◇32ページ◇この感情の名前は、
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ひとりきりで自宅マンションに帰って来ていた俺は、リビングのソファに背中を投げ出して横になって、ぼんやりと天井を見上げていた。
出張だったせいで、珍しく着ていたスーツ姿のままだ。
皴になってしまうのは分かっていたけれど、気にならなかった。
あれからどれくらい時間が経ったのかも分からなかったが、窓から差し込んだ夕陽は、真っ赤を通り越して、殴られた痕の痣のような紫色になって、部屋の色を変えていた。
俺のために染まっていたはずの名前の赤い頬は、一体、何だったのだろう。
名前から折り返しの電話はない。メッセージさえ届かなかった。
俺の着信が残ったままのスマホを見て、名前は何を思っているのか。
すべて、嘘だったのだろうか。演技だったのだろうか。
今までのすべてが、壮大なドッキリか。
でも、どうしてー。
横になったままで、ソファの背もたれを乱暴に殴った。
苛立っていた。
あの男が誰なのか、名前とどんな関係なのか。
気になって、知りたくなくて、ひどく、腹が立っていた。
そして、胸が痛かった。
俺は何だったのか、名前は何を考えているのか。
分からなくて、分からないままの方がいい気がして、息が、苦しかった。
名前が無邪気に笑いながら、俺の心臓を握り潰りそうとしているみたいだった。
他の男と一緒にいる名前は、今日、俺が帰ってくると知っていて、一体、どんな顔で会うつもりなのだろう。
もしかして、今までもこんなことがあったのか。
それとも、3日間の出張の間に知り合った男とー。
したくもない妄想がナイフみたいになって俺の心臓を刺し続ける痛みになんとか堪えていると、玄関の鍵が開く音がした。
それからすぐに、廊下をパタパタと走ってくる聞き慣れた音が近づいてきた。
気怠く身体をゆっくりと起こせば、買い物袋を両手にぶら下げた名前が、リビングに入って来た。
「やっぱり!靴があるから、もしかしてって思ったんです!
早かったですねっ。おかえりなさいっ。」
名前はすごく嬉しそうな笑顔を見せた。
それを、バイト終わりの名前を迎えに行って見るはずだったのだ。
他の男と過ごした後に見せられたそれを、俺はいつものように無邪気な笑顔だとは思えなかった。
俺のピリついた空気に気づかなかったのか、名前は両手に下げた買い物袋を持ち直すと、キッチンへと向きを変えようとした。
それが、あの男と一緒に立ち去っていく名前と重なった。
「ごめんなさい、買い物してたら遅くなっちゃってっ。
疲れましたよね。今すぐ、夕飯をつくー。」
気づいたら、名前の腕を掴んでいた。
驚いて振り向いた名前を、リビングのソファに引っ張って押し倒した。
重たい買い物袋が床に落ちて、林檎や南瓜、その他にも買ってきたばかりの食材のすべてが、フローリングの床の上を転がった。
何が起こったか分からない様子で目を見開いてパニック状態の名前の腰の上に馬乗りになった俺は、強引に唇を重ねた。
一瞬、驚いた名前が俺の肩を少しだけ押したけれど、すぐに抵抗を止めた。
「ん…っ、ふ…っ、ぁ…っ。」
唇の隙間から舌を滑り込ませて、強引に咥内を犯した。
ソファに背中から落ちたときに乱れてめくれ上がったスカートをこれ幸いと、俺の手は細い太ももに手を這わせた。
シャツをたくし上げて、ブラジャーの上から胸を揉みしだいた。
当然、名前はなぜこんなに乱暴なことをされているのか分からなかったはずだ。
でも、抵抗もしないで、ただ俺のすることのすべてを受け入れていた。
それなら、どうして他の男なんかとー。
(クソが…ッ。)
いつものようにただ甘く、俺を受け入れる名前に無性に腹が立った。
乱暴に名前の肩を掴んで、俺は身体を離した。
俺達の間を銀色のだらしない糸が繋いでいた。
息を止めるようなキスが終わって、名前は肩で息をしていた。
苛立ちと胸の痛み、息苦しさで、眉間に皴を寄せた俺を、名前は、高揚した頬を夕陽とは違う色で染めて、熱っぽい瞳で、ただ見つめるように見上げていた。
もっとー。
そう聞こえてきそうな、物欲しそうな表情で俺を見上げる名前は、ひどくそそられた。
僅かに開いた唇に、噛みつきたかった。
俺は、どうしようもなく、苛立っていた。
「…どうして電話に出なかった。」
「…でん、わ?」
息を切らしながら、名前が首を傾げた。
