◇73ページ◇琥珀色の月の魔法
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
名前が病室の扉を開くと、懐かしい甘い香りが俺を包んだ。
手を引かれたままで病室に入ってすぐに、名前の手が離れた。
途端に、もう一度、あの細くて柔らかい手を掴みたくなる自分の手を鎮めるために拳を握った。
「そこのソファに座っててください。
すぐに免許証持ってきますね。」
名前はそう言って、奥のベッドの方へと向かった。
あぁ、そういうことかー。
何を期待していたのか、俺の心はあからさまに落胆していた。
それでも、言われるままにソファに腰をおろした。
どんな理由でも、ほんの少しでもいいから長くそばにいたかった。
これがもし、魔法の時間なのだとしても、0時になる前に帰れなんて誰も言わないで欲しい。
せめて、時計の針が0時をほんの1分過ぎるまでで構わないから、名前と一緒にいたかった。
どんな理由でも、構わなかった。
「どうぞ、すぐに返せてよかったです。」
俺の前に立って、名前が免許証を差し出す。
これを受け取ったら、ここに残る理由はなくなる。
0時を待たずに、魔法のような時間は終わる。あっという間に、終わる。
「どうしました?」
受け取ろうとしない俺に、名前が不思議そうに首を傾げた。
情けないほどの自分の諦めの悪さに呆れた。
「いや、なんでもねぇ。悪かったな。」
俺は、差し出された免許証を受け取りながら立ち上がった。
すると、名前は少し困った顔をして口を開いた。
「もしかして、これから何か予定がありました?」
「いや、何もねぇが。」
飽きもせずに、呆れる期待をしてしまった俺は、帰って寝るだけだなんて、聞かれてもないことまで正直に答えた。
そうすると、名前はホッとしたように息を吐いた。
「それなら、少しだけ私に付き合ってくれませんか?
全然、眠れなくって。」
「分かった。仕方ねぇ。
俺も眠くはねぇし、免許証を拾ってもらった礼に、少しくらいなら。」
ニヤけてしまいそうな口元を片手で隠して、俺はダサい言い訳まで口にしていた。
俺の本音なんてしらない名前は、嬉しそうにして「よかった。」と微笑んだ。
「なら、飲み物を淹れるのでそこに座って待っててくれますか?」
「わかった。」
口元を隠したままで言って、俺はソファに腰をおろした。
奥にある給湯室の向こうに名前の背中が消えたのを確認して、俺は顔を両手で覆って、大きく息を吐き出した。
もう名前のことは忘れると決めたはずなのに、俺は何をしているんだろうー。
両手で隠れた顔が、間抜けなくらいに綻んでいるのを俺は知っていた。
今だけはまだ一緒にいて良いのだと知った心は、俺の意思に反して無邪気に喜んでいた。
少しすると美味しそうな香りがし始めて、名前がトレイにティーカップを2人分乗せて戻って来た。
「どうぞ。」
名前がソーサーに乗せられたティーカップをテーブルの上に置くと、紅茶の甘くて苦い香りが鼻を刺激した。
あの頃も名前がよく飲んでいた紅茶の香りだった。
「紅茶が好きなのか?」
「はい、紅茶を飲むとすごく落ち着くんです。」
「あぁ…、分かる。」
「ふふ、よかった。
婚約者の彼も紅茶が好きだから、2人でいつもこればかり飲んでます。
飽きないのかって友達に2人して呆れられちゃってます。」
名前が困ったように眉尻を下げた。
でも、口元は嬉しそうに緩んでいて、とても幸せそうだった。
分かり切っていたはずなのに、現実を突きつけられたようだった。
さっきまで馬鹿みたいに無邪気に喜んでいた心が、一気に萎んで、好きな紅茶すら飲みたくなくなった。
やっぱり帰ろうー。
仕事が残っていることを思い出したとか、眠たくなってきたとか、適当なことを言って、この病室から早く出た方がいい。
これ以上、傷つく前にー。
「食べ物も持ってきますね。とっておきのなので、目を瞑って待っててくれますか?」
俺が口を開くよりも先に、名前はワクワクした顔でそう言うと、トレイを持ってまた給湯室へと行ってしまった。
目を瞑ってー、と言われたからではないけれど、俺はまた両手で顔を覆って目を閉じた。
