22.熱を出した日
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「はい。」 ベッドの淵に腰を座った私は、背中を丸めるようにして座るエースの口に温めたばかりのお粥をゆっくりと運ぶ。 けれど、ぼんやりとする頭ではその意味を理解できなかったのか、エースは不思議そうに私の方を見ただけだった。 「あーん、して。食べさせてあげるから。」 「…。」 最初は、私の方をぼんやりとした表情で眺めながら、何かを考えるような様子だったエースは、少し待てば、おずおずと口を開いてくれた。 口の中にそっとお粥を入れてやれば、エースがゆっくりと咀嚼する。 とりあえず、一口だけでも食べてくれたことに、私はホッと胸を撫でおろす。 あれからそんなに時間はかからずにお粥と野菜スープが出来上がったのはいいものの、眠ってしまったエースを起こすのは忍びなかった私は、その間に、ヨーグルトやアイス、スポーツドリンクを買い足しにいったりして時間を潰した。 そうして漸くエースが目を覚ましたのは、夜の10時を過ぎた頃だった。 私がこのアパートに着いたのが7時頃だったはずだから、3時間程は眠っていたということになる。 睡眠をとって少しは身体も楽になったのか、起き上がってお粥を食べるエースは、最初にここで見た辛そうな姿よりはマシになったような気がする。 食後に薬を飲ませて、睡眠もしっかりとり、明日には熱が下がればいい。 それでも、念のため、明日は学校を休み、病院へ行くことを勧めるつもりだ。 「美味しい?」 一口だけでも食べてくれるなら———そう思って、作ったお粥だったけれど、意外にもエースは何度も素直に口を開いてくれた。 余程のことがない限り、お粥に美味しいもまずいもないだろうから、この質問には特に意味はない。 ただなんとなく、エースと会話がしたくなったのだ。 風邪でつらいのなら、無理はしなくてもいいけれど———。 「————まぁまぁ。」 チラリと私の方を見たエースは、短くそう答えるとまたお粥を求めて口を開く。 お粥の味の感想なんてそんなものだろう。 それよりも、素っ気ないのに可愛い態度が、いつものエースらしくなっていて、私はホッとする。 あれだけの高熱があった後だから、いくらファミレスのメニューを全制覇出来そうなほどの食欲のあるエースでも食べきれるか心配だったけれど、10分もかからずにお椀は空になっていた。 「おかわりもあるよ、どうする? 野菜スープも作ってあるから、そっちを飲んでもいいけど。」 空のお椀をエースから受け取りながら、訊ねる。 エースはキッチンの方を見たけれど、すぐにベッドの方へと視線をおろした。 「やめとく。」 「わかった。じゃあ、薬飲もうか。」 「え。やだ。」 用意しておいていた白湯と薬をテーブルからとって、エースに渡そうとするが断固拒否されてしまう。 意地悪だと分かっていながらも、この高熱が永遠に続いてもいいのかと脅せば、渋々、エースは薬と白湯を受け取った。 薬を飲み込んだ途端に苦そうに表情を歪めるエースを私は微笑ましく見守っていた。 意地っ張りで、世界の理不尽を悟ったような態度をとることの多いエースだけれど、こういう素直なところが、まだ彼は子供だと思わせてくれて安心する。 この素直さは、これから先、彼が大人になってからも長所になって、彼を救ってくれるはずだ。 「のんだ。」 これでいいだろとでも言いたげな不機嫌そうな表情のエースから、笑いそうになるのを必死に堪えながら、飲み終わった薬と白湯の入ったグラスを受け取る。 エースには熱を計っておくように伝えて、私はお粥のお椀とスプーンも一緒にキッチンへと持っていく。 そして、サツと食器を洗いを終わらせ、またすぐにベッドに戻り、床に膝をついて腰をおろした。 ちょうどそのタイミングで、体温計が機械音を鳴らす。 「熱はどうだった?」 訊ねながら、エースから体温計を受け取る。 そこに表示されているのは、【38.7】だった。 少しは下がってはいるけれど、まだまだ高熱だ。 お粥も完食出来る様子から、だいぶ熱も下がっているだろうと期待していたのだが、若さゆえのエネルギーだっただけなのかもしれない。 「まだ熱高いね。今夜はこのままゆっくり寝よう。」 エースの肩にそっと手を添えると、高い体温が伝わって来た。 まだこんなに熱い。座って、お粥を食べるのも本当はすごく辛かったんじゃないだろうか。 彼なりに風邪を治そうとしている健気さを感じとり、いじらしくなる。 こんなにも素直でいい子がどうして、風邪で心細い夜をひとりぼっちで過ごさなければならないんだろう———痛む胸に必死に気付かないようにしながら、私はエースをベッドの中へと促した。 「明日は行けそうなら病院へ行くんだよ? 学校は休んでいいから。一応、スマホに電話はするから出てね。」 エースがしっかりとベッドに横になったのを確認して、彼に掛布団をかけてやりながら言う。 けれど、エースはスッと目を逸らして反対の壁の方を向いてしまった。 「…覚えてたらな。」 素直なのに、素直になるのが苦手なエースらしい返事だった。 それがなんだか可愛くて、笑いそうになるのをなんとか堪える。 「約束ね。 それじゃ、私は帰るけど、ゆっくり休んで。」 今ならまだまだ終電に間に合うだろう———そう考えながら「おやすみ。」と告げて、ベッドの淵に片手をついて立ち上がろうとした。 その瞬間に、壁の方を向いていたエースが勢いよく身体を起こして、こちらに振り返った。 