◇71ページ◇忘れたくない人
Name change
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「リヴァイ!勝手に何やってんだ!!」
俺を見つけるなり怒鳴ったナイルの後ろから、ファーラン、そして、名前の母親と妹、ジャン、それから担当の看護師が続々と現れた。
怖い顔で駆け寄ってきたナイルが、俺を後ろから羽交い絞めにしてベッドから引き剥がした。
「放しやがれ!俺は名前のそばにいてやると誓った!」
「何言ってんだ、お前は!名前はもう記憶がないんだ!!
知らない男がいきなり現れたら戸惑うだけだろ!!医者だったこともあるんだ、少しは考えろ!」
俺とナイルが騒いでいると、母親が焦ったように名前の名前を呼んだ。
そのときにはもう俺は、意外と力の強いナイルに引きずられてベッドから一番離れた場所にいた。
ベッドの方を見ると名前が目を覚ましたようだった。
顔を覗き込む母親に、名前が怯えたように「誰ですか。」と言ったのが聞こえた。
やっぱり、覚えていないのか―。
もしかしたら、と期待してしまっていたから、落胆していないと言ったら嘘になる。
名前の言葉に傷ついた顔をした母親も同じ気持ちだったのだと思う。
「私はあなたの母親よ。そして、そこにいるのが妹の野梨子。
眠る前にも教えたんだけど、覚えてないかしら?」
母親は、名前の背に手を入れてそっと身体を起こして、妹のことも教えた。
妹の野梨子は不安そうに姉の名前を呼んだけれど、名前はそれよりも不安そうに彼女達を交互に見ただけだった。
「さっき…、記憶障害だって…、言われた気がします。」
「えぇ、そうよ。でも、大丈夫だからね。
私達はいつでもあなたの味方だし、素晴らしいお医者様がついていらっしゃるから。」
柔らかく微笑んだ母親は、必死に名前を安心させようとしていた。
それでも不安そうにしながら、名前は、医者という言葉を追いかけるように、白衣を着ているナイルや俺、ファーランの方に視線を動かした。
そのときだった。
また病室の扉が勢いよく開いて、若い男が飛び込んできた。
名前の婚約者の男だった。
西門とかいう名前だったはずのその男は、すぐに俺に気づいた。
「名前!!」
一瞬だけ眉を顰めた西門だったが、相手にしている場合じゃないとでも思ったのか、すぐに名前の元へ走った。
そして、そのままの勢いで、ベッドに座る名前のことを抱きしめた。
思わず、ナイルに羽交い絞めにされている俺の身体が強張った。
「堪えろ。」
拘束から逃れようと腕を動かした俺に、ナイルが厳しく言った。
顔を上げれば、ナイルも苦し気な表情をしていた。
「総二郎君、さっきも連絡したけど、名前は記憶がないの。
驚いてしまうわ。」
「あぁ…、すみません。つい。」
名残惜しそうに離れようとした西門のすぐそばで、白いカーテンが風に吹かれてユラユラと揺れていた。
その風が、西門の前髪も揺らす。
すると、名前の手が伸びて西門の髪を撫でた。
まるで、幻想的な瞬間を切り取ったスローモーションの映像でも見ているようだった。
息が止まりそうなくらいに驚いて、言葉をなくした俺達の前で、名前は、西門の髪を撫でながら、目を細めて、何かを探るようにただジッと顔を覗き込んだ。
そして―。
「私…、あなたを知ってるわ。」
目を細めて西門の顔を覗き込みながら、自分に確かめるように、名前は確かにそう言った。
昨日までの記憶のすべてを失ったと思っていた俺達は驚いた。
そう診断を下したナイルの驚きは相当だったようで、羽交い絞めにしていた腕から力が抜けて、ダラリと垂れ下がってしまったほどだ。
西門の手が、躊躇いがちに名前の頬に触れた。
名前が僅かに肩を揺らした。
