掃除機だけでは部屋は綺麗にならない。
大事なのは、床拭きだ。
きつく絞った雑巾に手を添えて、俺はリビングの床を磨いていた。
まるで、頭の中にある雑念も消そうとしているみたいに、ただひたすらに、必死に手を動かしていると、ローテーブルの上でスマホがバイブを鳴らして震えた。
着信ではなくLINEのメッセージを受信したようだった。
ポップアップに名前の名前を見つけて、俺はすぐにトーク画面を開いた。

【ファーランさんがホテルをとってくれていたので、
　今夜は泊まってきます。】

表示されたメッセージに、心臓を捻り潰されそうだった。
それなのに俺は、誰も見ていないひとりきりの部屋でも冷静なフリをして、表情も変えなかった。
この世で最も冷酷な男にでもなったみたいに、指だけが動いて、短い文章を作る。

【分かった。】

送信の文字を押そうとして初めて、親指が動きを止めた。
俺の脳が、押せ、と指令を出しているはずなのに、まるで何かに押さえつけられているみたいに、指がピクリとも動かないのだ。
短い文章を送るだけだ。
なんてことない文字を送るだけなのに、どうしてこんなに躊躇してしまうのか。
ただ、送信ボタンを押すだけだ。
そうしたら、名前がホテルに泊まるだけだ。
親友の男と一緒にホテルに泊まって、抱かれるだけのことだ。
ファーランなら大切にしてくれる、そう思ったから名前も受け入れたに違いない。
嫌なら、嫌と言えばいいだけだし、そうしないということは、それでもいいと思ったということだ。

『私は、好きでもない男の人と2人きりになっても平気な女じゃありませんから…！』

涙を流して、最後の悲鳴のように上げた名前の声が蘇った。
ダメだー。
送信ボタンを押せなかった。

「クソ…ッ！」

誰に向かってか、苛立ったまま悪態を吐いた俺は、メッセ―ジを送らないままのスマホをズボンの後ろポケットに雑に押し込むと、チェストの上に置いていた財布と鍵をひったくるように持って、外へ飛び出した。