とぼけているというよりも、今のこの状況がパニックで頭がまわっていないという様子だった。
「バイト終わりに、俺から電話が来ただろ。」
「あ…ごめんなさい…。忙しくて、出られませんでした。
仕事中だったら悪いと思って、折り返しもしない方がいいかなってー。」
「他の男とのデートで忙しかったのか。」
「ほかの、おとこ…?」
名前は本当に不思議そうに首を傾げた。
そこに邪気なんてものは見えなくて、いつも通りの純粋で無垢な名前に見えた。
あぁ、いつもこうして騙されていたのか。
名前も結局、同じだった。
どんなに綺麗な女だって、裏に汚い顔を隠している。名前の無邪気で一途に見えたそれだって、ただの演技だった。
名前に裏切られていたことがショックで、見抜けなかった自分が悔しかった。
「見てんだよ。バイト帰りに男と会ってただろ。」
「あ…。」
僅かに目を開き、眉を上げた名前が、小さく声を漏らした。
さすがにそこまで見られていたと分かったら、とぼけられないと悟ったのかもしれない。
男と会っていたと認めるその反応に、俺はショックを受けていた。
この目で見ているのだから、認める認めないなんて問題ではないはずなのに。
眉間の皴がさらに深くなったのが、自分でも分かった。
「他の男に触らせた汚ぇ身体で帰って来やがってー。」
「待って、リヴァイさん。」
文句を言っている途中だったのに、名前は遮ると、俺の眉間にそっと触れた。
そして、さらに眉を顰めて訝し気に睨みつける俺に、名前は躊躇いがちに訊ねた。
「急にキスしたのも、怒ってるのも、私が他の男の人といたからですか…?」
「当たり前じゃねぇーか。怒らねぇとでも思ってたのか。」
「…はい。」
「チッ、ふざけんな。3日ぶりに会えるのを楽しみにしてたのは俺だけか。
せっかく早く帰って来たから一緒に飯でも食いに行こうかと思ったら
他の男と隠れて逢引きなんかしやがって。」
「そうだったんですか?」
「そうだったんですか、じゃねぇーよ。もう二度と飯なんか連れてってやらー。」
「そこじゃなくて。3日ぶりに会えるの、楽しみにしてたんですか?」
「お前は違ったみてぇだがな、クソが。
俺のことが好きだとか言っておいて、他の男に触られてんじゃねぇよ。
お前は俺だけ見てればいいんだ。」
「…どうしてですか?」
「どうしてって、それは・・・・。」
スラスラと怒りの理由が出てくるはずだった。
でも、俺は答えに詰まった。
それに余計にイライラして、俺は少しだけ首を傾げた後、なんとか答えを探し当てた。
「それは、お前が俺のことが好きだってー。」
「リヴァイさんのことが好きな私が、他の男の人といたら、ダメなんですか?
それで、どうしてリヴァイさんが怒るんですか?」
「・・・。」
ついに俺は、答えを失くした。
名前は真っすぐに俺を見上げて、答えを待っていた。
乱されたシャツからブラジャーをはだけさせて、俺に組み敷かれた名前の方が、まるで優位な立場にいるみたいで、気持ちが悪かった。
でも、よく考えてみれば、俺が名前にここまで腹を立てる理由が分からなかったのだ。
お試し恋人だとは言っても、お互いに、他の異性と付き合ってはいけないと約束したわけでもない。
そういう束縛が面倒だからこそ、俺はこの適当な関係を受け入れてやってもいいかという気になったのだ。
そもそも、お試し恋人という呼び名だって、名前のためにあるもので、俺は名前を妹のように思ってー。
「あぁ、そうだ…!可愛い妹が、他の男と会ってるから腹が立った。」
「リヴァイさんって、可愛い妹に無理やりキスをして、服を脱がすんですか?」
「・・・・・・・俺はひとり息子だ。もし、妹がいても、そんな趣味はねぇ。」
漸く見つけたと思った答えも、ストレートな名前の疑問で撃沈した。
だとしたら、このドロドロとした怒りは何だと言うのだ。
腹が立って、イライラして、怒りの矛先が分からないから、気分が悪い。
名前があの男に笑顔を向けていたときの映像が脳裏にチラついて、それが、心臓を握り潰そうとする。
痛い、苦しい。腹が立つ。
名前は、俺を好きだったはずなのにー。
「リヴァイさん…、もしかして、私のこと、好き…なんですか…?」
「・・・・・・・は?」
俺から、情けないくらいに間抜けな声が漏れた。
好きなのは、名前の方で、俺じゃない。
最初から、そうだったはずだ。
今では、可愛いとは思うくらいにはなったけれど、それは妹を可愛がるようなものだ。
(あぁ…でも、妹にはキスはしねぇな…。)