そして、気づいたときにはもう、私は熱い手に腕を掴まれていた。 もちろん、突然のことに私は驚いた。けれど、驚いたのは私だけではなかった。 エースも、信じられないという顔で目を見開き固まっていた。 もしかしたら、エースにとっても無意識の行動で、その理由も自分でも分かっていないのかもしれない。 けれど———。 『か、えんの…?』 寂しそうに、弱弱しく引き留めたエースが蘇る。 なんとなく、私には、今のエースの気持ちが分かるような気がした。 高熱で身体がうまく動かなくて、頭もぼんやりする。そんな時は、誰かにそばにいて欲しいと思うものだ。 そんなとき、私にはいつも家族がいた。イゾウがそばにいてくれたこともある。 でも、エースには今、私しかいない———。 「やっぱり、エースが眠るまでここにいようかな。 何かあったら心配だし。」 考え直した私は、持ち上げようとしていた腰をおろして、ベッドの淵に腰をおろした。 急に意見を変えた私に、エースは驚いたようだった。 何かを言おうとして、けれど、スッと目を逸らしてベッドへと入り込む。 「…好きにしろよ。」 私に背を向けて、また壁と向き合うように横になってしまったエースだったけれど、腕を掴んだままの熱い手から、彼の本当の気持ちが伝わって来る。 だから私は、エースの背中をトン、トンと優しく叩く。 きっとこれは、エースが産まれてほどなくして亡くなったという母親が、彼にしてあげたかったことだ。 ひとりきりで、寂しさに堪えている彼のことを、ご両親はどんな思いで見守っているのだろう。 せめて、本気で拒絶されてしまうまでは、担任でいられる時期が過ぎても、彼を守る大人のひとりでいたい。 トン、トンと優しく叩く私は、熱い背中から伝わってくる心臓の音を聞きながら、心から、そう思った。 しばらくそうしていると、エースが私に話しかけてきた。 「ほんとに、俺が寝るまでいる気か?」 そう訊ねるエースの背中はとても小さく、心細そうに見えた。 そんな背中を見ていると、ふ、とエースは自分が寝るまで誰かがそばにいてくれたことが、今まであったのだろうか。そんなことを考えてしまったのだ。 もしも、そういう大人が彼のそばにいなかったのなら、今、彼はどんな気持ちで背中に触れる私の手を感じているのだろう。 誰かがそばにいてくれるわけがないという諦め、寂しさ、でも触れている温もりへの戸惑いや不安。彼の胸に渦巻いているいろんな感情を想像しては、私は胸が締め付けられる。 そして、彼が心から誰かを愛して、誰かに愛されて、無邪気に笑う姿が見れるまで、絶対にそばにいて守らせてほしいと強く願うのだ。 「うん、エースが嫌じゃなければ、 私はそうしたいと思ってるよ。」 「俺は…、構わねぇけど。」 「そっか、ならよかった。」 「…本当か?」 「うん、本当だよ。」 「俺が寝るまで、帰らねぇの?」 「うん。」 「嘘、じゃねぇ?」 「うん、嘘じゃない。本当だよ。」 何度も何度も、小さな子供が母親に縋るみたいに、エースは私がそばにいることを確かめた。 だから私はその度に、そばにいるのだと伝え続けた。 同じ質問と答えを続けていると、エースがゆっくりとこちらに振り返った。 まだ熱があるせいなのか、頬が赤く瞳も潤んでいる。浅い息遣いも相変わらずだ。 けれど、苦しくて仕方ないように見えた表情はどこか安心したように和らいでいるように感じた。 「なら、最初から帰ろうとすんなよ。」 エースはそう言うと、掴んでいた私の腕を引っ張って、そのままベッドの中へと引きずり込む。 いきなりのことにも、16歳の男の子の力の強さにも驚いているうちに、私はエースの腕の中にすっぽりと包まれていた。 39度に近い体温は、私の身体を一気に熱くしていく。 ハッとして離れようとするけれど、イマドキの男子高生らしく華奢だと思っていたのに意外に分厚い胸板は、私が思いきり押したところでびくともしない。 「エース…!?どうし———。」 「ずっと、こうしてて。」 離して———と、そう続くはずの言葉だったのだ。 だって、男子高生とその担任の女教師がひとつのベッドの中で抱き合っているなんて、許されない。犯罪だと訴えられても、私には弁解の余地もない。 けれど、切なそうな、苦しそうに懇願するエースに、私は拒絶する言葉なんて言えなかった。 その結果、離してとも言えず、だからといってこの状況をどう受け止めればいいか分からず、ただマネキンにでもなったように動けなくなってしまった。 そんな私の腰を、エースがギュッと抱き寄せる。 「そばに、いてよ。俺のそばに、ずっと。」 ひとりぼっちはもう、いやだ————私の耳元に、エースの熱い吐息がかかる。 今にも泣き出してしまいそうな声には、精一杯の彼の切ない願いが詰まっていた。 胸が、締め付けられるようだった。 きっと、私が来るまでずっと、独りきりで高熱と戦って不安だったのだろう。 寂しくて、心細くて、亡くなった母親のことを思い出していたのかもしれない。父親のことを考えていたかもしれない。 「私はずっとエースのそばにいるよ。 ひとりになんて、絶対にしないから。」 私は、エースの背中にそっと手をまわした。 そして、抱きしめるような格好で、そのまま、エースの髪を優しく撫でる。 初めて触れるエースの髪は、癖毛な見た目とは裏腹に、とても柔らかくてフワフワしていてとても気持ちがいい。 本当に、このままずっと撫でていたいくらい———。 しばらくして聞こえて来た安心しきったような規則的な寝息に、ほっと胸を撫でおろした。 |