◇74ページ◇内緒
Name change
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懐かしい紅茶の香りのするティーカップの上でユラユラ揺れていた白い湯気は、もうとっくに消えていた。
ティーカップに残った紅茶をちびちびと少しずつしか飲もうとしないのは、冷めて美味しくなくなったからじゃない。
飲み干してしまったら、魔法が終わってしまうと分かっていたからだ。
だって、名前のティーカップはもう随分前に空になったのに、新しく淹れ直そうとはしていない。
俺が飲み干すのを待っているようだった。
早く帰ってくれと思っているのかもしれないー。
そう思いながらも、気付かないフリをして、俺は、懐かしい病室を見渡していた。
こんな遅い時間にこの病室に入ったことはなかったから、大きな窓の向こうの庭園越しにこんなに綺麗な夜景が見えるなんて知らなかった。
でも、大きなソファもテレビも、何もかもが揃っている部屋は懐かしいままだ。
名前も俺のことを先生と呼ぶから、本当に時間だけが巻き戻ったみたいだ。
「夜景を見るなら、もっと近くで見た方が綺麗ですよ。」
何を勘違いしたのか、名前はそう言うとソファから立ち上がった。
そして、大きな窓辺に立って、俺を手招きした。
自慢気な顔が愛おしくて、俺は相変わらず名前の思いのままだった。
手招きされるままに窓辺に立った俺は、すぐに夜景に視線を向けた。
エルディア病院の最上階からの景色は、確かにすごく綺麗だったと思う。
でも俺は、隣に立つ名前が気になってそれどころじゃなかった。
名前が立っている側の俺の左半身だけが妙に熱くなって、初恋に戸惑う思春期の少年みたいに緊張していた。
「ね、すごく綺麗ですよね。もう0時を過ぎてるのに
明かりがキラキラ輝いてて。永遠に解けない魔法の世界みたい。」
魔法という言葉に反応して、俺は名前の方を向いてしまった。
名前は窓に手を添えて、うっとりとした顔で夜景を見つめていた。
すると、俺の視線に気づいた名前が、照れ臭そうに口を開いた。
「魔法なんて、変なヤツだって思いましたね?」
「…いや、思わねぇよ。俺も同じだから。」
そう言って、俺はまた視線を窓の外の世界に戻した。
隣で名前が驚いていた反応をしたのは、なんとなく気配で分かった。
俺みたいな男が、魔法の世界みたいだと思ったなんて、驚くというか、気持ち悪いなー。
そんなこと思って、俺はなんとか苦笑を飲み込んだ。
「私の家族はみんな、私が魔法とか言うと子供じゃないんだからって叱るんです。
だから、笑わないで聞いてくれて、すごく嬉しい。」
嬉しそうな声だったから、どんな顔をしているのか見たくて、俺は視線だけを横にずらして、そっと盗み見た。
窓の外を見ている名前の横顔は、嬉しそうに頬を緩めていて、嬉しかったのは俺の方だった。
「そうだ!リヴァイ先生に私のとっておきの宝物を見せてあげます!」
また何か思いついたらしく、楽しそうに言った名前は、俺を残してベッドの方へと小走りで駆けて行った。
そして、すぐに、大事そうに宝物というのを抱えて戻って来た。
まるで、赤ん坊でも抱くように大切に両手に乗せているのは、片方だけのガラスの靴だった。
去年のクリスマスに俺から名前にプレゼントして、片方はキクに捨てられてしまって、残った片方のガラスの靴も、名前と共に消えた。
今も大事に持っていてくれたことは、嬉しいのか、余計に虚しいのか、自分でも分からなかった。
「すごく綺麗でしょう?私の宝物なんです。」
名前は両手の上に乗せたガラスの靴を、とても自慢気に俺に見せた。