自分でもよくわからなくて、名前を見下ろしながら、靄がかかっている頭の中を整理しようとしていた。
そんな俺を真っすぐに見上げて、名前が躊躇いがちに口を開く。
「今の、リヴァイさんのこれって…、ヤキモチです、よね…?」
「ヤ、キモ、チ・・・?」
その言葉の意味を頭が理解出来ていなくて、まるで、知らない国の言語が口から出てきたみたいだった。
「え、違うんですか?」
逆に少し驚いた様子で名前に訊ねられてしまって、俺は声を詰まらせた。
ヤキモチという言葉の意味を、俺はちゃんと、それがどういうものかは知っている。
でも、この心がそれを知るのは初めてだった。
俺を真っすぐに見つめるなまえを見下ろしながら、ゆっくり、ゆっくりとその意味を咀嚼していった。
あぁ、そうか。俺は、ヤキモチを妬いたのか。
何かが、胸の中でストンと落ちた気がした。
そこに、名前が追い打ちをかけるように、俺の頬に触れながら甘い声で囁く。
「あの人は、私に道を尋ねただけですよ。
友人が入院してるらしくて、整形外科の入院病棟へ案内してさよならしました。
私はリヴァイさんしか見えていませんよ。って言ったら、ホッとします?」
「…あぁ。」
無意識に、俺は素直に答えてしまっていた。
すると、名前は小さく首を傾げながら、俺を見上げて言う。
「やっぱり…、それってヤキモチですよ。たぶん…。」
俺の目が見開かれていった。
ガツン、と頭を殴られた気分だった。
靄がかかっていた頭の中が、一気にクリアになって、答えがハッキリ見えた。
そうすると急に、嫉妬にまみれて、感情の奴隷になって醜い姿を晒してしまったことに気づいて、羞恥心が足の爪の先から頭のてっぺんにまで一気に駆け上がった。
それと同時に、名前に気持ちを見透かされてしまったことも、教えてもらうまで気づけなかったことも、悔しかった。
素直じゃない俺は、照れ臭さを隠すように、口を尖らせて文句を続けた。
だって、まだひとつ、気に入らないことが残っていた。
「・・・・あの男に腰抱かれてただろ。イライラはおさまってねぇ。」
「断れなかったんです…。
見てたなら、声をかけてくれたらよかったのに…。そしたらあの人も離れましたよ、きっと。
そうしなかったのは、どうしてですか?私が他の男の人と一緒にいるからヤキモチをー。」
「ヤキモチ、ヤキモチ、うるせぇ…!」
耳まで熱かった。
思春期の男子みたいに、真っ赤になってることは鏡を見なくても分かった。
ダサイ姿を見られたくなくて、痛いところばかりつく名前の正直な唇を自分の唇で塞いだ。
今度は、名前の身体を宝物を守るように抱きしめて、今もまだ俺のものだと信じて唇を貪った。
時々、酸素を吸う隙間を求めては零れる甘い吐息が、俺の耳をくすぐった。
そっと、唇を離すと、名前はとろんとした瞳で俺を見上げていた。
俺も、似たような瞳で名前を見下ろしているのだろうか。
キスの時に乱れて頬にかかってしまった名前の髪を、そっと優しくかき上げた。
「お前は俺のものだよな。」
「はい、私の心も身体もリヴァイさんのものです。世界一大好きです。」
名前が柔らかく微笑んだ。
たったそれだけで、魔法にでもかかったみたいに、一瞬前まで俺の心を支配していたドロドロとした汚い感情が、跡形もなく消え去った。
そして、後に残ったのは、名前のことが愛おしいという溢れそうなくらいの感情だけになった。
赤ん坊のように柔らかくて真っ白い名前の頬を撫でれば、この温かい感触を、他の誰にも知られたくないと思った。
俺はもう、認めるしかないようだ。
苦笑気味に口を開く。
「ヤキモチなんてもん妬いたのは、名前が初めてだ。」
「そうなんですか?だから、分かんなかったんですね。
ふふ、リヴァイさんのはじめてが私なんだ。嬉しい。」
「嬉しくなんかねぇよ、クソが。もうこれっきりにさせてくれ。」
苦笑が止まらなくて、悪戯に名前に啄むようなキスを幾つも落とした。
くすぐったそうに笑う名前が愛おしくて、可愛くて、仕方がなかった。
気持ちがハッキリした途端に、視界が開けて見えた。輝いて見えた。
俺は浮かれていた。
好きな子と両想いになれた思春期の男子みたいに、浮かれきっていた。
あの黒髪の男のことをうまく誤魔化されたことに、気づかないくらいに。
俺は、名前の笑顔しか、見えていなかった。
解けない魔法にかかって、君を永遠に愛し続けてしまった俺を
ひとり残していなくなるなんて、あんまりなんじゃない?