ただただじっと西門を見つめる瞳に涙がたまっていった。
「そうやって…、いつも撫でてくれた…?」
「あぁ、撫でたよ。いつもこうしてた。」
「いつも、そばにいてくれた…?」
「そばにいた。」
「そっか…。よかった…。私、忘れてない…。
あなたのこと、忘れてない。」
名前がホッとして伏せた瞳から、涙がポロリ、と零れた。
一粒、二粒、と零れれば、溢れた涙が幾つも落ち始めた。
それは、魔法に色があるのなら、そんな色をしているんじゃないかと思うほどに綺麗だった。
まるで魔法を零すように涙を流しながら、名前が遠慮がちに訊ねた。
「顔、触ってもいい?」
「好きにすりゃいい。俺は名前のもんだから。」
西門は可笑しそうにクスリと笑った。
許可を貰った名前の指が、躊躇いがちに西門の眉の辺りに伸びた。
でも、一瞬だけ触れて、ビクリとしてまた離れてしまう。
触れることに怯える名前の手首を西門が掴まえた。
「触って。」
西門は、名前の手首を掴んだままで、強引に自分の顔に触れさせた。
名前の指が、そっと西門の頬に添えられる。
手首の抵抗がなくなったのか、西門の手が離れた。
すると、名前は両手で西門の頬を包んだ。そして、眉、瞼、鼻、唇に順に触れていく。
「俺の顔、触り覚えあった?」
「分かんない。」
「分かんねぇのかよ。」
西門が苦笑する。
「だから、覚えたいの…。」
「覚える?」
「また忘れちゃっても、ちゃんと、思い出せるように。
だって、私…、覚えてる。あなただけは、忘れたくなかったこと。
あなたを、愛してたの。誰よりも、愛してた。いつも、あなたを愛して―。」
「名前っ。」
もう二度と忘れないように自分に覚えさせるみたいに、愛してると繰り返す名前を西門が抱きしめた。
強く、強く、抱きしめた。
名前が西門の背中に手をまわしてしがみつき、泣きじゃくる。
あなただけは忘れたくない、と繰り返す悲鳴のような愛は、あまりにも痛々しくて、俺は動けなかった。
一部始終を見ていた看護師の噂話によって、昼過ぎには、病院のほとんどが知っていた。
記憶を失くしたお姫様は、王子様のことだけは忘れなかったなんて、魔法の世界の御伽噺みたいな奇跡を―。
神様の悪戯ってやつに違いないよ
だって、君が愛しているのが俺じゃないなんて
魔法の世界には、白い雪が、ハラハラと舞っていた。
恋を運ぶ妖精たちが、キラキラと光る魔法の粉を降らせながら、楽しそうに夜空を飛んでいた。
彼らが私に言う。
「王子様が待ってるよ。急ぎなよ。」
「魔法が続くのは0時までだよ!
綺麗な姿じゃなきゃ、王子は愛してくれないよ!」
「あ~ぁ。ほら、君がもたもたしてるから、0時を過ぎちゃったよ。」
私は時計台を見上げた。
時計の針はもうとっくに0時を越えていた。
幸せ過ぎて、時間が経つのを忘れてしまっていた。
まだ舞踏会にも行っていないのに、魔法はとっくに解けちゃって、ドレスはボロボロだし、カボチャの馬車は割れて壊れたただのカボチャに戻ってしまっていた。
私に残ったのは、片足だけのガラスの靴と恋心だけだ。
「名前。」
名前を呼ばれて、時計台を見上げていた視線を戻すと、とても愛おしそうに私を見つめる魔法使いさんと目が合った。
あっという間だったけれど、とても長い時間を一緒に過ごしたから、魔法使いさんの黒髪には白い雪がたくさん降り積もっていた。
でも、いつも頬を優しく撫でてくれていた手は、いつだって温かいままで、私は心も身体も満たされていたの。
「魔法使いさん…、私、王子様のところに行きたくない…。
だから、ずっと私のそばにいてくれる?」
「どうせなら、王子の嫁になっとけよ。」
「いや…っ、私、魔法使いさんのお嫁さんになりたいの…!