「あぁ、そうだな。
…それ、どうしたんだ?」
覚えているわけがない、と思いながら、俺は訊いてしまった。
だって、愛おしそうにガラスの靴を見つめる名前の瞳が、あの頃と変わらなかったのだ。
でも、名前は分からないと首を横に振った。
「私、実は記憶喪失なんです。」
「そうなのか。」
「あれ?あんまり驚かないんですね。」
「まぁ…、医者をしてたらいろんな病人がいるからな。」
「あ~、そっか。
それでコレ、記憶喪失になる前に私が一人暮らししてた家にあったらしいんですけど、
何で持ってるのか覚えてないんですよね。分かるのは、コレが私の宝物だってことだけなんです。」
名前はそう言って、ガラスの靴を持っている両手を少し持ち上げた。
やっぱり、ガラスの靴を見つめる愛おしそうな瞳は、あの頃と同じ。
そこまで覚えているのに、どうしてそれを贈ったのがすぐ隣にいる男だと思い出してくれないのだろう。
「私の幼馴染が教えてくれたんです。
記憶喪失になる前に発作を起こして倒れたとき、私、このガラスの靴を抱きしめてたって。」
こうやってー。
名前はそう言いながら瞳を閉じて、ガラスの靴を胸に押しつけるようにしてギュッと抱きしめた。
数秒そうした後、瞳を閉じたままで続けた。
「たぶん、私、唯一、魔法が解けないガラスの靴を抱きしめて願ったんだと思うんです。
まだ消えないで、大好きな人を出来るだけ長く、覚えていたいの。
できれば、ガラスの靴のように永遠に消えないで…。」
相変わらずガラスの靴を抱きしめたままの名前の声は、静かな部屋にひどく切なく響いて胸が締め付けられた。
あのとき、名前がそんなことを思いながらガラスの靴を抱きしめ、1人きりで消えていったのなら、やりきれない。
発作を起こして倒れた名前のそばにいてやれなかったことも、こうして隣にいても、話を聞くしか出来ない自分のことも、本当は悔しくて仕方がないのだ。
今さらもう遅いと分かっている。
それでも、この手を伸ばして名前を抱きしめれば、助けることが出来るだろうか。
記憶を失うことに震えていた名前を、俺と名前の恋をー。
分かっている。
今さらもう遅いと、分かっているのだ。
でも、諦めの悪い俺の心と手は、名前へと伸びていく。
もう少しで細い肩に触れそうなとき、名前がゆっくりと瞼を押し上げた。
俺は慌てて、伸ばした手を引っ込めた。
何をやっているのだろうー。
呆れと虚しさでやりきれない気持ちになった。
そんな俺の気持ちなんて知る由もなく、名前は抱きしめるガラスの靴を見下ろしながら言う。
「ずっと大切に持っていたら、このガラスの靴を目印にして
魔法使いさんが私を見つけてくれる気がするんです。
だから、これは私の宝物なの。」
「ガラスの靴を目印にして見つけてくれるのは、
魔法使いじゃなくて王子だろ。」
名前の目を見ているフリをして、俺はガラスの靴に視線をズラしていた。
それは、自分に言い聞かせた言葉だった。
名前の人生の中に俺の役名があるのなら、王子と幸せにならなくちゃいけないお姫様を助けるためにほんの一時の時間を一緒に過ごすだけの魔法使いでしかない。
お姫様が綺麗になったら、カボチャの馬車に乗せて「幸せになって。」と手を振らなくちゃいけない。
「あ、そっか。そうですね。」
名前が可笑しそうに笑った。
あの頃の名前なら、魔法使いがいいと言ってくれたのにー。
変わっていない姿を見たかと思ったら、俺の知らない名前がいる。
それでも、ほんの1秒だって長く一緒にいたいと思っているのだから、笑えてしまう。
「でも、」
アハハと笑った名前は、なぜか寂しそうな顔をすると、また窓の外を眺めだした。