好き、大好き、愛してる。あと何度叫べば、君は俺に気づいていくれる?
正面玄関を出る私の足取りは軽かった。
今日、やっと、リヴァイさんが3日ぶりの出張から帰ってくる。
寝る前の「おやすみ」の声だけじゃ物足りなくて、早く会いたくて堪らなかった。
掃除に対しては引くほどストイックなのに、食に対しては全く関心のないリヴァイさんは、出張の間、ちゃんとした食事をとっていたとは思えない。
だから、今夜は腕によりをかけて美味しい夕食を作ってあげようと、頭の中でいろんなメニューのレシピが浮かんでいた。
「なまえ!」
正面玄関を出てすぐ、名前を呼ばれた。
聞き覚えのある低い響きに、私は驚いて足を止めた。
真ん中わけにしたストレートの黒髪をサラサラと風に揺らして駆け寄って来たのは、私が結ばれるべき王子様だった。
スラリと背が高く、端正な顔立ちで目を引く完璧な容姿の彼を、頬を染めた看護師や女性達の視線が追いかけていた。
「間に合ったみたいで、よかった…!
久しぶり。また綺麗になったな。
恋をしてるせい?」
私の前に立った彼は、嬉しそうに頬を緩めて、また軽い口調で慣れたことを言う。
そんな彼に、私は訊ねた。
「どうしてここにいるの?」
「バイク飛ばして来た。」
「そうじゃなくて、どうしてここが分かったの?」
「ジャン坊に聞いた。」
「よく教えてくれたね。」
「なまえの大好きな彼に俺のことバラしてやるって脅したからかな?」
「…ジャンを困らせるのはやめてよ。」
眉を顰めた私に、彼は全く思っていない様子で「ごめんごめん」と可笑しそうに笑った。
でも、今日この病院に来たのは、いつもつるんでいる友人がベタ惚れの彼女の見舞いが目的らしかった。
先日、仲間達とスキーをしにカナダまで遊びに行ったときに、骨を折ってしまって、整形外科の入院病棟に入院しているのだそうだ。
「名前がまだ病院にいれば、アイツらに紹介しようと思って。
今から時間空いてるだろ?」
「ごめんなさい、それはすべて終わってからにするわ。
私が今、何をしてるかは知ってるでしょう?
今の状態であなたの大切なお友達には会えない。」
「まぁ、そういう約束だったしな、そんな気はしてた。
紹介は、予定通り魔法が解けてからってことで。」
彼は小さく首をすぼめた。
「それじゃ、整形外科の入院病棟まで案内してよ。
久しぶりに会えたんだし、少し話そう。」
「それくらいなら。」
「よし、決まり。」
楽しそうに言いながら、とても自然な流れで私の腰に手をまわした。
整形外科の病棟に行こうとしたとき、バッグの中でスマホのバイブが震えた。
「ごめん、ちょっと待って。」
立ち止まってから、私はバッグの中をまさぐってスマホを探した。
すぐに見つかったスマホを取り出すと、表示されているのはリヴァイさんの名前だった。
意外とマメに連絡をしてくれたリヴァイさんだから、飛行機が着いたという報告かもしれない。
ここに一緒にいるのが彼じゃなかったら出たかもしれなかった。
でも、彼に余計なことを言われるのが嫌だった私は、スマホをバッグの中に戻した。
「彼だろ?出なくていいの?」
「大丈夫。」
首を横に振った私は、強がって笑った。
女の心を見抜くのが誰より得意な彼は、何も言わずに私の腰に手をまわした。
まさか、このすべてをリヴァイさんに見られていたなんて、思ってもいなかった。
自分の幸せだけのために、平然な顔で誤魔化せた私は、魔法どころか、呪いにかかっているのかもしれない。
リヴァイさんが降らせてくれるキスの雨が純粋に嬉しかった、そんな自分が怖かったー。
出張だったせいで、珍しく着ていたスーツ姿のままだ。
皴になってしまうのは分かっていたけれど、気にならなかった。
あれからどれくらい時間が経ったのかも分からなかったが、窓から差し込んだ夕陽は、真っ赤を通り越して、殴られた痕の痣のような紫色になって、部屋の色を変えていた。
俺のために染まっていたはずの名前の赤い頬は、一体、何だったのだろう。
名前から折り返しの電話はない。メッセージさえ届かなかった。
俺の着信が残ったままのスマホを見て、名前は何を思っているのか。
