。
飛影を捨てたことは許せないが、種族を守ろうとした氷女たちの気持ちも分かる。
誰も悪くないんだと、未来は思った。
未来がまた黙とうを捧げる横で、おもむろに飛影が首に下げている氷泪石のうち一つを取り外した。
氷菜が飛影を出産した時に流した涙からできた氷泪石だ。
「飛影、それ置いてっちゃうの!?」
氷泪石を氷菜の墓に供えた飛影に、動転した未来が声をあげる。
「ああ」
「どうして?飛影が人生をかけて探してきた石なのに…!」
「オレにはもう必要ないからな」
本当はもうずっと前から…未来や幽助たちと出会ってから、飛影が氷泪石に頼る必要はなくなった。
心の拠り所は、飛影を満たすものは、石じゃないもっと別の場所にある。
氷泪石が手元になくても、母親が自分のために涙を流した事実だけ知っていれば十分だと飛影は思えるようになっていた。
たとえ飛影が忘れたって、未来が覚えているから大丈夫だ。
石の在りかも、母が子を想い泣いた事実も。
「また欲しくなれば、ここへ取りに来ればいい」
もう二度と氷泪石を欲することはないだろうと確信しながら飛影は言った。
無言の母の愛よりも、もっと鮮やかな強い愛情を飛影は見つけたのだから。
「石なら一つあれば十分だ」
飛影が指しているのは、雪菜の涙で出来た氷泪石だ。
妹の想いが込められた石もまた、飛影に母の涙を思い出させてくれる。
「本当にいいの?」
「構わん」
飛影が躊躇なく氷泪石を手放すのは、母親を蔑ろにしているからじゃない。
むしろ石を大切に想っているからこそ、墓に供えて置いていくのだ。
「じゃあ、誰かに盗られないように隠しておこう」
「ここに盗みに来れる奴はいないと思うぜ」
「念のためだよ」
飛影は未来へ氷泪石を贈ることもちらっと考えた。
けれど形見の石なんかより、未来が好みのアクセサリーをつけて着飾っていればいいと思った。
飛影が己の過去を本当の意味で受け入れたからこそ思えたことだった。
「帰るか」
未来が氷泪石を雪で覆い隠し終えると、飛影は墓に背を向ける。
「…うん」
頷いた未来と手を繋ぎ、寒さで冷たくなった唇に一度キスを落とす。
飛影は漂流するように生きてきた。
目的がなければ生きられなかった。
自分が生まれてきた意味を見出せなかったからだ。
けれど、今なら分かる。
「オレは未来に逢うために生まれてきたんだろうな」
唇を離して、飛影が呟く。
じんと胸が熱くなって、未来の瞳が潤んだ。
愛する人がいま目の前にいる奇跡を、いっぱいに噛みしめる。
「飛影。生まれてきてくれてありがとう」
こぼれ落ちた未来の涙を、飛影が指ですくう。
「それはオレの台詞だ」
告げればまた、それはぽろぽろと彼女の頬を伝って。
どんな氷泪石よりも美しい、涙だと思った。