思わず、俺もその視線を追いかけて窓の外を見た。
相変わらず綺麗な夜景は、クリスマスイルミネーションに着飾られて、確かに魔法の世界のように幻想的だった。
でも、俺はもっと綺麗な夜景を知っている。
シンデレラ城が青と白でキラキラと輝いて、妖精が夜空を舞う美しい世界だ。
去年の今日、名前も一緒に見たはずなのに、俺1人だけの想い出になってしまった。
「ねぇ、リヴァイ先生。この病院って最高の立地にあるし、
この病室から見える夜景が魔法の世界に一番近いと思いませんか。」
「いや。」
「えー、ヒドイなぁ。私はそう思うのになぁ。
だから、絶対にこの病室がいいって我儘言っちゃったんです。
そしたら、クリスマスを病室で過ごす羽目になっちゃったんですけどね。」
名前の苦笑が、窓ガラスに映った。
「我儘なお姫様だな。」
「アハハ、リヴァイ先生がお姫様って言うとなんか可笑しいですね。」
可笑しそうにクスクスと笑う名前に、俺は首をすぼめた、フリをした。
本当は久しぶりに見た無邪気な笑顔を記憶に焼き付けたくて、必死だった。
好きなだけ笑った後、名前は病室の方を振り返ると、大きな窓に背中を預けた。
そして、扉の方をじっと見つめながら口を開いた。
「でも、我儘なお姫様だと思われようが、彼のママに呆れられようが、絶対にこの病室がよかったんです。
魔法の世界に一番近いここで待ってれば、魔法使いさんが会いに来てくれる気がするから。
-なんて、バカですね。子供みたいですよね。」
名前は照れ臭そうに言って、頬を掻いた。
「思わねぇよ。お前が早く魔法使いを見つけられたらいいと思ってる。」
「ふふ、リヴァイ先生は優しいですね。
なんとなく、リヴァイ先生になら笑われないような気がしたんです。
あ、でも、大人にもなって魔法使いに会いたいなんて恥ずかしいから、誰にも内緒ですよ?」
「あぁ、分かった。」
名前はホッとしたように胸を撫でおろした。
そして、もう一度、ガラスの靴を胸に押しつけて抱きしめながら、病室の扉をじっと見つめた。
「魔法使いが本当に来たら、何をお願いするんだ?」
「記憶を、戻して欲しいです。
全部は無理だって言われたら、たったひとつでもいいです。」
「ひとつでいいのか?」
「はい。出来れば全部がいいけど、どれかひとつって言われたら
選ぶ記憶なら決まってますから。」
「どの記憶にするんだ?」
「私の人生で一度きりの大切な恋の記憶です。
幼馴染から聞いたんです。私は、とっても素敵な恋をしていたんだよって。
私も記憶はないけど、それだけはなんとなく覚えているんです。大好きで大好きで仕方がなかったこと。」
名前は頬の染まる顔を恥ずかしそうに隠すように、少しだけ目を伏せた。
落ちた重たい睫毛のせいかもしれない。
なぜかその横顔が、すごく寂しそうに見えたのだ。
もしかして、今の男のことは、大好きで大好きで仕方がないわけではないのだろうか。
俺のことはー。
あぁ、もうそんなことはどうでもいいのだ。
「永遠に解けない魔法がいいなぁ…。」
小さく呟くように零れた声は、微かに俺の耳に届いただけだった。
きっとそれは心の声が漏れただけで、俺に言ったわけじゃなかったのだろう。
いつの間にか時計の針は、魔法が解けるはずだった0時を大きく過ぎて1時を回っていた。
ガラスの靴を抱きしめる名前の肩に触れると、そのまま抱き寄せた。
そうして、驚いた様子だった名前を腕の中に閉じ込めた。
「あ、あの…っ。リヴァイ先生…?」
「誕生日を祝ってくれてありがとうな。
嬉しかった。」
「いえ…。それなら、よかったです。」
俺の腕の中で戸惑う名前の気配を感じていたけれど、離してやる気はなかった。