すべて、嘘だったのだろうか。演技だったのだろうか。
今までのすべてが、壮大なドッキリか。
でも、どうしてー。
横になったままで、ソファの背もたれを乱暴に殴った。
苛立っていた。
あの男が誰なのか、名前とどんな関係なのか。
気になって、知りたくなくて、ひどく、腹が立っていた。
そして、胸が痛かった。
俺は何だったのか、名前は何を考えているのか。
分からなくて、分からないままの方がいい気がして、息が、苦しかった。
名前が無邪気に笑いながら、俺の心臓を握り潰りそうとしているみたいだった。
他の男と一緒にいる名前は、今日、俺が帰ってくると知っていて、一体、どんな顔で会うつもりなのだろう。
もしかして、今までもこんなことがあったのか。
それとも、3日間の出張の間に知り合った男とー。
したくもない妄想がナイフみたいになって俺の心臓を刺し続ける痛みになんとか堪えていると、玄関の鍵が開く音がした。
それからすぐに、廊下をパタパタと走ってくる聞き慣れた音が近づいてきた。
気怠く身体をゆっくりと起こせば、買い物袋を両手にぶら下げた名前が、リビングに入って来た。
「やっぱり!靴があるから、もしかしてって思ったんです!
早かったですねっ。おかえりなさいっ。」
名前はすごく嬉しそうな笑顔を見せた。
それを、バイト終わりの名前を迎えに行って見るはずだったのだ。
他の男と過ごした後に見せられたそれを、俺はいつものように無邪気な笑顔だとは思えなかった。
俺のピリついた空気に気づかなかったのか、名前は両手に下げた買い物袋を持ち直すと、キッチンへと向きを変えようとした。
それが、あの男と一緒に立ち去っていく名前と重なった。
「ごめんなさい、買い物してたら遅くなっちゃってっ。
疲れましたよね。今すぐ、夕飯をつくー。」
気づいたら、名前の腕を掴んでいた。
驚いて振り向いた名前を、リビングのソファに引っ張って押し倒した。
重たい買い物袋が床に落ちて、林檎や南瓜、その他にも買ってきたばかりの食材のすべてが、フローリングの床の上を転がった。
何が起こったか分からない様子で目を見開いてパニック状態の名前の腰の上に馬乗りになった俺は、強引に唇を重ねた。
一瞬、驚いた名前が俺の肩を少しだけ押したけれど、すぐに抵抗を止めた。
「ん…っ、ふ…っ、ぁ…っ。」
唇の隙間から舌を滑り込ませて、強引に咥内を犯した。
ソファに背中から落ちたときに乱れてめくれ上がったスカートをこれ幸いと、俺の手は細い太ももに手を這わせた。
シャツをたくし上げて、ブラジャーの上から胸を揉みしだいた。
当然、名前はなぜこんなに乱暴なことをされているのか分からなかったはずだ。
でも、抵抗もしないで、ただ俺のすることのすべてを受け入れていた。
それなら、どうして他の男なんかとー。
(クソが…ッ。)
いつものようにただ甘く、俺を受け入れる名前に無性に腹が立った。
乱暴に名前の肩を掴んで、俺は身体を離した。
俺達の間を銀色のだらしない糸が繋いでいた。
息を止めるようなキスが終わって、名前は肩で息をしていた。
苛立ちと胸の痛み、息苦しさで、眉間に皴を寄せた俺を、名前は、高揚した頬を夕陽とは違う色で染めて、熱っぽい瞳で、ただ見つめるように見上げていた。
もっとー。
そう聞こえてきそうな、物欲しそうな表情で俺を見上げる名前は、ひどくそそられた。
僅かに開いた唇に、噛みつきたかった。
俺は、どうしようもなく、苛立っていた。
「…どうして電話に出なかった。」
「…でん、わ?」
息を切らしながら、名前が首を傾げた。
とぼけているというよりも、今のこの状況がパニックで頭がまわっていないという様子だった。
「バイト終わりに、俺から電話が来ただろ。」
「あ…ごめんなさい…。忙しくて、出られませんでした。
仕事中だったら悪いと思って、折り返しもしない方がいいかなってー。」
「他の男とのデートで忙しかったのか。」
「ほかの、おとこ…?」
名前は本当に不思議そうに首を傾げた。
そこに邪気なんてものは見えなくて、いつも通りの純粋で無垢な名前に見えた。
あぁ、いつもこうして騙されていたのか。
名前も結局、同じだった。