自分が嫌になって、ため息を吐く。
名前が俺よりも口を開くのが早かったわけじゃない。
俺の唇が、糸で縫われたみたいに上と下がぴたりとくっついて離れなかったのだ。
帰りたいと言えなかった。言いたくなかった。
まだ一緒にいたいと心が俺を引き留めたせいだ。
何を考えているんだろうかー。
名前はもう他の男のものだと思い知るのは、死ぬほど嫌なはずなのにー。
「リヴァイ先生、ちゃんと目を閉じてますか~?」
給湯室から名前が俺に声をかけた。
俺の気も知らないで、何か楽しいことでも考えているらしい。
「閉じてる。」
「はーい、了解ですっ。信じますからね~。」
名前の明るい声が聞こえてきてすぐに、足音が近づいてきた。
待っていれば、誰かが来た気配とテーブルの上に皿を置いたような音がした。
「もう少し待ってくださいね。あと、んー…、1分くらいですね。」
「何を企んでやがるんだ?」
「内緒です。」
「…、くだらねぇ悪戯だったら許さねぇからな。」
「ふふ、どうかな~。」
前の方から名前の悪戯っぽい声が聞こえていた。
向かい合うソファに座ったのだろう。
「目を開けてもいいですよ。」
少しすると漸く名前の許可が出て、俺は顔を覆っていた両手を離した。
ゆっくりと目を開けば、いつの間にか明かりの消えた暗闇の中で、小さなショートケーキにささった蝋燭の光がユラユラと揺れていた。
その向こうに微笑む名前がいて、とても幻想的で綺麗で、俺は声を失った。
「リヴァイ先生、お誕生日おめでとうございます。」
名前がふわりと微笑んだ。
俺は声を失ったまま、驚いて固まった。
そんな俺に、名前はネタバラシするように言う。
「免許証に書いてある誕生日を見たんです。
間違って持って帰っちゃったお詫びに、お祝いさせてください。」
「あぁ…、そういうことか。」
「さぁ、ほら、蝋燭の火を消しちゃってくださいっ。」
名前がニッと笑う。
蝋燭の火を消すなんて、それこそエレンじゃないけれど、子供みたいだ。
断ろうとしたけれど、あまりにも嬉しそうに名前が促すから、仕方なく弱々しく揺れる蝋燭の火に息を吹きかけた。
うまく蝋燭の火が消えて、途端に辺りが暗闇に包まれた。
まるで、魔法が解けたみたいにパッと俺の前から名前の姿が消えるから、あの日の恐怖が蘇った。
「名前!!」
ソファから勢いよく立ち上がった俺は、テーブルの向こうに手を伸ばした。
細い手首を掴んだのと同時に、部屋の明かりが戻った。
眩しい視界のすぐそこに、いきなり手首を掴まれて驚き、ポカンとした顔で俺を見ている名前がいた。
俺に手首を掴まれた手には、電気のリモコンを持っていた。
「…あの、どうしました?」
「いや…、悪い。急に暗くなったから名前が消えたかと思った。」
ホッとしたのか、軽いパニックだったのか、俺は馬鹿正直に答えてしまった。
名前から「へ?」という間の抜けた声が漏れて、俺が相当間抜けなことを言ってしまったことを知った。
「悪い。何でもねぇ。」
俺は、すぐに細い手首を掴んでいた手を離した。
ソファに腰をおろした俺に、名前が訊ねる。
「もしかして、リヴァイ先生って暗いのが苦手なんですか?」
「あ~…、そうなのかもな。」
「そうだったんですね。電気消さなきゃよかったですね。ごめんなさい。」
「いや、気にしなくていい。」
これ以上この話は続けたくなくて、早くケーキを食べてしまおうと話を逸らした。
壁掛けの時計を見ると、いつの間にか、時計の針は0時を過ぎて、クリスマスに変わっていた。
俺の誕生日に、なっていた。
明るい部屋の中、名前が目の前にいて、ケーキを俺の前に置いた。
「さぁ、食べましょう!」
名前が笑顔で言った。
よかった。
魔法はまだ、続いていたー。
夢だとしか思えなくて
俺は何度も瞬きをしては、君が目の前にいることを確かめていたんだ
ベッドの縁に座って、病室の窓辺から夜空を見上げてしばらくが経った。
四角い狭い世界に閉じ込められて、まん丸の月と幾千の星が輝いていた。
つまらなくて、眠りたくもなくて、このままイヴが終わるのもなんか嫌で、私は病室を出た。