婚約者がいるのに、他の男に抱きしめられて平気な女じゃないことくらい分かっている。
そういう一途で誠実なところが、いつも可愛いと思っていたのだ。
「明日、0時を過ぎたら、また会いに来る。」
最後にそれだけ言って、俺は身体を離した。
緊張から解放された名前は、俺の方を見ないで目を伏せていた。
今、何を考えているのだろう。
知りたいけれど、知りたくなかった。
「それじゃ、また明日。
-あ、それから、」
一度は背を向けた俺だったが、大切なことを言っていないのを思い出した。
振り返ると、名前はさっきまで伏せていた顔を上げていた。
そして、俺と目が合うと、驚いて僅かに目を見開いた。
「今夜、俺に会ったことも誰にも内緒だ。
約束出来るか?」
俺は、名前の唇に俺の人差し指を押しあてた。
名前は、僅かに見開いた目で俺を見つめたまま固まってしまった。
少し待てば、意味が分からないという顔をしていたが、コクリと静かに頷いた。
「約束な。ーおやすみ。」
頬をひと撫でして、俺は呆然としている名前を残して病室を出た。
病室の扉に背を預けて大きく息を吐き出せば、緊張して強張っていた身体から力が抜けていった。
会いに来ると言った俺に、名前はどういう気持ちで頷いたのだろうー。
カボチャの馬車を見送った魔法使いが
シンデレラを忘れられないことは内緒にしてなきゃダメかな
ふわりと甘い紅茶の香りが私を包んだ。
腕の中は温かくて、首元に感じる吐息が熱かった。
視界の端で、サラサラの黒髪が揺れる。
リヴァイ先生の身体が離れると寂しかった。
頬をひと撫でされれば、その途端に、身体中の熱が一気に顔に集まった。
すぐに病室を出て行ったリヴァイ先生に、真っ赤な顔を見られなくてよかった。
私は自分の身体を抱きしめた。
そしたら、また紅茶の香りがふわりと私を包んだ気がした。
内緒にするなんて、悪いことをしてるみたい。
私、どうして頷いちゃったんだろうー。
ティーカップに残った紅茶をちびちびと少しずつしか飲もうとしないのは、冷めて美味しくなくなったからじゃない。
飲み干してしまったら、魔法が終わってしまうと分かっていたからだ。
だって、名前のティーカップはもう随分前に空になったのに、新しく淹れ直そうとはしていない。
俺が飲み干すのを待っているようだった。
早く帰ってくれと思っているのかもしれないー。
そう思いながらも、気付かないフリをして、俺は、懐かしい病室を見渡していた。
こんな遅い時間にこの病室に入ったことはなかったから、大きな窓の向こうの庭園越しにこんなに綺麗な夜景が見えるなんて知らなかった。
でも、大きなソファもテレビも、何もかもが揃っている部屋は懐かしいままだ。
名前も俺のことを先生と呼ぶから、本当に時間だけが巻き戻ったみたいだ。
「夜景を見るなら、もっと近くで見た方が綺麗ですよ。」
何を勘違いしたのか、名前はそう言うとソファから立ち上がった。
そして、大きな窓辺に立って、俺を手招きした。
自慢気な顔が愛おしくて、俺は相変わらず名前の思いのままだった。
手招きされるままに窓辺に立った俺は、すぐに夜景に視線を向けた。
エルディア病院の最上階からの景色は、確かにすごく綺麗だったと思う。
でも俺は、隣に立つ名前が気になってそれどころじゃなかった。
名前が立っている側の俺の左半身だけが妙に熱くなって、初恋に戸惑う思春期の少年みたいに緊張していた。
「ね、すごく綺麗ですよね。もう0時を過ぎてるのに
明かりがキラキラ輝いてて。永遠に解けない魔法の世界みたい。」
魔法という言葉に反応して、俺は名前の方を向いてしまった。