どんなに綺麗な女だって、裏に汚い顔を隠している。名前の無邪気で一途に見えたそれだって、ただの演技だった。
名前に裏切られていたことがショックで、見抜けなかった自分が悔しかった。
「見てんだよ。バイト帰りに男と会ってただろ。」
「あ…。」
僅かに目を開き、眉を上げた名前が、小さく声を漏らした。
さすがにそこまで見られていたと分かったら、とぼけられないと悟ったのかもしれない。
男と会っていたと認めるその反応に、俺はショックを受けていた。
この目で見ているのだから、認める認めないなんて問題ではないはずなのに。
眉間の皴がさらに深くなったのが、自分でも分かった。
「他の男に触らせた汚ぇ身体で帰って来やがってー。」
「待って、リヴァイさん。」
文句を言っている途中だったのに、名前は遮ると、俺の眉間にそっと触れた。
そして、さらに眉を顰めて訝し気に睨みつける俺に、名前は躊躇いがちに訊ねた。
「急にキスしたのも、怒ってるのも、私が他の男の人といたからですか…?」
「当たり前じゃねぇーか。怒らねぇとでも思ってたのか。」
「…はい。」
「チッ、ふざけんな。3日ぶりに会えるのを楽しみにしてたのは俺だけか。
せっかく早く帰って来たから一緒に飯でも食いに行こうかと思ったら
他の男と隠れて逢引きなんかしやがって。」
「そうだったんですか?」
「そうだったんですか、じゃねぇーよ。もう二度と飯なんか連れてってやらー。」
「そこじゃなくて。3日ぶりに会えるの、楽しみにしてたんですか?」
「お前は違ったみてぇだがな、クソが。
俺のことが好きだとか言っておいて、他の男に触られてんじゃねぇよ。
お前は俺だけ見てればいいんだ。」
「…どうしてですか?」
「どうしてって、それは・・・・。」
スラスラと怒りの理由が出てくるはずだった。
でも、俺は答えに詰まった。
それに余計にイライラして、俺は少しだけ首を傾げた後、なんとか答えを探し当てた。
「それは、お前が俺のことが好きだってー。」
「リヴァイさんのことが好きな私が、他の男の人といたら、ダメなんですか?
それで、どうしてリヴァイさんが怒るんですか?」
「・・・。」
ついに俺は、答えを失くした。
名前は真っすぐに俺を見上げて、答えを待っていた。
乱されたシャツからブラジャーをはだけさせて、俺に組み敷かれた名前の方が、まるで優位な立場にいるみたいで、気持ちが悪かった。
でも、よく考えてみれば、俺が名前にここまで腹を立てる理由が分からなかったのだ。
お試し恋人だとは言っても、お互いに、他の異性と付き合ってはいけないと約束したわけでもない。
そういう束縛が面倒だからこそ、俺はこの適当な関係を受け入れてやってもいいかという気になったのだ。
そもそも、お試し恋人という呼び名だって、名前のためにあるもので、俺は名前を妹のように思ってー。
「あぁ、そうだ…!可愛い妹が、他の男と会ってるから腹が立った。」
「リヴァイさんって、可愛い妹に無理やりキスをして、服を脱がすんですか?」
「・・・・・・・俺はひとり息子だ。もし、妹がいても、そんな趣味はねぇ。」
漸く見つけたと思った答えも、ストレートな名前の疑問で撃沈した。
だとしたら、このドロドロとした怒りは何だと言うのだ。
腹が立って、イライラして、怒りの矛先が分からないから、気分が悪い。
名前があの男に笑顔を向けていたときの映像が脳裏にチラついて、それが、心臓を握り潰そうとする。
痛い、苦しい。腹が立つ。
名前は、俺を好きだったはずなのにー。
「リヴァイさん…、もしかして、私のこと、好き…なんですか…?」
「・・・・・・・は?」
俺から、情けないくらいに間抜けな声が漏れた。
好きなのは、名前の方で、俺じゃない。
最初から、そうだったはずだ。
今では、可愛いとは思うくらいにはなったけれど、それは妹を可愛がるようなものだ。
(あぁ…でも、妹にはキスはしねぇな…。)
自分でもよくわからなくて、名前を見下ろしながら、靄がかかっている頭の中を整理しようとしていた。
そんな俺を真っすぐに見上げて、名前が躊躇いがちに口を開く。
「今の、リヴァイさんのこれって…、ヤキモチです、よね…?」
「ヤ、キモ、チ・・・?」