ドレスもボロボロだし、馬車も持ってないし、ガラスの靴も片方なくしちゃうし、それに…。」
「どうした?」
「私…、あなたのこと、忘れちゃうけど…。
でも、好きなの…。愛してるの…。だから、そばにいて…。」
魔法使いさんに愛されたくて綺麗なドレスを着て、めいっぱいお洒落をしたはずなのに、今の私はボロボロだ。
世界一素敵な魔法使いさんに愛される自信も、資格もない。
でも、魔法使いさんは私の手を握ってくれた。
「あぁ、そばにいる。ずっとそばにいるから。」
魔法使いさんは、とても優しく言ってくれた。
強く握ってくれる手を握り返すと、とても温かくて幸せだった。
あぁ、私、幸せだった。
魔法使いさんと一緒にいた日々が、人生で一番幸せだった。
だから、私ー。
「忘れたくない…。魔法使いさんのこと、忘れたくないのに…。」
涙が頬を伝って落ちていく。
魔法使いさんがとても悲しそうな顔をした。
ごめんね、ごめんなさい。
忘れちゃって、ごめんね。
愛してた。今だって本当は、愛してるの。
忘れたくない。忘れたくないよ。
ねぇ、私の涙を拭ってよ。
魔法使いさん、もう一度、ずっとそばにいるって言ってよ。
抱きしめてー。
ーーーー。
ーーー。
ーー。
ー。
遠くから誰かの声がして、私は目を覚ました。
とても幸せで、とても悲しい夢を見ていた気がするけれど、思い出せない。
真っ白い天井を見上げていると、知らない人が、とても心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その人は私のことを知っているみたいだけど、私は知らない。
あぁ、違う。確か、私の母親だとか言っていたな。それで、そこにいるお人形さんみたいに可愛い娘が妹なんだった。
私は、忘れてしまったんだ。
記憶障害の再発だって言ってたかな。
もう、どうでもいいけれどー。
だって、私は空っぽだから。
とても大切なことを忘れてしまった気がするの。
それは、私のすべてだったのに、消えてしまった。
「名前!!」
また誰かが私の名前を呼んだ。
その人が力強く私を抱きしめたとき、甘くて苦い紅茶の香りに包まれた。
私は記憶がないんだと母親という女性が言うと、その人は私から離れた。
白いカーテンを揺らす風が、その人のサラサラの黒髪を靡かせた。
気づいたら、私は彼の黒髪に触れていた。
紅茶の香りと柔らかい黒髪。
私、知ってる。この人のことを知ってるー。
忘れたくなかった。忘れたくなかったの、あなたのことー。
俺を見つけるなり怒鳴ったナイルの後ろから、ファーラン、そして、名前の母親と妹、ジャン、それから担当の看護師が続々と現れた。
怖い顔で駆け寄ってきたナイルが、俺を後ろから羽交い絞めにしてベッドから引き剥がした。
「放しやがれ!俺は名前のそばにいてやると誓った!」
「何言ってんだ、お前は!名前はもう記憶がないんだ!!
知らない男がいきなり現れたら戸惑うだけだろ!!医者だったこともあるんだ、少しは考えろ!」
俺とナイルが騒いでいると、母親が焦ったように名前の名前を呼んだ。
そのときにはもう俺は、意外と力の強いナイルに引きずられてベッドから一番離れた場所にいた。
ベッドの方を見ると名前が目を覚ましたようだった。
顔を覗き込む母親に、名前が怯えたように「誰ですか。」と言ったのが聞こえた。
やっぱり、覚えていないのか―。
もしかしたら、と期待してしまっていたから、落胆していないと言ったら嘘になる。
名前の言葉に傷ついた顔をした母親も同じ気持ちだったのだと思う。
「私はあなたの母親よ。そして、そこにいるのが妹の野梨子。
眠る前にも教えたんだけど、覚えてないかしら?」
母親は、名前の背に手を入れてそっと身体を起こして、妹のことも教えた。
妹の野梨子は不安そうに姉の名前を呼んだけれど、名前はそれよりも不安そうに彼女達を交互に見ただけだった。
「さっき…、記憶障害だって…、言われた気がします。」
「えぇ、そうよ。でも、大丈夫だからね。
私達はいつでもあなたの味方だし、素晴らしいお医者様がついていらっしゃるから。」
柔らかく微笑んだ母親は、必死に名前を安心させようとしていた。
それでも不安そうにしながら、名前は、医者という言葉を追いかけるように、白衣を着ているナイルや俺、ファーランの方に視線を動かした。