名前は窓に手を添えて、うっとりとした顔で夜景を見つめていた。
すると、俺の視線に気づいた名前が、照れ臭そうに口を開いた。
「魔法なんて、変なヤツだって思いましたね?」
「…いや、思わねぇよ。俺も同じだから。」
そう言って、俺はまた視線を窓の外の世界に戻した。
隣で名前が驚いていた反応をしたのは、なんとなく気配で分かった。
俺みたいな男が、魔法の世界みたいだと思ったなんて、驚くというか、気持ち悪いなー。
そんなこと思って、俺はなんとか苦笑を飲み込んだ。
「私の家族はみんな、私が魔法とか言うと子供じゃないんだからって叱るんです。
だから、笑わないで聞いてくれて、すごく嬉しい。」
嬉しそうな声だったから、どんな顔をしているのか見たくて、俺は視線だけを横にずらして、そっと盗み見た。
窓の外を見ている名前の横顔は、嬉しそうに頬を緩めていて、嬉しかったのは俺の方だった。
「そうだ!リヴァイ先生に私のとっておきの宝物を見せてあげます!」
また何か思いついたらしく、楽しそうに言った名前は、俺を残してベッドの方へと小走りで駆けて行った。
そして、すぐに、大事そうに宝物というのを抱えて戻って来た。
まるで、赤ん坊でも抱くように大切に両手に乗せているのは、片方だけのガラスの靴だった。
去年のクリスマスに俺から名前にプレゼントして、片方はキクに捨てられてしまって、残った片方のガラスの靴も、名前と共に消えた。
今も大事に持っていてくれたことは、嬉しいのか、余計に虚しいのか、自分でも分からなかった。
「すごく綺麗でしょう?私の宝物なんです。」
名前は両手の上に乗せたガラスの靴を、とても自慢気に俺に見せた。
「あぁ、そうだな。
…それ、どうしたんだ?」
覚えているわけがない、と思いながら、俺は訊いてしまった。
だって、愛おしそうにガラスの靴を見つめる名前の瞳が、あの頃と変わらなかったのだ。
でも、名前は分からないと首を横に振った。
「私、実は記憶喪失なんです。」
「そうなのか。」
「あれ?あんまり驚かないんですね。」
「まぁ…、医者をしてたらいろんな病人がいるからな。」
「あ~、そっか。
それでコレ、記憶喪失になる前に私が一人暮らししてた家にあったらしいんですけど、
何で持ってるのか覚えてないんですよね。分かるのは、コレが私の宝物だってことだけなんです。」
名前はそう言って、ガラスの靴を持っている両手を少し持ち上げた。
やっぱり、ガラスの靴を見つめる愛おしそうな瞳は、あの頃と同じ。
そこまで覚えているのに、どうしてそれを贈ったのがすぐ隣にいる男だと思い出してくれないのだろう。
「私の幼馴染が教えてくれたんです。
記憶喪失になる前に発作を起こして倒れたとき、私、このガラスの靴を抱きしめてたって。」
こうやってー。
名前はそう言いながら瞳を閉じて、ガラスの靴を胸に押しつけるようにしてギュッと抱きしめた。
数秒そうした後、瞳を閉じたままで続けた。
「たぶん、私、唯一、魔法が解けないガラスの靴を抱きしめて願ったんだと思うんです。
まだ消えないで、大好きな人を出来るだけ長く、覚えていたいの。
できれば、ガラスの靴のように永遠に消えないで…。」
相変わらずガラスの靴を抱きしめたままの名前の声は、静かな部屋にひどく切なく響いて胸が締め付けられた。
あのとき、名前がそんなことを思いながらガラスの靴を抱きしめ、1人きりで消えていったのなら、やりきれない。
発作を起こして倒れた名前のそばにいてやれなかったことも、こうして隣にいても、話を聞くしか出来ない自分のことも、本当は悔しくて仕方がないのだ。
今さらもう遅いと分かっている。