その言葉の意味を頭が理解出来ていなくて、まるで、知らない国の言語が口から出てきたみたいだった。
「え、違うんですか?」
逆に少し驚いた様子で名前に訊ねられてしまって、俺は声を詰まらせた。
ヤキモチという言葉の意味を、俺はちゃんと、それがどういうものかは知っている。
でも、この心がそれを知るのは初めてだった。
俺を真っすぐに見つめるなまえを見下ろしながら、ゆっくり、ゆっくりとその意味を咀嚼していった。
あぁ、そうか。俺は、ヤキモチを妬いたのか。
何かが、胸の中でストンと落ちた気がした。
そこに、名前が追い打ちをかけるように、俺の頬に触れながら甘い声で囁く。
「あの人は、私に道を尋ねただけですよ。
友人が入院してるらしくて、整形外科の入院病棟へ案内してさよならしました。
私はリヴァイさんしか見えていませんよ。って言ったら、ホッとします?」
「…あぁ。」
無意識に、俺は素直に答えてしまっていた。
すると、名前は小さく首を傾げながら、俺を見上げて言う。
「やっぱり…、それってヤキモチですよ。たぶん…。」
俺の目が見開かれていった。
ガツン、と頭を殴られた気分だった。
靄がかかっていた頭の中が、一気にクリアになって、答えがハッキリ見えた。
そうすると急に、嫉妬にまみれて、感情の奴隷になって醜い姿を晒してしまったことに気づいて、羞恥心が足の爪の先から頭のてっぺんにまで一気に駆け上がった。
それと同時に、名前に気持ちを見透かされてしまったことも、教えてもらうまで気づけなかったことも、悔しかった。
素直じゃない俺は、照れ臭さを隠すように、口を尖らせて文句を続けた。
だって、まだひとつ、気に入らないことが残っていた。
「・・・・あの男に腰抱かれてただろ。イライラはおさまってねぇ。」
「断れなかったんです…。
見てたなら、声をかけてくれたらよかったのに…。そしたらあの人も離れましたよ、きっと。
そうしなかったのは、どうしてですか?私が他の男の人と一緒にいるからヤキモチをー。」
「ヤキモチ、ヤキモチ、うるせぇ…!」
耳まで熱かった。
思春期の男子みたいに、真っ赤になってることは鏡を見なくても分かった。
ダサイ姿を見られたくなくて、痛いところばかりつく名前の正直な唇を自分の唇で塞いだ。
今度は、名前の身体を宝物を守るように抱きしめて、今もまだ俺のものだと信じて唇を貪った。
時々、酸素を吸う隙間を求めては零れる甘い吐息が、俺の耳をくすぐった。
そっと、唇を離すと、名前はとろんとした瞳で俺を見上げていた。
俺も、似たような瞳で名前を見下ろしているのだろうか。
キスの時に乱れて頬にかかってしまった名前の髪を、そっと優しくかき上げた。
「お前は俺のものだよな。」
「はい、私の心も身体もリヴァイさんのものです。世界一大好きです。」
名前が柔らかく微笑んだ。
たったそれだけで、魔法にでもかかったみたいに、一瞬前まで俺の心を支配していたドロドロとした汚い感情が、跡形もなく消え去った。
そして、後に残ったのは、名前のことが愛おしいという溢れそうなくらいの感情だけになった。
赤ん坊のように柔らかくて真っ白い名前の頬を撫でれば、この温かい感触を、他の誰にも知られたくないと思った。
俺はもう、認めるしかないようだ。
苦笑気味に口を開く。
「ヤキモチなんてもん妬いたのは、名前が初めてだ。」
「そうなんですか?だから、分かんなかったんですね。
ふふ、リヴァイさんのはじめてが私なんだ。嬉しい。」
「嬉しくなんかねぇよ、クソが。もうこれっきりにさせてくれ。」
苦笑が止まらなくて、悪戯に名前に啄むようなキスを幾つも落とした。
くすぐったそうに笑う名前が愛おしくて、可愛くて、仕方がなかった。
気持ちがハッキリした途端に、視界が開けて見えた。輝いて見えた。
俺は浮かれていた。
好きな子と両想いになれた思春期の男子みたいに、浮かれきっていた。
あの黒髪の男のことをうまく誤魔化されたことに、気づかないくらいに。
俺は、名前の笑顔しか、見えていなかった。
解けない魔法にかかって、君を永遠に愛し続けてしまった俺を
ひとり残していなくなるなんて、あんまりなんじゃない?