見回りの看護師に見つからないようにしながら、フラフラと歩いて辿り着いたのは、病院の裏手にある中庭だった。
見つけたベンチに腰を降ろした私は、結局、病室でしていたのと同じように夜空を見上げた。
今度は、世界中のみんなが必死に両腕を広げたって包めないくらいに途方もなく広い夜空で、まん丸の月と幾千の星が輝いていた。
琥珀色の月が、暗闇を照らす。
(寒いなぁ…。)
心の中、私はポツリと呟いた。
少し前まで総ちゃんがいて、一緒にクリスマス・イヴを過ごした。
婚約して初めてのイヴだというのに、ブライダルチェックで入院してしまったせいで病室で過ごすことになってしまった。
それでも、総ちゃんは病室でも出来る限りのロマンチックな夜を演出してくれた。
美味しい紅茶と有名店のケーキに、王子様みたいに指にはめてくれた豪華な宝石が輝く婚約指輪。
満たされているはずの私の心は、記憶を失くして目を覚ました日からずっと、虚しい風が吹いている。
どこかに穴が開いていて、それを誰も、何も、埋めることが出来ないままだ。
それでも、総ちゃんの黒髪を撫でて、紅茶の香りのする腕に抱きしめられているときだけ、私は安心していられる。
私は子供の頃からずっと総ちゃんが大好きだったんだってママが言ってた。
恋人になれたときはすごく喜んでたらしいけど、覚えてない。
思い出さなくていいと総ちゃんもママも言う。
それに、思い出すことは一生できないだろうとナイル先生にも言われている。
夜空に輝く幾千の星くらいにたくさん、私が失ってしまった記憶がある。
そして、夜空の中で一番目立つ柔らかい光を放つあの月は、私の一番大切な記憶だ。
きっとそれは、総ちゃんの記憶ー。
この星をすべて数え終わる頃には、全てを思い出せたらいいのにー。
だって、もしも思い出せたら、私の心にあいた穴も塞がると思うんだ。
たとえば、パッと魔法使いさんが目の前に現れて、私が失った記憶を取り戻させてくれないかな。
解けない魔法をかけて欲しいのー。
そんなことを考えているときに声をかけられたから、本当に魔法使いさんが現れたのかと思ってしまったの。
驚いて変な悲鳴を上げた私のせいで、漆黒の綺麗な髪が夜風で揺れた。
まるで、あの夜空のお月様みたいにまん丸に見開いた彼の目は、ひどく濃い琥珀色をしていた。
それは、吸い込まれそうになるくらいに綺麗だった。
あぁ、ほら、彼だ。探さなくたって会えると思っていたのよ。
必ず、逢える気がしてた。
手を引かれたままで病室に入ってすぐに、名前の手が離れた。
途端に、もう一度、あの細くて柔らかい手を掴みたくなる自分の手を鎮めるために拳を握った。
「そこのソファに座っててください。
すぐに免許証持ってきますね。」
名前はそう言って、奥のベッドの方へと向かった。
あぁ、そういうことかー。
何を期待していたのか、俺の心はあからさまに落胆していた。
それでも、言われるままにソファに腰をおろした。
どんな理由でも、ほんの少しでもいいから長くそばにいたかった。
これがもし、魔法の時間なのだとしても、0時になる前に帰れなんて誰も言わないで欲しい。
せめて、時計の針が0時をほんの1分過ぎるまでで構わないから、名前と一緒にいたかった。
どんな理由でも、構わなかった。
「どうぞ、すぐに返せてよかったです。」
俺の前に立って、名前が免許証を差し出す。
これを受け取ったら、ここに残る理由はなくなる。
0時を待たずに、魔法のような時間は終わる。あっという間に、終わる。
「どうしました?」
受け取ろうとしない俺に、名前が不思議そうに首を傾げた。
情けないほどの自分の諦めの悪さに呆れた。
「いや、なんでもねぇ。悪かったな。」
俺は、差し出された免許証を受け取りながら立ち上がった。
すると、名前は少し困った顔をして口を開いた。
「もしかして、これから何か予定がありました?」
「いや、何もねぇが。」
飽きもせずに、呆れる期待をしてしまった俺は、帰って寝るだけだなんて、聞かれてもないことまで正直に答えた。
そうすると、名前はホッとしたように息を吐いた。
「それなら、少しだけ私に付き合ってくれませんか?