それでも、この手を伸ばして名前を抱きしめれば、助けることが出来るだろうか。
記憶を失うことに震えていた名前を、俺と名前の恋をー。
分かっている。
今さらもう遅いと、分かっているのだ。
でも、諦めの悪い俺の心と手は、名前へと伸びていく。
もう少しで細い肩に触れそうなとき、名前がゆっくりと瞼を押し上げた。
俺は慌てて、伸ばした手を引っ込めた。
何をやっているのだろうー。
呆れと虚しさでやりきれない気持ちになった。
そんな俺の気持ちなんて知る由もなく、名前は抱きしめるガラスの靴を見下ろしながら言う。
「ずっと大切に持っていたら、このガラスの靴を目印にして
魔法使いさんが私を見つけてくれる気がするんです。
だから、これは私の宝物なの。」
「ガラスの靴を目印にして見つけてくれるのは、
魔法使いじゃなくて王子だろ。」
名前の目を見ているフリをして、俺はガラスの靴に視線をズラしていた。
それは、自分に言い聞かせた言葉だった。
名前の人生の中に俺の役名があるのなら、王子と幸せにならなくちゃいけないお姫様を助けるためにほんの一時の時間を一緒に過ごすだけの魔法使いでしかない。
お姫様が綺麗になったら、カボチャの馬車に乗せて「幸せになって。」と手を振らなくちゃいけない。
「あ、そっか。そうですね。」
名前が可笑しそうに笑った。
あの頃の名前なら、魔法使いがいいと言ってくれたのにー。
変わっていない姿を見たかと思ったら、俺の知らない名前がいる。
それでも、ほんの1秒だって長く一緒にいたいと思っているのだから、笑えてしまう。
「でも、」
アハハと笑った名前は、なぜか寂しそうな顔をすると、また窓の外を眺めだした。
思わず、俺もその視線を追いかけて窓の外を見た。
相変わらず綺麗な夜景は、クリスマスイルミネーションに着飾られて、確かに魔法の世界のように幻想的だった。
でも、俺はもっと綺麗な夜景を知っている。
シンデレラ城が青と白でキラキラと輝いて、妖精が夜空を舞う美しい世界だ。
去年の今日、名前も一緒に見たはずなのに、俺1人だけの想い出になってしまった。
「ねぇ、リヴァイ先生。この病院って最高の立地にあるし、
この病室から見える夜景が魔法の世界に一番近いと思いませんか。」
「いや。」
「えー、ヒドイなぁ。私はそう思うのになぁ。
だから、絶対にこの病室がいいって我儘言っちゃったんです。
そしたら、クリスマスを病室で過ごす羽目になっちゃったんですけどね。」
名前の苦笑が、窓ガラスに映った。
「我儘なお姫様だな。」
「アハハ、リヴァイ先生がお姫様って言うとなんか可笑しいですね。」
可笑しそうにクスクスと笑う名前に、俺は首をすぼめた、フリをした。
本当は久しぶりに見た無邪気な笑顔を記憶に焼き付けたくて、必死だった。
好きなだけ笑った後、名前は病室の方を振り返ると、大きな窓に背中を預けた。
そして、扉の方をじっと見つめながら口を開いた。
「でも、我儘なお姫様だと思われようが、彼のママに呆れられようが、絶対にこの病室がよかったんです。
魔法の世界に一番近いここで待ってれば、魔法使いさんが会いに来てくれる気がするから。
-なんて、バカですね。子供みたいですよね。」
名前は照れ臭そうに言って、頬を掻いた。
「思わねぇよ。お前が早く魔法使いを見つけられたらいいと思ってる。」
「ふふ、リヴァイ先生は優しいですね。
なんとなく、リヴァイ先生になら笑われないような気がしたんです。
あ、でも、大人にもなって魔法使いに会いたいなんて恥ずかしいから、誰にも内緒ですよ?」
「あぁ、分かった。」
名前はホッとしたように胸を撫でおろした。