そのときだった。
また病室の扉が勢いよく開いて、若い男が飛び込んできた。
名前の婚約者の男だった。
西門とかいう名前だったはずのその男は、すぐに俺に気づいた。
「名前!!」
一瞬だけ眉を顰めた西門だったが、相手にしている場合じゃないとでも思ったのか、すぐに名前の元へ走った。
そして、そのままの勢いで、ベッドに座る名前のことを抱きしめた。
思わず、ナイルに羽交い絞めにされている俺の身体が強張った。
「堪えろ。」
拘束から逃れようと腕を動かした俺に、ナイルが厳しく言った。
顔を上げれば、ナイルも苦し気な表情をしていた。
「総二郎君、さっきも連絡したけど、名前は記憶がないの。
驚いてしまうわ。」
「あぁ…、すみません。つい。」
名残惜しそうに離れようとした西門のすぐそばで、白いカーテンが風に吹かれてユラユラと揺れていた。
その風が、西門の前髪も揺らす。
すると、名前の手が伸びて西門の髪を撫でた。
まるで、幻想的な瞬間を切り取ったスローモーションの映像でも見ているようだった。
息が止まりそうなくらいに驚いて、言葉をなくした俺達の前で、名前は、西門の髪を撫でながら、目を細めて、何かを探るようにただジッと顔を覗き込んだ。
そして―。
「私…、あなたを知ってるわ。」
目を細めて西門の顔を覗き込みながら、自分に確かめるように、名前は確かにそう言った。
昨日までの記憶のすべてを失ったと思っていた俺達は驚いた。
そう診断を下したナイルの驚きは相当だったようで、羽交い絞めにしていた腕から力が抜けて、ダラリと垂れ下がってしまったほどだ。
西門の手が、躊躇いがちに名前の頬に触れた。
名前が僅かに肩を揺らした。
ただただじっと西門を見つめる瞳に涙がたまっていった。
「そうやって…、いつも撫でてくれた…?」
「あぁ、撫でたよ。いつもこうしてた。」
「いつも、そばにいてくれた…?」
「そばにいた。」
「そっか…。よかった…。私、忘れてない…。
あなたのこと、忘れてない。」
名前がホッとして伏せた瞳から、涙がポロリ、と零れた。
一粒、二粒、と零れれば、溢れた涙が幾つも落ち始めた。
それは、魔法に色があるのなら、そんな色をしているんじゃないかと思うほどに綺麗だった。
まるで魔法を零すように涙を流しながら、名前が遠慮がちに訊ねた。
「顔、触ってもいい?」
「好きにすりゃいい。俺は名前のもんだから。」
西門は可笑しそうにクスリと笑った。
許可を貰った名前の指が、躊躇いがちに西門の眉の辺りに伸びた。
でも、一瞬だけ触れて、ビクリとしてまた離れてしまう。
触れることに怯える名前の手首を西門が掴まえた。
「触って。」
西門は、名前の手首を掴んだままで、強引に自分の顔に触れさせた。
名前の指が、そっと西門の頬に添えられる。
手首の抵抗がなくなったのか、西門の手が離れた。
すると、名前は両手で西門の頬を包んだ。そして、眉、瞼、鼻、唇に順に触れていく。
「俺の顔、触り覚えあった?」
「分かんない。」
「分かんねぇのかよ。」
西門が苦笑する。
「だから、覚えたいの…。」
「覚える?」
「また忘れちゃっても、ちゃんと、思い出せるように。
だって、私…、覚えてる。あなただけは、忘れたくなかったこと。
あなたを、愛してたの。誰よりも、愛してた。いつも、あなたを愛して―。」
「名前っ。」
もう二度と忘れないように自分に覚えさせるみたいに、愛してると繰り返す名前を西門が抱きしめた。
強く、強く、抱きしめた。
名前が西門の背中に手をまわしてしがみつき、泣きじゃくる。
あなただけは忘れたくない、と繰り返す悲鳴のような愛は、あまりにも痛々しくて、俺は動けなかった。
一部始終を見ていた看護師の噂話によって、昼過ぎには、病院のほとんどが知っていた。
記憶を失くしたお姫様は、王子様のことだけは忘れなかったなんて、魔法の世界の御伽噺みたいな奇跡を―。
神様の悪戯ってやつに違いないよ
だって、君が愛しているのが俺じゃないなんて
魔法の世界には、白い雪が、ハラハラと舞っていた。
恋を運ぶ妖精たちが、キラキラと光る魔法の粉を降らせながら、楽しそうに夜空を飛んでいた。
彼らが私に言う。
「王子様が待ってるよ。急ぎなよ。」
「魔法が続くのは0時までだよ!