好き、大好き、愛してる。あと何度叫べば、君は俺に気づいていくれる?
正面玄関を出る私の足取りは軽かった。
今日、やっと、リヴァイさんが3日ぶりの出張から帰ってくる。
寝る前の「おやすみ」の声だけじゃ物足りなくて、早く会いたくて堪らなかった。
掃除に対しては引くほどストイックなのに、食に対しては全く関心のないリヴァイさんは、出張の間、ちゃんとした食事をとっていたとは思えない。
だから、今夜は腕によりをかけて美味しい夕食を作ってあげようと、頭の中でいろんなメニューのレシピが浮かんでいた。
「なまえ!」
正面玄関を出てすぐ、名前を呼ばれた。
聞き覚えのある低い響きに、私は驚いて足を止めた。
真ん中わけにしたストレートの黒髪をサラサラと風に揺らして駆け寄って来たのは、私が結ばれるべき王子様だった。
スラリと背が高く、端正な顔立ちで目を引く完璧な容姿の彼を、頬を染めた看護師や女性達の視線が追いかけていた。
「間に合ったみたいで、よかった…!
久しぶり。また綺麗になったな。
恋をしてるせい?」
私の前に立った彼は、嬉しそうに頬を緩めて、また軽い口調で慣れたことを言う。
そんな彼に、私は訊ねた。
「どうしてここにいるの?」
「バイク飛ばして来た。」
「そうじゃなくて、どうしてここが分かったの?」
「ジャン坊に聞いた。」
「よく教えてくれたね。」
「なまえの大好きな彼に俺のことバラしてやるって脅したからかな?」
「…ジャンを困らせるのはやめてよ。」
眉を顰めた私に、彼は全く思っていない様子で「ごめんごめん」と可笑しそうに笑った。
でも、今日この病院に来たのは、いつもつるんでいる友人がベタ惚れの彼女の見舞いが目的らしかった。
先日、仲間達とスキーをしにカナダまで遊びに行ったときに、骨を折ってしまって、整形外科の入院病棟に入院しているのだそうだ。
「名前がまだ病院にいれば、アイツらに紹介しようと思って。
今から時間空いてるだろ?」
「ごめんなさい、それはすべて終わってからにするわ。
私が今、何をしてるかは知ってるでしょう?
今の状態であなたの大切なお友達には会えない。」
「まぁ、そういう約束だったしな、そんな気はしてた。
紹介は、予定通り魔法が解けてからってことで。」
彼は小さく首をすぼめた。
「それじゃ、整形外科の入院病棟まで案内してよ。
久しぶりに会えたんだし、少し話そう。」
「それくらいなら。」
「よし、決まり。」
楽しそうに言いながら、とても自然な流れで私の腰に手をまわした。
整形外科の病棟に行こうとしたとき、バッグの中でスマホのバイブが震えた。
「ごめん、ちょっと待って。」
立ち止まってから、私はバッグの中をまさぐってスマホを探した。
すぐに見つかったスマホを取り出すと、表示されているのはリヴァイさんの名前だった。
意外とマメに連絡をしてくれたリヴァイさんだから、飛行機が着いたという報告かもしれない。
ここに一緒にいるのが彼じゃなかったら出たかもしれなかった。
でも、彼に余計なことを言われるのが嫌だった私は、スマホをバッグの中に戻した。
「彼だろ?出なくていいの?」
「大丈夫。」
首を横に振った私は、強がって笑った。
女の心を見抜くのが誰より得意な彼は、何も言わずに私の腰に手をまわした。
まさか、このすべてをリヴァイさんに見られていたなんて、思ってもいなかった。
自分の幸せだけのために、平然な顔で誤魔化せた私は、魔法どころか、呪いにかかっているのかもしれない。
リヴァイさんが降らせてくれるキスの雨が純粋に嬉しかった、そんな自分が怖かったー。