ローが船長室に籠るようになって、1週間が経とうとしていました。
本棚から新しい文献を取り出したローは、またデスクの椅子を引いて腰を降ろします。
1日中、こうして休みなく読み漁っているのは、大好きな医学書ではありません。
機械に生命を与えるなんて、あり得ない可能性を本気で信じた学者達が汗と血を流して残した研究結果です。
ローはもう、なまえは笑わない、なんて言いません。
だって、彼女の微笑みに見惚れてしまったのは、他の誰でもなく彼だからです。
そして、機械が人間にはなれない、なんて誰にも言わせません。
機械である彼女が笑ったのです。
データチップにはないことを、彼女はやってのけたのです。
それを奇跡と言わずに、何と呼ぶというのか———。
ローは、なまえと共に生きる未来に、一縷の望みにかけようとしているのです。
だって、誰が、奇跡は2度は起こらないと決めつけられるのでしょうか。
奇跡は、あり得ないことが起こるから〝奇跡〟と呼ぶのです。
だからいつか、きっと彼女は———。

「ロー、夜になりました。」

背中に重みが乗ってすぐに、耳元からなまえの声が聞こえてきました。
開いている文献の上に、細く長い指が5本並んだ綺麗な手が置かれて、文字を読むのを邪魔します。
それは、なまえにとって、精一杯のローへの甘え方だったのです。
でもそれは、必死に彼女との未来を探すことで精一杯の彼の心には届きません。
ローは、チッと舌打ちをすると、彼女の手を振りほどきました。

「向こうでペンギン達と遊んでろ。」
「夜にな———。」
「バーなら、ひとりで行け。」

突き放すように言って、ローはまた文献を読み始めます。
昨晩も、その前の晩も同じやり取りをしているローにとって、無駄だとしか思えない時間でした。
早く、なまえを人間にしたかったのです。
早く、早く———。
安心を、したかったのかもしれません。
なまえをひとり残して死んでいく自分なんて、もう想像したくなかったのです。
ずっと、彼女の笑顔を守り続ける方法があるのなら、どんな手でも使うつもりでした。
パタン————。
静かに閉まる扉の音は、なまえからの寂しいのサインでした。
ローには聞こえない、なまえの声だったのです。