全然、眠れなくって。」
「分かった。仕方ねぇ。
俺も眠くはねぇし、免許証を拾ってもらった礼に、少しくらいなら。」
ニヤけてしまいそうな口元を片手で隠して、俺はダサい言い訳まで口にしていた。
俺の本音なんてしらない名前は、嬉しそうにして「よかった。」と微笑んだ。
「なら、飲み物を淹れるのでそこに座って待っててくれますか?」
「わかった。」
口元を隠したままで言って、俺はソファに腰をおろした。
奥にある給湯室の向こうに名前の背中が消えたのを確認して、俺は顔を両手で覆って、大きく息を吐き出した。
もう名前のことは忘れると決めたはずなのに、俺は何をしているんだろうー。
両手で隠れた顔が、間抜けなくらいに綻んでいるのを俺は知っていた。
今だけはまだ一緒にいて良いのだと知った心は、俺の意思に反して無邪気に喜んでいた。
少しすると美味しそうな香りがし始めて、名前がトレイにティーカップを2人分乗せて戻って来た。
「どうぞ。」
名前がソーサーに乗せられたティーカップをテーブルの上に置くと、紅茶の甘くて苦い香りが鼻を刺激した。
あの頃も名前がよく飲んでいた紅茶の香りだった。
「紅茶が好きなのか?」
「はい、紅茶を飲むとすごく落ち着くんです。」
「あぁ…、分かる。」
「ふふ、よかった。
婚約者の彼も紅茶が好きだから、2人でいつもこればかり飲んでます。
飽きないのかって友達に2人して呆れられちゃってます。」
名前が困ったように眉尻を下げた。
でも、口元は嬉しそうに緩んでいて、とても幸せそうだった。
分かり切っていたはずなのに、現実を突きつけられたようだった。
さっきまで馬鹿みたいに無邪気に喜んでいた心が、一気に萎んで、好きな紅茶すら飲みたくなくなった。
やっぱり帰ろうー。
仕事が残っていることを思い出したとか、眠たくなってきたとか、適当なことを言って、この病室から早く出た方がいい。
これ以上、傷つく前にー。
「食べ物も持ってきますね。とっておきのなので、目を瞑って待っててくれますか?」
俺が口を開くよりも先に、名前はワクワクした顔でそう言うと、トレイを持ってまた給湯室へと行ってしまった。
目を瞑ってー、と言われたからではないけれど、俺はまた両手で顔を覆って目を閉じた。
自分が嫌になって、ため息を吐く。
名前が俺よりも口を開くのが早かったわけじゃない。
俺の唇が、糸で縫われたみたいに上と下がぴたりとくっついて離れなかったのだ。
帰りたいと言えなかった。言いたくなかった。
まだ一緒にいたいと心が俺を引き留めたせいだ。
何を考えているんだろうかー。
名前はもう他の男のものだと思い知るのは、死ぬほど嫌なはずなのにー。
「リヴァイ先生、ちゃんと目を閉じてますか~?」
給湯室から名前が俺に声をかけた。
俺の気も知らないで、何か楽しいことでも考えているらしい。
「閉じてる。」
「はーい、了解ですっ。信じますからね~。」
名前の明るい声が聞こえてきてすぐに、足音が近づいてきた。
待っていれば、誰かが来た気配とテーブルの上に皿を置いたような音がした。
「もう少し待ってくださいね。あと、んー…、1分くらいですね。」
「何を企んでやがるんだ?」
「内緒です。」
「…、くだらねぇ悪戯だったら許さねぇからな。」
「ふふ、どうかな~。」
前の方から名前の悪戯っぽい声が聞こえていた。
向かい合うソファに座ったのだろう。
「目を開けてもいいですよ。」
少しすると漸く名前の許可が出て、俺は顔を覆っていた両手を離した。
ゆっくりと目を開けば、いつの間にか明かりの消えた暗闇の中で、小さなショートケーキにささった蝋燭の光がユラユラと揺れていた。
その向こうに微笑む名前がいて、とても幻想的で綺麗で、俺は声を失った。
「リヴァイ先生、お誕生日おめでとうございます。」
名前がふわりと微笑んだ。
俺は声を失ったまま、驚いて固まった。
そんな俺に、名前はネタバラシするように言う。
「免許証に書いてある誕生日を見たんです。
間違って持って帰っちゃったお詫びに、お祝いさせてください。」
「あぁ…、そういうことか。」
「さぁ、ほら、蝋燭の火を消しちゃってくださいっ。」
名前がニッと笑う。
蝋燭の火を消すなんて、それこそエレンじゃないけれど、子供みたいだ。
断ろうとしたけれど、あまりにも嬉しそうに名前が促すから、仕方なく弱々しく揺れる蝋燭の火に息を吹きかけた。
うまく蝋燭の火が消えて、途端に辺りが暗闇に包まれた。