綺麗な姿じゃなきゃ、王子は愛してくれないよ!」
「あ~ぁ。ほら、君がもたもたしてるから、0時を過ぎちゃったよ。」
私は時計台を見上げた。
時計の針はもうとっくに0時を越えていた。
幸せ過ぎて、時間が経つのを忘れてしまっていた。
まだ舞踏会にも行っていないのに、魔法はとっくに解けちゃって、ドレスはボロボロだし、カボチャの馬車は割れて壊れたただのカボチャに戻ってしまっていた。
私に残ったのは、片足だけのガラスの靴と恋心だけだ。
「名前。」
名前を呼ばれて、時計台を見上げていた視線を戻すと、とても愛おしそうに私を見つめる魔法使いさんと目が合った。
あっという間だったけれど、とても長い時間を一緒に過ごしたから、魔法使いさんの黒髪には白い雪がたくさん降り積もっていた。
でも、いつも頬を優しく撫でてくれていた手は、いつだって温かいままで、私は心も身体も満たされていたの。
「魔法使いさん…、私、王子様のところに行きたくない…。
だから、ずっと私のそばにいてくれる?」
「どうせなら、王子の嫁になっとけよ。」
「いや…っ、私、魔法使いさんのお嫁さんになりたいの…!
ドレスもボロボロだし、馬車も持ってないし、ガラスの靴も片方なくしちゃうし、それに…。」
「どうした?」
「私…、あなたのこと、忘れちゃうけど…。
でも、好きなの…。愛してるの…。だから、そばにいて…。」
魔法使いさんに愛されたくて綺麗なドレスを着て、めいっぱいお洒落をしたはずなのに、今の私はボロボロだ。
世界一素敵な魔法使いさんに愛される自信も、資格もない。
でも、魔法使いさんは私の手を握ってくれた。
「あぁ、そばにいる。ずっとそばにいるから。」
魔法使いさんは、とても優しく言ってくれた。
強く握ってくれる手を握り返すと、とても温かくて幸せだった。
あぁ、私、幸せだった。
魔法使いさんと一緒にいた日々が、人生で一番幸せだった。
だから、私ー。
「忘れたくない…。魔法使いさんのこと、忘れたくないのに…。」
涙が頬を伝って落ちていく。
魔法使いさんがとても悲しそうな顔をした。
ごめんね、ごめんなさい。
忘れちゃって、ごめんね。
愛してた。今だって本当は、愛してるの。
忘れたくない。忘れたくないよ。
ねぇ、私の涙を拭ってよ。
魔法使いさん、もう一度、ずっとそばにいるって言ってよ。
抱きしめてー。
ーーーー。
ーーー。
ーー。
ー。
遠くから誰かの声がして、私は目を覚ました。
とても幸せで、とても悲しい夢を見ていた気がするけれど、思い出せない。
真っ白い天井を見上げていると、知らない人が、とても心配そうに私の顔を覗き込んだ。
その人は私のことを知っているみたいだけど、私は知らない。
あぁ、違う。確か、私の母親だとか言っていたな。それで、そこにいるお人形さんみたいに可愛い娘が妹なんだった。
私は、忘れてしまったんだ。
記憶障害の再発だって言ってたかな。
もう、どうでもいいけれどー。
だって、私は空っぽだから。
とても大切なことを忘れてしまった気がするの。
それは、私のすべてだったのに、消えてしまった。
「名前!!」
また誰かが私の名前を呼んだ。
その人が力強く私を抱きしめたとき、甘くて苦い紅茶の香りに包まれた。
私は記憶がないんだと母親という女性が言うと、その人は私から離れた。
白いカーテンを揺らす風が、その人のサラサラの黒髪を靡かせた。
気づいたら、私は彼の黒髪に触れていた。
紅茶の香りと柔らかい黒髪。
私、知ってる。この人のことを知ってるー。
忘れたくなかった。忘れたくなかったの、あなたのことー。