そして、もう一度、ガラスの靴を胸に押しつけて抱きしめながら、病室の扉をじっと見つめた。
「魔法使いが本当に来たら、何をお願いするんだ?」
「記憶を、戻して欲しいです。
全部は無理だって言われたら、たったひとつでもいいです。」
「ひとつでいいのか?」
「はい。出来れば全部がいいけど、どれかひとつって言われたら
選ぶ記憶なら決まってますから。」
「どの記憶にするんだ?」
「私の人生で一度きりの大切な恋の記憶です。
幼馴染から聞いたんです。私は、とっても素敵な恋をしていたんだよって。
私も記憶はないけど、それだけはなんとなく覚えているんです。大好きで大好きで仕方がなかったこと。」
名前は頬の染まる顔を恥ずかしそうに隠すように、少しだけ目を伏せた。
落ちた重たい睫毛のせいかもしれない。
なぜかその横顔が、すごく寂しそうに見えたのだ。
もしかして、今の男のことは、大好きで大好きで仕方がないわけではないのだろうか。
俺のことはー。
あぁ、もうそんなことはどうでもいいのだ。
「永遠に解けない魔法がいいなぁ…。」
小さく呟くように零れた声は、微かに俺の耳に届いただけだった。
きっとそれは心の声が漏れただけで、俺に言ったわけじゃなかったのだろう。
いつの間にか時計の針は、魔法が解けるはずだった0時を大きく過ぎて1時を回っていた。
ガラスの靴を抱きしめる名前の肩に触れると、そのまま抱き寄せた。
そうして、驚いた様子だった名前を腕の中に閉じ込めた。
「あ、あの…っ。リヴァイ先生…?」
「誕生日を祝ってくれてありがとうな。
嬉しかった。」
「いえ…。それなら、よかったです。」
俺の腕の中で戸惑う名前の気配を感じていたけれど、離してやる気はなかった。
婚約者がいるのに、他の男に抱きしめられて平気な女じゃないことくらい分かっている。
そういう一途で誠実なところが、いつも可愛いと思っていたのだ。
「明日、0時を過ぎたら、また会いに来る。」
最後にそれだけ言って、俺は身体を離した。
緊張から解放された名前は、俺の方を見ないで目を伏せていた。
今、何を考えているのだろう。
知りたいけれど、知りたくなかった。
「それじゃ、また明日。
-あ、それから、」
一度は背を向けた俺だったが、大切なことを言っていないのを思い出した。
振り返ると、名前はさっきまで伏せていた顔を上げていた。
そして、俺と目が合うと、驚いて僅かに目を見開いた。
「今夜、俺に会ったことも誰にも内緒だ。
約束出来るか?」
俺は、名前の唇に俺の人差し指を押しあてた。
名前は、僅かに見開いた目で俺を見つめたまま固まってしまった。
少し待てば、意味が分からないという顔をしていたが、コクリと静かに頷いた。
「約束な。ーおやすみ。」
頬をひと撫でして、俺は呆然としている名前を残して病室を出た。
病室の扉に背を預けて大きく息を吐き出せば、緊張して強張っていた身体から力が抜けていった。
会いに来ると言った俺に、名前はどういう気持ちで頷いたのだろうー。
カボチャの馬車を見送った魔法使いが
シンデレラを忘れられないことは内緒にしてなきゃダメかな
ふわりと甘い紅茶の香りが私を包んだ。
腕の中は温かくて、首元に感じる吐息が熱かった。
視界の端で、サラサラの黒髪が揺れる。
リヴァイ先生の身体が離れると寂しかった。
頬をひと撫でされれば、その途端に、身体中の熱が一気に顔に集まった。
すぐに病室を出て行ったリヴァイ先生に、真っ赤な顔を見られなくてよかった。
私は自分の身体を抱きしめた。
そしたら、また紅茶の香りがふわりと私を包んだ気がした。
内緒にするなんて、悪いことをしてるみたい。
私、どうして頷いちゃったんだろうー。