まるで、魔法が解けたみたいにパッと俺の前から名前の姿が消えるから、あの日の恐怖が蘇った。
「名前!!」
ソファから勢いよく立ち上がった俺は、テーブルの向こうに手を伸ばした。
細い手首を掴んだのと同時に、部屋の明かりが戻った。
眩しい視界のすぐそこに、いきなり手首を掴まれて驚き、ポカンとした顔で俺を見ている名前がいた。
俺に手首を掴まれた手には、電気のリモコンを持っていた。
「…あの、どうしました?」
「いや…、悪い。急に暗くなったから名前が消えたかと思った。」
ホッとしたのか、軽いパニックだったのか、俺は馬鹿正直に答えてしまった。
名前から「へ?」という間の抜けた声が漏れて、俺が相当間抜けなことを言ってしまったことを知った。
「悪い。何でもねぇ。」
俺は、すぐに細い手首を掴んでいた手を離した。
ソファに腰をおろした俺に、名前が訊ねる。
「もしかして、リヴァイ先生って暗いのが苦手なんですか?」
「あ~…、そうなのかもな。」
「そうだったんですね。電気消さなきゃよかったですね。ごめんなさい。」
「いや、気にしなくていい。」
これ以上この話は続けたくなくて、早くケーキを食べてしまおうと話を逸らした。
壁掛けの時計を見ると、いつの間にか、時計の針は0時を過ぎて、クリスマスに変わっていた。
俺の誕生日に、なっていた。
明るい部屋の中、名前が目の前にいて、ケーキを俺の前に置いた。
「さぁ、食べましょう!」
名前が笑顔で言った。
よかった。
魔法はまだ、続いていたー。
夢だとしか思えなくて
俺は何度も瞬きをしては、君が目の前にいることを確かめていたんだ
ベッドの縁に座って、病室の窓辺から夜空を見上げてしばらくが経った。
四角い狭い世界に閉じ込められて、まん丸の月と幾千の星が輝いていた。
つまらなくて、眠りたくもなくて、このままイヴが終わるのもなんか嫌で、私は病室を出た。
見回りの看護師に見つからないようにしながら、フラフラと歩いて辿り着いたのは、病院の裏手にある中庭だった。
見つけたベンチに腰を降ろした私は、結局、病室でしていたのと同じように夜空を見上げた。
今度は、世界中のみんなが必死に両腕を広げたって包めないくらいに途方もなく広い夜空で、まん丸の月と幾千の星が輝いていた。
琥珀色の月が、暗闇を照らす。
(寒いなぁ…。)
心の中、私はポツリと呟いた。
少し前まで総ちゃんがいて、一緒にクリスマス・イヴを過ごした。
婚約して初めてのイヴだというのに、ブライダルチェックで入院してしまったせいで病室で過ごすことになってしまった。
それでも、総ちゃんは病室でも出来る限りのロマンチックな夜を演出してくれた。
美味しい紅茶と有名店のケーキに、王子様みたいに指にはめてくれた豪華な宝石が輝く婚約指輪。
満たされているはずの私の心は、記憶を失くして目を覚ました日からずっと、虚しい風が吹いている。
どこかに穴が開いていて、それを誰も、何も、埋めることが出来ないままだ。
それでも、総ちゃんの黒髪を撫でて、紅茶の香りのする腕に抱きしめられているときだけ、私は安心していられる。
私は子供の頃からずっと総ちゃんが大好きだったんだってママが言ってた。
恋人になれたときはすごく喜んでたらしいけど、覚えてない。
思い出さなくていいと総ちゃんもママも言う。
それに、思い出すことは一生できないだろうとナイル先生にも言われている。
夜空に輝く幾千の星くらいにたくさん、私が失ってしまった記憶がある。
そして、夜空の中で一番目立つ柔らかい光を放つあの月は、私の一番大切な記憶だ。
きっとそれは、総ちゃんの記憶ー。
この星をすべて数え終わる頃には、全てを思い出せたらいいのにー。
だって、もしも思い出せたら、私の心にあいた穴も塞がると思うんだ。
たとえば、パッと魔法使いさんが目の前に現れて、私が失った記憶を取り戻させてくれないかな。
解けない魔法をかけて欲しいのー。
そんなことを考えているときに声をかけられたから、本当に魔法使いさんが現れたのかと思ってしまったの。
驚いて変な悲鳴を上げた私のせいで、漆黒の綺麗な髪が夜風で揺れた。
まるで、あの夜空のお月様みたいにまん丸に見開いた彼の目は、ひどく濃い琥珀色をしていた。
それは、吸い込まれそうになるくらいに綺麗だった。
あぁ、ほら、彼だ。探さなくたって会えると思っていたのよ。
必ず、逢える気がしてた。